3章 楽しい思い出はどこへ

逆転

 プロに入って8年目のシーズンは順調に進行していた。俺は7月上旬に前半戦が終了した時点で、チームが消化した81試合のうち33試合に登板している。全143試合で58試合ほどに登板するペースだ。これから先発投手に疲れが見える時期になり中継ぎ投手の出番が増えることを加味すれば、60試合登板は十分に射程圏内と言える。ただ登板しているだけでなく成績も2勝0敗13ホールドで防御率2.53と悪くない。

 鈴も「約束」の話をしてくることはなかった。もしかしたら既に忘れているんじゃないかと思うし忘れていてほしいと思う。あの時の本気の眼差しを思い出すと楽観ばかりもしていられないという気分にはさせられるが、過度に気にすることなく日々を送れていた。

 前半戦が終わればオールスターが開催されるが、俺は出場選手に選ばれなかったのでその期間を休養に充てて後半戦の開幕に備える。その休暇の初日にゴミ出しをしようとしていたら同じマンションに住む女子高生の佳愛ちゃんと久々に出くわしてシーズン中に4日間も試合が無いと過ごし方がわからないんだよねハハハなんて話していたのだが、それも今は昔という感じであっという間にオールスターが終わって後半戦が始まって7月から8月に移り変わっている。プロ野球はお盆も書き入れ時のひとつで、今シーズンはその時期に9連戦が組まれていた。池口いけぐち監督も吉田投手コーチも9連戦だぞ、この9連戦が勝負だぞと選手に発破をかけていた。特にこの連戦のうち最初の3試合は本拠地の千葉マリンスタジアムで首位の埼玉チーターズを迎え撃つことになっている。我らがトゥンヌスはチーターズを3ゲーム差で追う2位。ここで3連勝すれば追いつける。少なくとも2勝できれば優勝へ向けた流れが見えてくるだろう。

 そんなわけで今日から9連戦だ頑張るぞと目覚めた朝、スマホに球団広報の梶本かじもとさんからメールが届いていた。何事かと思って読んでみると、既に知っているかもしれないがあるニュースに関して取材される可能性が高いから対応を考えておいてほしいという内容だった。こうやって選手とマスコミの関わり方に気を配ってくれる広報がいると試合に集中できるからすごくありがたい。梶本さん万々歳。しかしそんなことばかりも言っていられない。ニュースの中身が問題だった。丁寧な仕事ぶりのメールにはそのニュースを取り上げたネット記事に飛べるリンクも貼られていて、それをタップすると見出しが表示された。

<難病ファルコン症候群の治療に光 既存薬が動物実験で有効>

 記事によれば日本の複数の大学による合同研究チームが世界で初めてファルコン症候群の治療薬の候補を発見したらしい。遺伝子操作でファルコン症候群を発症させたマウスに別の病気の治療で使用される既存薬を投与すると遺伝子発現の異常が改善され、重大な症状だった臓器の機能低下も抑えられたという。これまで対症療法しか行われてこなかった治療を大きく進歩させうる発見だと語る大学教授のコメントが紹介されていた。

 この記事を読んだ俺の心理状態は動揺そのものだった。なぜなのかわからない。これは嬉しいニュースのはずだ。この薬が実用化できると決まったわけじゃないしできるとしても時間がかかるだろうが、完全な暗闇で1メートル先が見えるようになったような喜ぶべき出来事には変わりない。それなのに俺の気分は乱されてしまっている。あまり嬉しくない。こういう進歩のために寄付とか啓蒙活動もやってきたのに。まだ先が長いから実感を持てていないのか、あまりに喜びが大きいから混乱しているのか、それとも今更だと思っているのか。もう菜桜が死んで10年以上も経っているのに、と。

 寝起きの頭をかち割るような衝撃ですっかり目が覚め、そのまま朝食の準備に取りかかる。朝は和食派。白米、納豆、味噌汁、焼いた鮭にほうれん草のおひたし。今日はどれを食べても味がよくわからなかったけど。




 試合前には梶本さんが予想していた通りにファルコン症候群のことでコメントを求められた。支援活動も行っている研究が新たな一歩を踏み出したということで嬉しく思います。僕もこの病気で妹を亡くしていて、一日でも早い治療法の確立を祈っています。これからも研究者や治療にあたる方々、そして患者の皆様やそのご家族は苦しい戦いが続くと思いますが、少しでも力になれるよう自分も頑張っていけたらと思います。そんな風に話す自分を内面から冷ややかに見つめる別の自分がいた。なんでお前はそんなことを言っているんだと問われている。俺も問い返してやりたくなる。お前はどうして喜んでくれないんだよ。

 その日の試合に先発したのはプロ15年目を迎えたベテランの津久井つくいさんだった。9連戦の初戦とあって可能な限り多くのイニングを投げる期待をかけられていたが、序盤からコントロールが悪く6回4失点という彼にしては微妙な成績でマウンドを降りた。それでもトゥンヌスは打線が奮闘して6回までに6得点を挙げ、2点をリードした状態で7回表に突入した。

「トゥンヌスのピッチャー、津久井に代わりまして、梅比良」

 幕張の空にアナウンスが響いて今シーズン42回目となる俺の出番がやってきた。ユミちゃんが運転するリリーフカーに乗ってマウンドへ向かっていく。いつも通りに頑張ってくださいと言ってくれたユミちゃんにうんとだけ言って車を降りる。登場曲のオペラが聞こえていた。脳の半分だけ眠ってしまっているみたいに気分がふわふわして落ち着かない。吉田コーチやチームメイトたちが声をかけてくれたし自分も少しは返事をしているはずなのにその内容は何も記憶に残らない。

 狙ったところには殆ど投げられないまま投球練習を終えてバッターと対峙する。まずは3番打者のはやし。身体は小さいが豪快なフルスイングで痛烈な安打を量産する天才的な打撃のキャッチャーだ。こいつは苦手なんだよな。ボール、ボール、ボール、ボールフォア。ストレートのフォアボール。あっさりランナーを背負ってしまった。

 続く4番の海川うみかわさんには3球目を右中間へのヒットにされた。一塁ランナーの林が一気に三塁まで進む。タイムがかけられ吉田コーチがベンチから慌てて飛び出してきた。大丈夫かいな。調子悪いんか?俺は素直に良くないと答えた。どっか痛めてるんとちゃうやろな。そうじゃないんでどうにかなるよう頑張ります。吉田コーチは頼むでと言った。

「初球の入り方に気ぃつけとけや」

 試合が再開されて5番の中原なかはらさんが打席に立つ。過去に6度もホームラン王に輝いたプロ野球の歴史上でも屈指の長距離砲。丸々とした風貌はいかにもパワーヒッターだが、その打撃は力だけでなく柔らかさも兼ね備える。低めに投げてもコースが甘くなれば容赦なくスタンドへぶち込まれる。

 キャッチャーの村田が送った初球のサインに頷く。内角低めのストレート。しかし実際に投げてみるとボールは低めを突きながらも真ん中寄りのコースへ向かっていった。容赦なくスタンドへぶち込まれるコース。乾いた音が響いて打球がバックスクリーンへ一直線に飛んでいく。センターの荻山さんはそれを追いかけもしなかった。中原さんの今シーズン21号逆転スリーランホームラン。

 トゥンヌスのベンチからまた吉田コーチが出てきた。池口監督も出てきた。ピッチャー交代が告げられる。たったひとつのアウトも奪えなかった俺は吉田さんの髭面を一瞥してマウンドを降りる。脳裏に渋い声が甦った。

「初球の入り方に気ぃつけとけや」

 そういやそんなこと言ってましたね。

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