決着

 コーチやチームメイトやブルペン捕手に頭を下げて謝った俺は、ブルペンの土にトンボをかけて登板の準備をやめた。モニターで試合を見ると根市が8回も三者凡退に抑えている。今までの彼は左肩の開きが早いせいで力が逃げてしまっていたが、今日はその悪癖が消えて体重が乗ったボールを投げられている。効率的なフォームで投げているから終盤になっても余力があって勢いが衰えない。このピッチングを見るに来年の根市は素晴らしい成績を残すだろう。そして今日のノーヒットノーランがその足がかりとなる。

 トゥンヌスの3点リードで迎えた9回表の守りが始まる前にブルペンを出て、内野スタンドと外野スタンドの間に作られたスペースへ移動する。登板する時にはリリーフカーに乗り込む場所だ。そしてリリーフカーがグラウンドへ出入りするための扉となっているラバーフェンスまで歩く。このフェンスは一部が金網張りの四角い穴になっているので、内側からグラウンドを覗くことができる。登板前に球場の雰囲気に慣れるため、準備の合間にこの穴から試合を観戦する投手も多い。まあ今みたいに最終回で出番が無さそうなら普通はベンチに帰るんだけど。でも俺はあれだけ暴れ回った後で気まずいからここで試合を見る。球場は異様な雰囲気に包まれている。そのど真ん中で仁王立ちして偉業に挑む根市。羨ましい。

 チーターズの攻撃が始まる。根市が投げ、バッターがゴロを打ち、内野手がそれを捕球し、送球が一塁手のミットに収まり、塁審がアウトを告げる。そんな特筆すべきことも無いゴロアウトがふたつ続いた。しかし他愛もないワンプレーの度に観客はどよめいた。誰もこの試合が順位を決定させたチーム同士の消化試合という事実を覚えていない。くだらないことには構わず夢中になっている。今シーズン59試合に登板してきた背番号30のリリーバーも年老いたアイドルのように忘れられている。

「1番、センター、春山」

 最終回、ツーアウト、ランナーなし。一瞬の静寂に包まれたグラウンドに千葉マリン名物のアナウンスが響き、春山さんがこの日4回目のバッターボックスに立つ。4年前には143試合で216安打を放ったアベレージヒッター。今日の根市からヒットを打てるのは彼しかいない。球場のボルテージは最高潮を迎えた。全身に鳥肌が立つ。死ぬまで記憶に刻まれっぱなしの景色と歓声と五感だけで説明できない雰囲気がここにある。俺はそれをフェンスの穴から金網越しに見つめている。

 根市は初球にフォークを投げた。ストライクからボールになる軌道。普通はスイングしても当たらないこの変化球に、春山さんのバットコントロールは対応してしまう。当たってもそんなに低い球がヒットになるわけないのに。平凡なゴロが一二塁間に転がる。セカンドの高村たかむらさんが捕球体勢に入っている。ボールがグラブに収められ、それをすくい上げた高村さんが一塁に送球する。春山さんがベースを踏む前にファーストを守る猪原さんが送球をがっちり受け取った。塁審が宣言する必要も無いほど明らかなアウト。根市のノーヒットノーランはこうして達成された。歓声と歓声と大歓声。他には何も聞こえない。聞こえないから水越コーチは声をかけるのではなく肩を叩くことで俺を振り向かせた。ブルペンに戻ると彼は口を開いた。

「最終戦のセレモニーがある。ベンチに戻るぞ」

 俺は力なく頷いた。どうして今日が最終戦なんだろう。誰とも会わず早く球場から逃げたいのに。明日も試合があればセレモニーなんかしなくて済む。明日も試合があれば俺は60試合目の登板ができる。でも今日がシーズンの最終戦だった。




 セレモニーが終わり、監督室で池口監督と吉田コーチに頭を下げた。監督は来年こそ60登板できるように頑張れと言った。来年。来年ね。来年があればね。謝罪も終わって帰り支度をしようとしていると、根市が俺の元へやってくる。煽りに来たのだろうか。

「あの、今日は梅さんが60試合目の予定だったんですよね。途中で俺を交代させるかって話もしたけど断ってくれたって聞きました。すいませんでした。それと、ありがとうございます」

 そう言って根市は深々と頭を下げた。俺は無理に口角を引き上げる。

「気にするなよ。ノーノーなんてすげえじゃん。一流のピッチャーでも難しい記録なのにさ。いいもの見せてもらったよ。おめでとう」

 右手を差し出して根市の右手を堅く握る。一片のわだかまりも無いというパフォーマンス。でも考えてみれば最初からわだかまりなんて生まれようが無い。ノーヒットノーランなんてやろうと思ってもできないし、誰もこんな結末を予想できない。誰にも責任は無くて、ただ俺の運が少し足りなかっただけの話なのだ。

 全てが終わって駐車場のポルシェに乗り込む。シートに座ると鈴から電話がかかってくるので感心してしまう。今日はセレモニーもあって球場を出る時間を予測するのが難しかっただろうによくもまあドンピシャのタイミングを当てられるものだ。

「四季?今日でシーズンも終わりだね。お疲れ様」

 そうだな。疲れたよ。鈴の声はいつもと変わらないように聞こえた。俺は本当に疲れている。去年より7試合も多く登板している。去年は8月が終わる頃にはクライマックスシリーズ進出も絶望的だったが、今年は途中まで優勝争いをして最終盤まで3位を狙える緊張状態が続いていたからか身体の負担も強く感じた。

「60試合、惜しかったね」

 何より俺を疲れさせたのはそれだ。目標も無く疲れないよりは良かったのかもしれないけど。

「あんなことになるとはな」

「そうだね。私もびっくりした」

「運が無かったんだな」

 鈴が黙った。違うだろ。そうだねアンラッキーだったねって笑うところじゃん。それより早く会いに来てとねだるところだろ。

「なんか言えよ」

「……四季、ごめんね」

 謝るところでもねえよ。

「こういう不運が起きないように約束したのに」

「ただのおまじないだろ。こういうこともある」

「本気だったもん。四季の役に立ちたかったの」

「はいはい。鈴は十分に役に立ったよ。59試合で28ホールドだぞ。かなりいい成績だろ。目標よりいいシーズンだったって」

「でも60試合じゃない」

「そこまで厳密じゃなくてもいいだろ。60試合に投げて打たれるより50試合で抑える方がチームのためになるし」

「約束は60試合だよ。できなかったから私は死ぬ」

「なんなんだよ」

 腹の底から不快な熱が沸いてくる。

「単に死にたいだけなの?それとも構ってほしいから言ってんの?ちゃんと行くから大人しく待ってろよ」

「死にたいわけじゃない。でもここで死ななかったら、私が本気じゃなかったから四季の目標が達成できなかったことになっちゃう」

「ならねえよ」

「なるの。だから死ぬ」

 その声の揺るぎなさに俺は言葉を失う。鈴はおかしい。狂ってる。知ってたけど。お前おかしいよと片付けるのは簡単だが、問題はそこじゃなくて彼女が本気ということだ。死ななければいけない理由を明確に見出してしまった人間に何を言えばいいのか。答えを見出せないのが苛立ちを加速させる。

「ごめんね」

 鼻をすする音が聞こえた。

「泣くくらいなら死ぬなよ」

「泣くくらい四季が好きだから死ぬの」

「意味わかんねえよ。好きならこれからも一緒にいればいいだろ」

「私にはそんな価値なんか無い」

 鈴の中での衝動はどんどん大きくなっていた。ひくっひくっえぐっとかずずっずずずっとか泣いている時の音がひっきりなしに聞こえるようになって、やがてうわーんと声を上げて泣き出した。

「価値なんてこれから見つければいいだろ。だから死ななくてもいい」

「でも嘘つきになりたくない」

「そんなこと思わないから」

 電話の向こうで鈴が首を横に振った。そんなものわかるはずが無いのだが俺にはわかった。俺は鈴がそうすることを知っている。でも自分がどうすればいいのかわからない。

「四季、今までありがとう」

「やめろ」

「私、四季が優しくしてくれて――」

「やめろ!」

 自分で思う以上の大きな声が出た。俺にその言葉は重すぎる。

「優しいわけねえだろ。お前は俺のどこを見てるんだよ」

「四季は優しいよ。冷たくしたり酷いこと言ったりもするけど、会いたい時は会ってくれるし、誕生日もお祝いしてくれるし、私が死ぬのを嫌がってくれる」

「本当に優しい奴はもっと優しいんだよ」

「それじゃ足りない。四季じゃなきゃダメ」

 鈴は毅然と言い切った。

「それに私は四季以外の人に同情されたくない。好きでもない人を満足させる惨めな女になりたくない。私がそれを許すのは四季だけ」

 四季、好きだよ。鈴がそれまでと一転した柔らかい声で言った。俺は何も返せなかった。ただ泣きながらそれを聞いている。

「みんなが私のことを面倒とか変とか言って離れていった。でも四季だけはそばにいてくれたんだよ。だから四季が私の全部。四季のことが好き。すごく好き。大好き」

 鈴はそう言って笑ったはずだった。その表情は透き通るように美しいことだろう。彼女がまとっているのは死という概念が持つ儚さだから。でも俺はそんなものを求めていない。鈴には生きていてほしい。菜桜のように俺の内なるトラウマにはなってほしくない。実の妹ならともかく鈴にそうなられるのは迷惑だ。いやいや。この期に及んでこんな言い訳はみっともないな。俺は菜桜のことを抜きにしても鈴には死んでほしくない。だって俺も鈴のことが好きだ。もしかしたらそれは可哀想な彼女への同情でしかないのかもしれないし同情させてくれる彼女に甘えるのが心地良いだけかもしれないけど、鈴に四季がいてくれたらそれでいいと言ってもらえなくなったら困る。誰も信じてくれないだろうけど俺は鈴が俺を見て幸せを噛み締めている表情が好きだし、これからも幸せをたくさん感じてほしいと祈っている。鈴に100の幸せを与え続ける自信が持てなくてマイナスから0に戻すことばかり繰り返していたけど、これからはもっと上手く愛せるよう努力したいと思っている。だから死なれるわけにはいかない。

「鈴。都合のいいことを言いやがってと思うかもしれないけど、俺は鈴のことが好きだ。愛してる。鈴が俺を好きって言ってくれたのが過去形じゃなくて今もそうだったら一緒にいさせてほしい。それで動物園でも海でも映画館でも行きたいところにふたりで行こう。たくさん遊んで色んな思い出を作ろう。だから、だから死ぬなよ」

 そして俺は祈る。何もかも上手くいきますように。鈴が生きたいと願って、幸せを感じ続けられますように。いつまでも鈴と互いを好きでいられますように。

 しばらくして鈴が口を開く。彼女はゆっくり、ひとつひとつの言葉を慈しむように言った。

「ありがとう。すごく嬉しい。私、本当にダメな人間だから四季がいてくれるだけでいいって言ってたのに、本当は愛されたいと思っちゃって、いつも好きって言われる妄想して、そうじゃない現実が辛くなって、四季に愛されない自分が嫌で、それが嫌になる贅沢な自分も嫌で、ずっと自分のことが嫌いだったけど、それも吹き飛んじゃった。幸せだよ。夢が叶った」

 えへへ、と鈴の笑い声が聞こえた。俺の表情も柔らかくなる。

「だからね、私、これで思い残すこと無く死ねるよ。四季に会えて良かった。私の好きは現在形で、今も昔もこれからもずっと好きだよ。バイバイ」

 えっと言う時間すら与えず電話が切れる。すぐにかけ直すが応答は無い。なんで。なんでなんでなんでなんで。俺の言葉は信用してもらえなかった?鈴は嬉しいと言ってくれたけど、やっぱり今までに彼女を傷つけすぎて心から一緒にいたいとは思ってもらえなかった?日頃からもっと鈴を大切にしないからこうなったのか。菜桜を失って心に穴を抱えたまま生きてきた俺の前に神様の贈り物みたいに現れて俺を好きになってくれた鈴。俺は彼女を愛していて、だからしっかりつかまえて大切にしなければならなかった。そうしないで俺が殺した。また殺した。菜桜を殺したというのは理不尽に死んだ妹の人生に俺の存在をくい込ませたいという願望が混じっているのかもしれないけど、鈴に対しては疑う余地も無く俺が殺した。

 比喩でも何でもなく視界が真っ暗になる。絶望の底が見えた。そこにあるのは菜桜と鈴がいなくなった未来で生きていくことへの恐怖だった。想像するだけで叫びたくなるような地獄に囚われたまま死ぬまで生きていかなきゃいけないのか。ふっ、ふへへ、ふひゃ、はっと気味の悪い笑い声が聞こえる。現実逃避しようとする俺自身の声だ。やめろ、こんなの聞いてたら頭がおかしくなる。おかしくなりかけてるから笑ってるんだけど。急いでカーステレオの電源を入れて車内の沈黙を打ち破る。流れた曲は『フィガロの結婚』の『そよ風に寄せて』だった。俺が千葉マリンスタジアムで投げる時の登場曲。大好きな『ショーシャンクの空に』の劇中でも使用された美しい歌声のアリア。聞いていると小さな箱に無理やり詰め込まれていた心が解放されていく気がする。そして俺は映画で見たティム・ロビンスの姿を思い出す。

 俺は幕張のオペラリリーバー梅比良四季だ。どんなピンチでもマウンドに上がることを厭わずチームを数々の窮地から救ってきた。祈ることしかできない他の人々と違い、マウンドで打者と戦って自分の力で希望を切り開いてきた。こういう時こそ強気にならなきゃリリーフはやっていけないし、実際に今までそうしてきたのだ。俺はポルシェを発進させるとアクセルを踏み込んで一気に加速させた。

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