価値
所沢での4連戦が終わった翌日は試合も行われず完全な休養日になっていた。普段なら球場に行ってランニング中心の調整をすることもあるが、前日の試合で足に打球を受けたのもあってこの日は部屋でのんびり休むことにした。しかし昼頃になるとアスリートの性か身体を動かしたくなって散歩でもしようかという気分になってきたので、部屋を出てエレベーターに乗り込む。目的の1階に到着して扉が開くと、その向こうに立っていた少女とばっちり目が合った。
「梅比良さん?」
「佳愛ちゃん」
少女が表情を輝かせる。
「私の名前覚えてくれてるんですね」
俺はエレベーターを降りて微笑んだ。
「まあね。大事なファンだから」
「わあ。トゥンヌスは箱推しだったけど、梅比良さん単推しにしちゃおうかな」
佳愛ちゃんが可愛らしく首を傾けて笑った。俺もはははと声を上げる。
「私服みたいですけどお買い物にでも行くんですか?」
「今日は何もない日だし、特に目的も無いけど散歩でもしようかなって」
「束の間の休息ってところですか。いいですね。私もご一緒したいな……なんちゃって」
「俺も一応プロ野球選手だからね。誰が見てるかわからないし、佳愛ちゃんにも迷惑をかけちゃうかもしれないし」
ですよね、と言って佳愛ちゃんは寂しそうに俯いた。目の下にはうっすらと隈が見える。
「というかさ」
俺は佳愛ちゃんの服装に目をやった。胸元にフリルが付いた白い襟付きのブラウスに淡い色のデニムパンツ。可愛い。でも今日は平日だから本来なら高校の制服を着ているべきなんじゃないだろうか。
「今日もサボり?」
「創立記念日なんですよ」
「そうなんだ」
「すみません。嘘つきました。普通にサボりです」
「おい」
「ふふっ。私、不良なんですよ」
明るく話す佳愛ちゃんはあまり不良生徒には見えなかった。
「学校に行くことが良いとも限らないよ。でも不良だって言うなら……知らない人の車に乗ってみる?」
言った後であれっと思う。何を言ってんだ俺は。どうもこの子の前では余計なことを口走る傾向にあるらしい。
「いいんですか?」
本当は良くない気がするけど俺から誘ってしまったので首を縦に振るしかない。
「やった。乗ります乗ります」
「じゃあ車の鍵を取ってくるから待ってて」
もう一度エレベーターに乗って自分の部屋に戻り鍵を持ってまたエレベーターで1階に移動して佳愛ちゃんと合流する。駐車場に行ってポルシェに乗り込み佳愛ちゃんを助手席に乗せて愛車を動かす。さて、どこに行こうか。佳愛ちゃんはそのへんをふらついて昼食も終えた帰りだと言うから美味しいものを奢ればいいというわけにもいかない。ヤシの木を植えて南国っぽさを出してる浦安の街並みを適当に眺めて総合公園にでも行くか。近場だし彼女にとって特別でも何でもないかもしれないけど大事なのはどこに行くかより誰と一緒に何をするかだ、と言ったら傲慢だろうか。
「梅比良さんはこうやって女の人をデートに誘って落とすんですね」
「そういうことにしておこう」
「今は彼女さんとかいるんですか?」
「いないよ」
「そうなんですか」
「うん」
「そっかあ」
「佳愛ちゃんは付き合ってる人とかいないの?」
「いないです。フリーですよ」
「そう」
「訊いてきた割にそっけないですね」
「だってそういうつもりで訊いたわけじゃないし」
「むう。じゃあどういうつもりなんですか」
「高校生の甘酸っぱい話とか聞けるかなって」
「学校サボってる人にそんなの期待しないでくださいよ」
「ごめんごめん」
「梅比良さんはそういう話たくさんありそうですよね」
「ないよ」
「本当ですか?でも梅比良さんはモテますよね?」
「そんなことないって」
「ふうん。お金持ちってだけでモテそうなのに」
「結局は金かよ。というかお金持ちではないし」
「今年の年俸は?」
「4000万」
「えー!彼女いないなら私と付き合いましょうよ。女子高生ですよ。ピチピチ」
「こら」
「いいじゃないですか。こうやって車に乗せてくれたんだし」
「佳愛ちゃんはさ」
「はい」
「学校に行かない理由とかあるの……って訊いても平気?」
「いきなりですね。でも大丈夫です。どう話そうかな。普段は行ってるんです。たまにサボるだけで」
「うん」
「私、好きな子がいるんです」
「そうなんだ。甘酸っぱい話あるじゃん」
「もう。当事者にとってはそれどころじゃないんですよ」
「かたじけない」
「でもその子は私のことを好きになんてならないんです。そういう風には見てくれません。梅比良さんも同じチームの人に好きと言われたら困るでしょ?」
「まあ……」
「なんで私はその子を好きになったんだろう、どうして私は女に生まれたんだろうって思いますよ。そこを呪いたくはないんですけどね。こうやってメンヘラ化するのがサボる理由です」
「そっか。その子には好きって言った?」
「言ってないです。なんとなく伝わってるのかなって思うことはありますけど。普段は仲良しの友達なんですけど、たまにあっ、距離を置かれたなって瞬間があるんです。ある部分より先に踏み込むと私が入っていい場所じゃなくなるんでしょうね。あの子が望むのは私じゃなくて、普通の恋愛だから」
「普通の恋愛、か」
「はい。梅比良さんも普通の方がいいですよね」
喉元に言葉が詰まった。すぐには答えられない。俺は鈴との中途半端な関係を続けるより普通の恋愛をしたいと思っている。佳愛ちゃんも肯定を求めて質問している。でも俺は敢えて逆のことを言いたくなっていた。単純にひねくれているからか。それともそうすることが俺や佳愛ちゃんにとって特別な意味を持ちうるからなのか。
「梅比良さん?」
「ああ、ごめん。どうなのかなって思ったんだよ。男と女で付き合ってれば何でも普通ってわけでもないし。そもそもこの人が普通って人はいないじゃん。だから誰でもどこか歪んでて、恋愛も普通なんて存在しないのかもなって」
「じゃあ梅比良さんも歪んでるんですか」
「俺?俺はね、女の子が苦しむのを見るのが何より大好きな極悪非道のサディスト」
「自分でサドとか言ってる人は大体自意識過剰ですよ」
「そっか。ならいいんだけど」
「昔の彼女さんにでもひどいことしたんですか?」
「想像に任せるよ。で、佳愛ちゃんの話に戻るけど」
「うっ」
「俺はちゃんと好きって伝えるべきだと思う。そうやって誰かを本気で好きになれるのはきっとすごく貴重なことだから」
「振られたら?」
「すごく辛い」
「そんな他人事みたいに。他人事ですけど」
「振られたら辛いしその辛さを想像するだけで辛くなる。佳愛ちゃんが告白するのはそういうリスクを背負うってことだね。でもそれは背負うべきリスクで感じるべき辛さなんだよ。その子は佳愛ちゃんと付き合ったら普通じゃない恋愛をすることになるんだよね。そのことで悩んだり辛い思いをするかもしれない。だから佳愛ちゃんも辛いのに耐えて告白して、ふたりの間にはそうやって耐える価値があることを示さなきゃいけない。どんな苦労にも痛みにも打ち勝って幸せになろうとするのが恋なんだから」
「意外とロマンチストなんですね」
「ロクな恋愛をせず憧ればかり強いとこうなる。参考にしないことだね」
ポルシェは浦安の街をしばらくアテも無く走り回り、やがて青々とした芝生が広がり海を一望のできる総合公園に辿り着く。土日は多くの家族連れがピクニックを楽しんで賑わっているが、平日に来るとかなり空いていて解放された印象になる。
「うわあ。懐かしいなあ。子どもの頃に家族で来たことがあります」
「そうなんだ。楽しかった?」
「うーん。小さい頃の話だからちゃんとは覚えてないですけど、たくさん松ぼっくりを拾ってた気がします」
松ぼっくりを求めてあちこち歩き回る幼い少女を想像して微笑む。それを見失わないよう気をつけながらニコニコ笑って見守る両親。どこかにシートを敷いて母親が作ってくれた弁当をみんなで楽しく食べ、少女は休むことなくまた走り出す。公園に設置された木の遊具で遊び倒そうとするけど、今では大した高さでもないつり橋を怖がってしまう。遊び疲れた頃に父親が運転する車で家に向かう。少女はすやすやと眠り、両親はその寝顔の愛らしさを話題にしている。
「梅比良さーん」
佳愛ちゃんが俺の顔のすぐ近くで手のひらを振っている。いかんいかん妄想に耽りすぎた。
「ものすごく放心してましたよ。運転で疲れました?」
「大丈夫。ちょっと考え事してただけ」
俺は笑う。それが苦笑いになったのは照れ隠しと同時に自分の無意識に戸惑っていたからだ。さっき俺が想像したのは幼い頃の佳愛ちゃんではなかった。俺自身の記憶だ。幼く愛らしい少女は菜桜で両親は俺たち兄妹の両親でそれを見つめている俺。これは4人の家族の幸せな思い出で、けれども菜桜があんなに元気に走り回れたことは無いから純粋な記憶だけでもなくて、もっとたくさん菜桜と思い出を作りたかったという俺の理想も混ざっている。無意識が生み出した幻想の景色。
ちょっとあそこまで行こうかと海を展望できる位置に設置されたパーゴラを示して歩き出す。そこにあったベンチに座って海を眺め、俺たちは色々なことを話した。佳愛ちゃんの日常について聞く。恋愛だけじゃなく友人との関係でも彼女は悩んでいる。彼女とその友人たちは友情で結ばれた関係なのか、それとも友人というロールプレイをしているだけなのかわからなくなって悩んでいる。家族とも仲は良いけど不満が無いわけではない。佳愛ちゃんは高校を卒業したら一人暮らしをして東京の大学に通いたいと思っているけど、両親は難色を示している。確かに高校もサボってふらふらしてる娘に一人暮らしさせるのは不安だよなあ。
俺も自分のことを話す。ティーンの佳愛ちゃんが持つこれから先の長い現実を生き抜く力を信頼して話す。シーズンもこの時期になると身体が重くて仕方ないとか、球団にバレたら困る隠し事がいくつもあるから肝を冷やしてるとか、他の誰かをもっと真っ当に愛したいという願望とか。
「妹がいたんだ。中学生の時に死んじゃったけどね。俺はその妹にすらまっすぐ愛情を持てていたかわからない。優しい自分を演じるのが楽しかっただけじゃないのかって」
「どうでしょうね。誰かに優しくするのがすごく快感な時も確かにありますし」
佳愛ちゃんは視界いっぱいに広がる絹織物みたいに日光を反射してきらきら輝く海を見つめていた。綺麗とか美しいとかそういう言葉がちっぽけに思えるほど綺麗で美しかった。海も佳愛ちゃんの横顔も。
「でも梅比良さんがやるべきことならはっきりしてると思いますよ」
「そうかな」
「はい。辛いかもしれないけど、今のまま妹さんへの愛を疑い続けることです。それが嫌になって、こんな思いをするくらいなら愛してなかったんだと開き直ろうとするかもしれません。でも梅比良さんが本当に愛していたなら、疑問をねじ伏せて自信を持って愛していたと言える日が来ると思うんです。もしその愛に辛さを耐えても守る価値があるなら」
俺は呆気にとられ、それから肩をすくめた。感じるべき辛さがある、か。
「いい気になって言ったアドバイスを返されちゃったね」
「ふふふっ。そういうことです」
佳愛ちゃんが立ち上がる。黒髪が潮風になびいている。
「私に振られることを覚悟して告白しろって言ったんだから、梅比良さんも耐えなきゃダメですよ」
「ああ」
「じゃあ私はちゃんと好きって伝えます。もし振られたらベッドで慰めてくださいね」
「それは断る。振られたらひとりで泣いてまた告って泣くんだな」
意地悪く笑ってやると佳愛ちゃんはぷくぅと頬を膨らませた。可愛い。
「サディストめ」
「そう言っただろ」
佳愛ちゃんの視線が公園の方に向いた。その瞳にはきっと俺の想像とは違う純然とした彼女の思い出が映っている。
「ありがとう梅比良さん。今日はすごく楽しかった」
「なら良かった。辛いことも苦しいことも痛いことも乗り越えられるかわからないけど頑張れよ」
「はい。背骨が折れるくらい胸を張って生きますよ」
その言い回しが可笑しくて俺は笑った。けれどもそうだね。人目も内心も無視して自分と自分の大切な何かのために堂々とするべき時もあると思うよ。
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