治療

 東関東自動車道と首都高湾岸線を何度か事故りかけながらも走り抜け浦安に到着した俺は勢いそのままに鈴のアパートを目指す。アパートで目的の部屋の前に立ってみるともしかして鈴は別の場所で死のうとしているのではという考えが頭をよぎるが、そんなことを言っても仕方ないので電子ロックを解除して部屋へ流れ込む。洋室に足を踏み入れるとものすごく散らかっていた。何があったんだ。まるで泥棒にでも入られたみたいな……しかしそれよりもまずは鈴が重要なわけで、散乱した部屋の真ん中で倒れている彼女に駆け寄る。鈴!意識を失った彼女を見て身体が震え始めるが、ぐっと気合いを入れて脈を確かめるとまだ死んでいないことがわかる。外傷も見当たらないし自分を切ったり絞めたり侵入してきた何者かにやられたりしたわけではないらしい。ならどうして倒れてるんだ?推理するまでもなく錠剤を包装するシートが大量に落ちていることに気づく。中身は殆ど入っていない。これはODってやつか。オーバードーズの略だっけ?どうやってこれだけの薬を集めたのか不思議に思うが、俺のやるべきことはその答えを探すことではなく救急車を呼ぶことだ。今は鈴も生きているが一刻も早く医者に診てもらうべきだろう。そもそも球場を出る前に救急車でも警察でも呼んでおくべきだった。俺はスマートじゃなかった。気が動転していた。すぐ電話しないと。

「四季……?」

 天使のささやきみたいな声が聞こえて幻聴じゃないかと疑いつつ鈴の顔を見てみると意識が戻っていた。その瞳はうつろで危なっかしさを感じるがしっかり俺を捉えている。

「大丈夫か。いま救急車を」

「だめ」

 鈴は俺の言葉を遮ると弱々しく腕を伸ばしてスマホを持つ俺の右腕を掴んだ。掴もうとする時に何かがするりと彼女の手から落ちたが、それは背中の部分に“UMEHIRA”の文字と“63”の番号が刺繍されたレプリカユニフォームだった。それを握りしめながら倒れていたらしい。

「なんでダメなんだよ」

「だめ……なの……四季……は呼ん……じゃ……だめ」

 声が出しにくいらしく、鈴の言葉は途切れがちだった。

「だからなんで」

「なん……で……って」

 そのまま鈴は黙ってしまった。ぼんやりと俺を見つめている。そこでようやく彼女のまともではない状態を再認識する。今は正しく意思疎通できると思っちゃ駄目だ。

「とにかく呼ぶからな」

 すると鈴が痛みを感じるくらいの強さで俺の腕を握る。こんな状態でどこにそんな力があるんだ。

「呼ばないで」

「なんでだよ。約束だからか?そんなのもういいだろ」

「そうじゃ……なくて……四季は、だめ」

「俺以外ならいいのか?」

「四季……は……私のこと……好き……って」

「言ったよ。それがなんだよ。好きで死なれたら困るから呼ぶんだろ」

「好きな……ら……呼ば……ないで」

 鈴は俺の腕から手を放した。そしてその手で俺の頬に触れる。俺はいつの間にかまた泣いていて涙が鈴の手を濡らしている。

「私……が……死ぬと……こ……ちゃん、と……見て……て」

 そう言って鈴は笑って、再び意識を失った。俺の頬に触れていた手がべたっと床に落ちる。呆然。俺は鈴の傍らで膝をついたまま呆然としている。まだ死んでない。救急車を呼ばないと。頭ではわかっているのに身体が動かない。馬鹿馬鹿しい話だが動くことを鈴に禁じられてクソ真面目に従っている。彼女は今まで俺の行動を殆ど受け入れてくれたけど、今回だけは別だった。助けることすら望まれていない。苦しい。助けるべきだし助ければ俺も楽になれるが鈴に請われただけでそれができなくなる。胸が張り裂けそうな痛みと苦しみを感じながら、両手で鈴の右手を包み込む。

 そのままどのくらいの時間が経っただろう。長かったかもしれないし短かったかもしれない。俺の感覚では圧倒的に前者だ。世界の黎明から終焉まで全てを感じたような気がする。でもそこまで長かったはずはない。救急車は呼べば速やかに駆けつけてくれるものだし、俺の到着前に連絡を受けていたそれが来るまでの時間は短かったに違いない。鈴の右手を握っていた俺の耳にサイレンの音が聞こえたかと思うとすぐに救急隊員が部屋に入ってきた。俺は混乱しながらも自分が鈴と付き合っていて彼女が自殺すると言い出したから慌てて来たのだと説明し、付き添いとして救急車に乗せてもらう。搬送されている途中の鈴は何度か目を覚ましたが、薬の影響なのか興奮して会話できる状態ではなかった。言葉にならない叫びをあげて嘔吐する彼女を見て俺は恐怖した。こうやって鈴は凄絶に死んでいくのか?

 病院に到着した鈴は胃を洗浄される。鼻からチューブを入れて活性炭を溶かした洗浄液でじゃぶじゃぶと洗うらしい。それから鈴はあまりに暴れるという理由で拘束具を使ってベッドに身体を押さえつけられる。さらに点滴、導尿のカテーテル、何かを計測するための機械を繋がれていかにも生命を管理されてますという見た目になる。死ぬ前の菜桜にも近いものがあってトラウマを抉られた気分になる。

 鈴は眠っている状態からたまに目を覚ましては暴れて拘束を解こうとし、支離滅裂なことを口走ったかと思うとまた意識を失った。まあ死ぬ心配は無いでしょうと白髪の医者が言った。鈴は睡眠薬とカルバマゼピンなる薬を大量摂取して中毒症状を起こしたらしい。興奮して攻撃的な行動をとるのもその影響だという。部屋の惨状も彼女が暴れた結果だろうか。薬が抜けるまで数日は意識が戻ったり失ったりを繰り返し、それまで会話は無理だと医者に説明された。

 無垢で純粋で幼く見える鈴の寝顔を見つめる。愛おしさが湧いてくると同時に、その肌の透き通るような白さに彼女の存在がどんどん薄くなって消えてしまうんじゃないかという不安をかき立てられる。しばらくそうしていると、鈴のまぶたが開けられて焦点の合わない瞳が周囲を見渡した。幸運にも今回は激しく暴れようとはしなかった。

「鈴」

 なるべく優しく聞こえるように名前を呼ぶ。鈴の視線が俺に向いた。でもそれはそんな気がするってくらいの話でしかなかったし、彼女は俺を俺として認識しているわけでもなさそうだった。でも俺は構わないで声をかける。

「すごく心配したけど生きてて良かった。今まで色々とごめんな。退院したら今度は……今度は、ふたりで苦労しような」

 ぼんやりした表情の鈴を見て微笑む。

「今日は帰るよ。明日も来るから。またな」

 鈴は何も言わなかったが涙を流していた。それを胸が詰まる思いで見つめてその場を後にする。病院を出て乗り込んだタクシーから降りるまでずっともらい泣きを堪えなくてはならなかった。




 次の日も鈴と会話することはできなかった。午前中に球場で練習してから病院を訪れて看護師の話を聞き、鈴が相変わらずよくわからないことを喚いたり嘔吐したりしていたことを知る。自分の目で見た彼女は前日同様に眠りながら時折目を開けるという状態だった。意識が回復したように見えることもあったし実際に看護師が確認をしていたが、鈴はその途中でまた眠りに落ちてしまう。担当医の白髪男はそのうち目覚めるとやけに楽観したような調子で言っていたが本当かよと不安になってくる。おいあんたらちゃんと仕事しろよと真面目に働いている病院の人たちに失礼極まりないことを言いそうになるからそもそもの責任は自分にあると反省して踏みとどまる。

 入院から2日して鈴の意識が戻ってくる。でも俺を見たからといって嬉しそうに笑ってくれることはなかった。それどころの状態じゃなかったのだけど。鈴は看護師と会話してもまともな文章を口にすることができなかった。途切れがちに言葉を覚えたての幼子みたいな口調で話すのを見て、もしかして一生このままなのかと心配になる。他にもうがいをすると吐き出すためのトレーではなくベッドにべちゃべちゃとこぼしてしまうし、歩くこともできないから移動には車椅子を使っている。何気ない行動で何気なく生きることすら彼女にとっては高すぎる壁だった。

 さらにもう1日経って病院へ行くと、鈴は少しだけご飯を食べられるようになっていた。しかもかなりふらついてはいるが自力歩行できるようになっている。そして彼女は退院させられることになった。元々緊急で危険な状態の患者が運ばれる病院らしいから、回復したら長く居座るべきではないのだろう。

「退院したらいつも行ってる病院に行くこと」

 白髪の医者に言われて鈴は頷いた。いつも行ってる病院というのも鈴はとある病院の精神科に通っていて、今回のODもネットで買い込んだものの他にその病院で処方してもらった薬を使ったらしい。処方した医者もいい迷惑だろう。

「もうこんなことしたらダメだよ。彼氏さんも落ち込んでて可哀想だったよ」

 看護師に言われて鈴が俺を見た。

「ほんと?」

 そう訊いてくるので「ああ」と答える。




 精神科に持っていく紹介状を受け取り入院にかかった費用を払って鈴を退院させ、ポルシェを運転して次の病院を目指す。

「そういや家族には連絡したのか?」

「しない。あの人たち、嫌い」

「そうか」

 助手席に鈴がいて言葉を交わせることは嬉しかったが、彼女はまだぼんやりして眠そうだったので他にはあまり話さないまま目的地に辿り着く。受付を済ませ順番待ちをして鈴の名前が呼ばれる。行ってらっしゃい。四季も来て。ええっ。まあ彼女がそう言うなら仕方ないってことで医者の許可をもらって診察室に入れてもらう。鈴の担当医はシャープなフレームの眼鏡が似合う知的でハンサムな男だった。この病院に通っているうちに俺よりこの医者の方がいいなとか思ったこともあるんだろうかとくだらないことを考える。

「ODでもリスカでもね、こういうことってやればやるほど依存していくんですよ。やってる時は楽になるかもしれないけど、その後で苦しくなるんだから。薬で肝臓やられちゃった人もいるんですよ」

 鈴とのやり取りの中で医者がそう言った。俺は血の気が引く。鈴はどういうわけかえへへと笑う。それで医者に注意される。そりゃそうだ。

「どうしてこんなことしたの」

「死のうと思ったから」

「じゃあどうして死のうと思ったの」

 鈴の顔を見る。約束のことを話すのだろうか。鈴も俺の方を見た。視線が重なる。

「四季に好きになってほしかったから」

 医者が俺を一瞥して、また鈴に問いかける。

「死んだら悲しませちゃうでしょ。今もこうやって心配して来てくれてるのに」

 俺は自分にとって鈴の死がどういうものかと考える。鈴はその答えを知っていて死のうとしたのだろうか。俺と医者が見つめる中で鈴は俯き、淡々と、しかし何かに突き動かされるみたいに語り始める。

「好きになってもらうにはこれしかなかった。四季は妹さんのことが好きなんです。菜桜さんって名前で、小さい頃から病気で、中学生の頃に死んじゃって。四季は妹さんのことがずっと好きだったし、同じくらいずっと辛そうで心配って思ってたから、好きな気持ちと心配な気持ちがくっついちゃったんです。誰かを心配にならないと好きになれないんです。だから私が幸せになって死ぬのやめるって言って、心配してもらえなくなったらダメなんです。私はずっと四季に好きでいてほしいから」

 医者は俺に見透かすような視線を投げかけたが、俺には何も言わないで鈴に尋ねる。

「そう言われたの?」

「言われてない」

「鈴さんの考え?」

「うん。頑張って考えた」

 腕を組んだ医者が黙考する。そして彼は鈴の考えに触れないことを選んだ。頑張って考えた。プロとして彼女にはそれだけで十分だと判断したのだろう。

「わかりました。とりあえず薬を出すのはやめてしばらく様子を見ましょう。大丈夫?」

「うん」

「来週また来れますか?」

「来週は仕事……」

 どう考えても仕事なんかできる状態には見えなかった。俺は思わず休めと口を挟む。でも、と鈴が言った。でもじゃないよ。

「仕事はしばらく休んで俺の部屋にいろ。じゃないと俺が心配でおかしくなる」

 鈴のぼんやりした目が俺に向く。驚いているようだがそれを上手く表現できていないように見えた。

「いいの?」

「いいから言ってんだよ。先生的にはOKですか?」

 ええまあ、と言って医者は頷いた。

「仕事は最初から休職させるつもりでしたし」

 そして彼は鈴に向けてひとつだけ確認するよと言った。

「今も死にたいって思う?」

「ううん」

 鈴がかぶりを振った。

「また死にたくなっても我慢すること。そんなことしなくても鈴さんは好きでいてもらえるから。いいね?」

 俺が首肯したのを見て鈴も頷く。彼女の表情は眠そうで上手く動いていなかったが、少し笑ったような気がした。

 それから鈴は採血されることになってそれが済むと診察も終了となる。俺は部屋を出る間際に医者へ尋ねる。

「もし鈴の言ったことが当たっていたら、俺もここで治療してもらうべきですか」

 医者はじっと俺を見つめ、それから柔和に笑った。

「そのことで辛く思ったり困ったりするならいつでもいらしてください。ただ、私の考えを述べるなら、鈴さんも含めて性格になっているものは治せません。それは病気ではないですから。通院や入院で根本を変えるというものではないんです。鈴さんと付き合っていくなら互いに受け入れて、根気強く支え合いながら乗り越えていくしかないでしょう」

 俺は笑った。救いを与えられた者が見せる表情だ。医者の後ろに後光が差している。

「ありがとうございました」

 深々と頭を下げて診察室を出る。ロビーに戻って会計を済ませる。前の病院と同じく費用は俺が払う。年俸4000万だから。来年はもっと上がるから。病院を後にしてふたりで帰路につく。これから先の道には壁とか落とし穴とか荒波とか色々なものが立ち塞がる。ちょっとした覚悟が必要になる。でもそれ以上に素晴らしくて最高なものがたくさんあるはずだからきっと上手くいく。

 ポルシェを静かに運転しながら頑張って生きようと思う。俺は助手席で眠る鈴が目覚めるのを心待ちにしている。

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