モップアッパー
同棲を始めたばかりの頃の鈴はまだぼんやりしたところがあったが、時間の経過によってだんだん元の調子に戻っていった。とりあえず今回は致命的な破壊にまで至らなくて本当に良かった。次に同じことをされても無事という保証は無いから気をつけないといけないけど。それに今の鈴にも大きな苦労がある。薬をやめたことで彼女は思うように眠れなくなったし、気分の浮き沈みも彼女を悩ませている。俺も色々と勉強してできる限り支えていきたいと思う。
いくらか生活が落ち着いてきた折に鈴とあの日のことを話す。確かめたいことがあった。
「自分で救急車を呼んでたんだな」
鈴はんーと声を出しながら記憶を辿って答えてくれた。
「よく覚えてないんだけどね。薬を飲んだ後に電話したのはなんとなく覚えてるけど、気づいたらしてたって感じだし何を話したかもあんまり覚えてない。よく住所を間違えずに言えたよね」
そう言ってふへっと笑う。その笑顔が記憶の中の菜桜と重なって、でも一瞬そう思った後にやっぱり違うなと思う。鈴は生きている。救急車を呼んだのは鈴の生きようとする意志だろう。人は自分でどう思おうと生きている間は生きようとする力を持っている。他人の解釈とか理想が入り込む余地を与えない自分自身として存在し続けるための力。
「じゃあ俺が救急車を呼ぼうとした時に止めたのは?」
「何それ。私がそんなことしたの?」
「四季はダメってすげえ拘ってただろ」
「わかんない。救急車を呼んだのは覚えてなくもないけど、そこから病院に着くまでの記憶は何も無いもん」
俺はそうかと言ったけど、あんなに強い意志を感じたのに覚えてないなんてことがあるだろうかとも思う。でも鈴に嘘をついている様子は無いし、これもきっと鈴の本能だったと思うことにする。願望だけど。俺は救急車を呼ばせてもらえなくて、目の前で鈴が死ぬことを覚悟させられて、冗談みたいな話だが決定的に恋に落ちた。あれが無かったら一時の盛り上がりで終わってしまったかもしれない感情が永遠に消えないよう焼き付けられた。あの出来事が俺に教えたことを言語化するなら、俺にとって鈴の死が切実な痛みであるという事実だった。今までも鈴の死は怖かったけど、それは単に菜桜と重なるからだと言い聞かせて目を逸らして向き合うことを避けていた。しかしその痛みを正面から体験させられたことが鈴との関係そのものまで変えてしまった。それが何度連れ戻しても火中へ走っていく鈴を命がけで連れ戻し続けるような傍から見て偏った関係だったとしても、俺にはギブアンドテイクで公正明大にイーブンで混じり気のない愛に包まれた関係なのだ。鈴は普通の物差しで測れば欠けていて歪んでいて不完全だけど、同じように不完全な俺の世界の中では彼女が唯一のまっすぐな女性で愛したいと思える存在だ。俺は鈴だけが自分の欠落を埋めてくれることを望んでいる。そして鈴が同じように持っている気持ちが愛されるために俺を痛めつけてそのことに気づかせたと思いたがっている。
クライマックスシリーズも終了して野球ファンがドラフトや日本シリーズに胸を高鳴らせる時期に衝撃的なニュースがあった。俺が二軍暮らしをしていた頃の恩師で、今年は東京ギガンテスの投手コーチを務めていた中谷さんが体調の不安で退団すると報じられたのだ。俺はすぐに予定を空けて花を買い、入院することになった彼を見舞うことにした。
「おう、四季か」
そう言って迎えてくれた中谷さんは恐れていたよりずっと元気そうだった。実は彼の病気は癌だったのだが、早期発見が功を奏したらしい。
「まだくたばらないでくださいよ。俺が1億円プレイヤーになるところを見てもらわないと」
「それじゃいつまで経っても死ねないじゃねえか」
「それだとすぐ死ねるじゃねえかって言うところですよ」
師匠と久々に交わす会話は楽しかった。俺の脳裏を数々の記憶が駆け巡る。中谷さんがトゥンヌスの二軍コーチに就任したのは俺が入団して2年目のことだった。ルーキーイヤーの俺は当時のコーチに投球フォームを否定され、アドバイスがしっくり来ないからと突っぱねて、でもなかなか登板の機会が回ってこないからコーチに従順になって気に入られた方がいいのかなんて考えていた。そんな時に出会った中谷さんは、これまでに接してきた指導者の中で初めて俺のフォームを肯定してくれた。他のコーチにもフォームを弄るなと言ってくれた。俺が菜桜とキャッチボールしていた頃から積み上げてきたものを認め、それを生かすためにどうするかという視点でアドバイスしてくれた。
「まあ今年のお前は頑張ったよな。あの頃からは想像できないくらい成長した」
「想像できないで指導してたんですか」
「お前はコントロールが滅茶苦茶だったからなあ」
高いところから投げ下ろすんじゃなくて高いところから高いところに投げてどうすんだよ。中谷さんの厳しい声が甦る。かつての俺は低めに投げることが苦手だった。高校までは高めのストレートを振ってくれるバッターが多かったからどうにでもなったが、プロではそうもいかない。そこで中谷さんが考案した練習は、投球時に踏み込む左足の50センチ前方に線を引いてそこにボールを叩きつけるというものだった。馬鹿みたいだと思った。プロにもなってキャッチャーミットではなく地面にばかり投げているのが恥ずかしくて仕方なかった。でも俺はフォームの恩もあるから彼を信じてその練習を続けた。だんだん線が前方に移動していく。最終的にはホームベースより遠い位置に引かれるようになった。そして俺は低めのストライクゾーンに投げられるようになっていた。
ピッチングを上達させる方法が試合と同じように投げ続けることとは限らない。常識に囚われず、頭を使ってお前に必要なものが何か考えろ。勉強は得意なんだろ?そう言って笑う中谷さんを俺は尊敬した。リリーフという道を指し示してくれたことも含めてプロ野球選手としての俺はこの人の存在で成り立っている。だからこの人との会話は特別だ。
「最終戦で大暴れしたんだって?お前な、それはいけねえよ。そういうのは周りの信頼を失うし、味方を信頼できないチームは個人プレーに走って弱くなる。特にお前は四季がいるから大丈夫だと思われることが大事だろ。この大馬鹿者が」
「すみませんでした」
俺は腰を直角に曲げて謝る。でも誤解を恐れずに言えば叱ってもらえるのも幸せだった。
「それで、どこでその話を聞いたんですか」
「この世界で何年やってきたと思ってんだ。こんな情報はいくらでも入ってくる」
だからいつでも見られてると思っておけよ。そう言った中谷さんの瞳が優しさの色を強めていく。
「四季の気持ちもわかるけどな。お前だけ後回しにされたのは冷たい話だと思う。ずっと地道に頑張ってきた中継ぎへのリスペクトが足りてねえんだ。選手を使う側も選手に信頼されなきゃいけねえってのに」
俺は心が軽くなっていくのを感じた。この人と巡り会えて良かったと思う。俺は周りの人に恵まれている。本当に。
中谷さんはこれからの野望も聞かせてくれた。彼は75歳で病魔に襲われながらも生きることへの希望を抱き続けている。
「こんなことになってすぐ現場に戻るってわけにもいかねえし、コーチの仕事ができないのは悔しいけどよ、これも糧にしなきゃいけねえと思うんだ。退院したら病気も含めて培ってきたことを還元したい。前にニッスポで連載させてもらったことがあるし、ああいう感じがいいな。コーチができなくなったら死ぬのと同じだと思うこともあったけどよ、今はこの立場でしかできねえこともあると信じてる。俺は現場を離れてもピッチャーを育ててやる。悩んでる奴の背中を押してマウンドへ送り出してやる。お前を教えた時に個性を生かす指導の大切さを改めて実感したからな。それを広めていこうと思うよ」
まるで野球少年のように瞳を輝かせて話す中谷さんを見た俺は負けていられないと思う。できるだけ長く現役を続けられるよう努力したいし引退した後も野球に関わっていたい。俺は中谷さんと同じく野球が好きだ。これからどんな苦労を引っ括めても好きと言い続けたいと思う。
そう言えば中谷さんにはこんな話をしてもらったこともある。炎天下の二軍球場で教えてもらった人生訓。俺はその大きな意義を数年越しに理解しようとしている。
「シーズンは大体140試合あって、優勝するためには80勝以上が目安になる。逆に言えば他の試合は負けられるし、どんなに強いチームでも50か60試合くらいは負けるんだ。優勝できるチームはいい勝ち方をするのと同じくらいにいい負け方をするチームでもある。いいか。50回は負けると思って一年を戦わなきゃいけねえのに、全部に勝とうとしてたら最後までもたねえんだよ。だからピッチャーの役割分担も考える必要がある。リリーフは勝ってる時に投げる奴が花だが、負けてる時に安心して任せられる奴もいないとチームが回らない。10点のビハインドで3イニングを投げてくれる奴、3点のビハインドで主力の代わりに1イニングを抑えてくれる奴、こういう奴らが勝利に貢献することはそう多くない。でもシーズンを通した真の勝者になるためには必要なんだ。だからどんな役割でも腐るんじゃねえぞ。順風満帆に見える奴も必ずそうじゃない時を乗り越えてる。そうじゃない時こそ本当の勝利に繋がってるんだからな」
俺はこの教えを大切にしていかなければならない。たとえセットアッパーやクローザーを任せられるようになっても胸に刻みつけておきたいと思う。これから先の人生で大変なこととか上手くいかないこともあるだろうが、そういう時に胸を張って
中谷さんは記憶の中だけでなく、この病室内でも素晴らしいアドバイスをしてくれた。彼は女ができただろといきなりの指摘で俺をドキッとさせた後にこう言ったのだった。
「守るべき存在があるってのは想像できないほど大きな力になりうる。大切にしてやれよ」
そんなことは既にわかっていた。でも俺には改めて教わる必要があった。中谷さんはそのことまでわかっていた。
「肝に銘じました」
俺は病室を出る前に窓辺に置いてきたフラワーアレンジメントを確認する。それを構成する花はアルストロメリアという名前で、店で見た時に気に入って選んだものだ。ひょっとして自分の部屋に飾る分も買っておくべきだろうかと思う。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます