4章 さあ目を開けろ
獣
ドライブデートが終わってマンションの駐車場まで戻ってきた俺は先に佳愛ちゃんだけ降ろして帰宅させ、車内でラッキーストライクを一本吸ってからポルシェを降りる。駐車場を出て、マンションの建物には向かわずに路上駐車しているワゴン車にひらひらと手を振ってやる。するとそのワゴン車からカメラを肩にかけた男が降りて俺の元に歩いてきた。白い開襟シャツの上に黒いジャケットを羽織ってこれまた黒いスラックスという彼の服装はフォーマルな印象で清潔感もあるが、前髪が禿げかけているのを中途半端に隠そうとする髪型と曲がった背筋がそれを打ち消して胡散臭さを漂わせている。
「初めまして。トゥンヌスの梅比良選手ですね。私はこういうものです」
低く唸るような声の男から名刺を受け取る。週刊真相なる雑誌の記者で
「で、よく撮れました?」
杉原は俺の要求に応えカメラのプレビュー機能でそこに収められた写真データをいくつか見せてくれた。車内に乗り込もうとする俺と佳愛ちゃん。運転しながら談笑する俺と助手席の佳愛ちゃん。
「写真上手いっすね」
「それはどうも」
「いや本当に上手」
俺は杉原の横に立って彼の肩に手を置いた。身長が10センチほど高い相手にそんなことをされたからか、杉原は身体を強ばらせている。取って食おうってわけじゃないんだからそんなに怖がるなよ。
「ずっと尾行してたなら俺とあの子がやましいことしてないのはわかりますよね。そもそも俺みたいな未婚の選手が休養日にデートするくらいじゃ大したネタにもならないでしょ。不倫してるわけじゃあるまいし」
顔を覗き込んでやると杉原は目を逸らした。
「記事にはするなと?」
「それはもちろんだけどそれだけじゃ足りない。写真があなた方の手元に残ってるんじゃ不安ですから、メモリーを渡してください。タダとは言いませんから」
杉原の細い目が鈍く光った。現金なんだから。
「いくつかあなた方が喜びそうな話を知ってます。教えてやってもいいですよ」
ククッと下卑た笑いが聞こえた。
「チームの仲間でも売る気ですか?」
「そういうことです。心苦しいけど俺はチームの一員である以前に個人事業主です。いざとなったらどんな手を使っても自分を守らなきゃいけない」
俺はワゴン車に乗せてもらって杉原と運転席にいたもうひとりの記者にチームメイトの不倫話や今シーズンでFA権を取得した主力選手が既に某チームと接触して移籍濃厚であることを教えてやった。この情報を元に取材を進めればよほどのヘボ記者でない限りはいい記事を書けるだろう。
リークを終えて約束通りにメモリーカードを受け取る。
「コピーとかしてないでしょうね」
「してません。それは約束しますよ。梅比良選手はキス写真も撮れずがっかりしていた私たちを救ってくれた恩人ですから」
「あなた方に仁義があるのか疑わしい気はしますけどね。とりあえず頼みますよ」
俺はワゴン車を降りて発進した車が見えなくなるまで見送った。それから自分の部屋に戻り、もらったメモリーカードのデータをノートパソコンで確認する。大量に撮影されたデートの写真はどれもプロの技を感じさせるものだった。パーゴラの下で海を眺めながら語り合う俺と佳愛ちゃんを後ろから撮った写真なんて週刊誌の記事というより恋愛映画のワンシーンみたいな出来栄えでよっぽど手元に残して部屋に飾っておきたくなったが、その気持ちはぐっと堪えてカードを叩き割りゴミ箱へ流し込む。こんな写真が残っていたら鈴が何を言い出すかわからない。処分できて良かった良かった。同僚には悪いことをしてしまったが不倫だのタンパリングだのバレたら困ることをしている方が悪い。そのうち盛大なブーメランになりそうだけど。
チーターズに一矢報いて勢いづいたトゥンヌスはそのまま3位をキープして下克上を果たすべくクライマックスシリーズに乗り込むはずだったのだが、儚く無情な現実はそういう陳腐で安易なストーリーを許さない。トゥンヌスはチーターズ4連戦の後に3試合を戦ってどれも敗れた。おまけに3位争いのライバルことケルベロスはその間に4試合を戦って全てに勝った。ケルベロスに0.5ゲーム差をつけて3位だったトゥンヌスは、逆に3ゲーム差をつけられて4位に落ちたことになる。残りの試合はトゥンヌスが3試合でケルベロスが2試合。俺たちが3連勝してケルベロスが2敗しても2.5ゲーム差しか返せない。この時点で今シーズンのトゥンヌスは4位が確定し、クライマックスシリーズ進出の可能性も完全に消滅したわけだ。
プロ野球選手である以上はチームの優勝、優勝が無理でもなるべく上の順位、できることなら3位以内を目指してプレーしているから俺はこの結果が悔しかった。マジで悔しかった。悔しいという言葉を100回言っても足りないくらい悔しかった。俺の情報を元に週刊真相の記者が取材を敢行してチームに動揺が走ったことが3連敗の一因になったかもしれないがそれはさておき悔しかった。しかしいくら悔しいと嘆いても起こったことは変わらないし時間は容赦無く流れていく。事実を受け止めてまた歩き出すしかない。状況をポジティブに捉えてみる。順位が確定したということは、残りの3試合はある程度勝敗を度外視して個人成績を意識しながら試合に臨むことができる。俺はチームが消化した140試合のうち59試合に登板している。監督やコーチは60試合というキリのいい大台のために登板機会を与えてくれるはずだ。これで鈴との「約束」も果たせる。まあ鈴は今でもこのことを話題にしていないし、仮に果たせなくても死にはしないんじゃないかと思っているが達成するに越したことはない。
まず141試合目は北海道ソルジャーズとの対戦だった。監督やコーチは残り3試合で個人記録に配慮してくれるだろうが、配慮してもらえる選手はもちろん俺だけではない。例えばこの試合に先発した仁木は今シーズン9勝を挙げていて、この試合で勝てば栄えある二桁勝利の達成者になる。だから監督たちは是が非でも勝たせようとした。ピンチを迎えてもそこから打たれない限りは投げさせ続け、仁木もその期待に応え9イニングを1失点でまとめた。しかしソルジャーズの先発で今季15勝を挙げている
翌日もソルジャーズと対戦する。この試合には今シーズン通算で140イニングを投げている津久井さんが先発した。投手には規定投球回というものが存在して、そのシーズンの試合数に1.0を掛けた値、すなわち今年なら143イニングがそれに当たる。この規定投球回を投げることは一年間頑張って長いイニングを投げたという勲章であり、先発投手にとってはひとつの大きな目標となる。それで津久井さんは3イニングを投げたところでマウンドを降り、2番手で138投球回の金沢さんが登板した。もちろん彼も5イニングを投げる。そして4-1と3点リードで迎えた9回表には3番手で今季29セーブの安田さんが登板してソルジャーズ打線をねじ伏せた。こうして津久井さんと金沢さんが規定投球回に到達し、安田さんが30セーブと記録の見栄えを良くした。しかし後回しにされた俺は59登板から変わることなく最終戦を迎えてしまう。うーん。
まあ登板数は仁木の勝利数や安田さんのセーブと違って、チームの勝敗に関係無く達成できる記録だ。残り試合がひとつでもあるなら達成を疑う余地は無い。だから俺は千葉マリンスタジアムで最終戦の先発マウンドに上がった高卒3年目右腕の
「あああああああボケボケボケボケこのクソボケ!バカアホボケクソッタレ!ファックファックファック!いつになったら俺の出番になるんだよ!なあ!おい!」
突如として発狂した俺にリリーフ仲間たちもブルペン担当の
「落ち着け梅比良。根市は1本でも打たれたら交代だ。そうなったらお前に投げさせる」
水越コーチが俺をなだめた。でも焼け石に水とはこのことで沸き上がる感情は収まらない。
「じゃあこのまま打たれなかったらどうするんですか。俺の出番は来ないですよね。60試合投げられないですよね。どうするんですか?ねえ!」
「仮に投げられなくても監督や吉田さんにも頼んで球団にかけ合おう。年俸の査定は60試合に投げたのと変わらないようにしてもらう。まず落ち着いてくれ」
「金の問題じゃないんだよ!」
自分で叩きつけたドリンクボトルを拾ってもう一度地面に投げつける。被っていた帽子も投げる。グローブも投げようかと思ったが菜桜の名前から一文字もらって“桜”と刺繍してあるのでやめておく。仕方ないからボトルを拾って投げつけ、投げつけては拾って投げつけるのを繰り返す。クソクソクソクソクソクソ!俺の60試合登板!鈴との約束!俺は憤怒の化身として暴れ回る。その後ろにブルペン捕手の
「おい、放せ、放してくださいよ」
「冷静になれ梅比良。お前の肩はボールを投げるためのものだ。そんなもの投げてどうする」
「わかってるよ!俺は試合でボールを投げたいんです。でも投げさせてくれないじゃん!なんで俺だけ後回しなんだ。なんで俺だけこんな仕打ちを受けるんだ。俺が何したんだよ!ねえ!教えろよ!なあ!」
俺は駄々をこねる子どもみたいに叫んだ。ずっと閉じ込めていた反抗期の俺が叫んでいた。頭の中には冷静な俺もいてお前は週刊誌に仲間を売ったじゃねえかとも言っていたけどそんなの些細な問題だった。俺は怒りたかった。怒らなきゃいけなかった。ここで矛を収めて現実に納得した気分になるのはもう耐えられなかった。
吠え続ける俺の元にリリーフ仲間として苦労を共にしてきた安田さんが歩み寄る。
「お前の悔しさはわかる。こういう状況になったのは前の試合で俺を優先してもらったからでもあるし、それは謝る。だからここは堪えてくれ。ブルペンは撮影されているし、ベンチのモニターにも映る。下手したらこれがテレビで放送されるんだぞ。お前の選手生活に影響するかもしれない」
「そんなの知るかよ!」
俺は安田さんの優しさを拒絶した。彼は俺のためを思った理屈を話してくれた。でも感情に飲み込まれた獣に理屈は通じない。
「あんたは抑えだ!リリーフで一番華々しい仕事だ!だからわからねえんだよ!俺が先発の勝ちを守るために、あんたのセーブ機会を確保するためにどれだけ必死にやってきたかわからねえんだよ!別に感謝されたいわけじゃないし、地味でもやりがいがあるからいいけど、なんで、最後まで、こんな…………」
これ以上は言葉が続かない。ただただ荒い呼吸が漏れていく。ここに来て俺は60試合という数字が自分の中で想像以上に大きな意味を持つことに気づき始めていた。俺の仕事は勝利やセーブといったわかりやすい数字に表れにくい。リリーフのためのホールドという指標もあるけど、安田さんやディッキーに比べれば負けている場面で投げることも多いからそれが全てを評価してくれるわけではない。だから投げるだけで増える数字だけど登板数が確実な名誉だった。鈴が変なことを言い出すから意識せざるをえなかったこの数字が今年の俺を支えてくれていた。この約束は果たさなきゃいけなかった。でも、それが不可能なことを受け入れ始めてもいる。
「ウメヒラさん……大丈夫ですか……」
ディッキーが心配そうに見つめてくる。
「ははっ、アイムオーケー。俺は元からこうだし歪んでるのが正常だよ」
俺は暴れるのをやめた。中池さんに解放されて、そのまましゃがみこんだ。何もかもがどうでもいいと思えて全身の力が抜けていた。水越コーチが声をかけてくる。彼はいつの間にかベンチの吉田コーチと電話を繋いでいたらしい。
「梅比良。俺も吉田さんもお前の働きに感謝している。それなのに60試合登板を後回しにしてすまなかった。この状況は俺たちのミスだ。だから今回のお前の言動は規律違反だが目をつぶろう。そして吉田さんは、根市の結果に関わらずお前を投げさせていいと言っている。根市を含め他の誰にも文句は言わせない。投げるか?」
俺は水越さんを睨む。この場にいない吉田さんを電話越しに睨む。ふざけた質問しやがって。ちくしょうちくしょうちくしょう。
「投げます」
そう言って俺は笑った。本当は泣きたかった。どうしてこんなに惨めなんだ。開幕からここまで自分なりに頑張った。菜桜と同じ病気の人たちのために1試合でも多く投げようと思っていた。鈴が死なないように目標を見据えていた。そんな俺の今シーズンにはどんな意味があったんだろう。
「なんて言えるわけないでしょ。コーチたちがチーム内で俺を守ってくれても、自分の記録のために後輩のノーヒットノーランを潰すような奴をファンが応援してくれますか?投げられないです。やめてくださいよ。選ばせるふりして俺が断ったって形を作るような真似は」
しゃがんだまま俯く俺をブルペンにいる人々が見下ろしていた。憐れみを向けられている。惨めだ。
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