自覚
大事な試合で今シーズン初めての敗戦投手となってしまった俺は試合が終わるなり早く帰ってしまおうと思ってそそくさと着替えてポルシェに乗り込むがシートに腰を下ろした瞬間にスマホが着信を告げる。こんなタイミングで電話をしてくる奴はひとりしかいない。
「もしもし、四季?」
「ああ。試合をぶち壊したクソリリーフだよ」
不機嫌さを隠さず言ってやると鈴は沈黙した。何か励ましの言葉を考えているのが電話越しでも伝わってくる。だが俺が求めているのはそういうものではなかった。
「今日の試合見てたのか?こういう時くらいそっとしておこうとか思ってくれないのかよ」
「ごめんなさい」
でも会えなかったら死にたくなる。だよな。わかるわかる。
「行くよ。行けばいいんでしょ?行きます行きます」
「あの、嫌だったら今日じゃなくても」
「うるさいよ。本当に行かなかったら後で何を言い出すかわかんないじゃん。なんで好きでもない女に振り回されてるんだろうな。あーあ」
鈴は何も言わない。これは期待通りの反応だった。
「まあいいや。今から球場出るから」
電話を切ってすぐにポルシェを発進させる。運転していてアクセルをぎゅううううっと踏み込みたい衝動に駆られる。誰かを轢き殺さないよう注意しないといけない。
アパートに到着して部屋の扉を開けるとすぐに鈴がやってきて来てくれてありがとうとか言ってくる。カビだらけのパンにものすごい勢いで食いつく犬みたいだった。俺は舌打ちだけして洋室に足を踏み入れ、座椅子に腰を下ろしてラッキーストライクに火をつけた。その正面に鈴が座ってこちらへ視線を向けていたが、それを見ていると理由も無くイライラしてくる。
「やっぱり帰るか」
「えっ?」
「こんな不機嫌な顔でいられても嬉しくないだろ」
俺は立ち上がって玄関へ歩きかけた。すると思いのほか強い力で腕を掴まれる。
「大丈夫だから。私は四季が来てくれただけで嬉しい。だから帰らないで」
「……………………」
「四季が帰りたいなら、仕方ない……けど」
嘆息して元の場所に座り直す。鈴の表情が花開くように明るくなった。
「なんで俺なの」
鈴は唐突な質問を理解できていないようだった。小首を傾げる姿が腹立たしい。
「前はともかく今の俺は鈴のこと好きじゃないしこれからも好きにならないよ。他の女とも寝るしそいつらとならドライブしたり飯に行ったりもする。お前が喜ぶことは何もしない。それなのにどうして俺にこだわるんだよ。何がそこまでさせるんだ」
今更何言ってんのと言いたげな丸い瞳が俺を見つめていた。鈴は俺の何を見ているのか。
「私には四季しかいないから」
真剣な表情で鈴は言った。そんなわけないだろと思う。視野を広げて少しの我慢を覚えたら俺よりまともな恋愛対象なんていくらでもいる。
「どうしてお前はそこまで――」
「いいんだよ。私は四季が来てくれたらそれでいいし、四季は来てくれるもん。他に何もいらない」
鈴の視線が壁に飾られた色紙に向く。チーム名のところが少し滲んだ不完全なサインが書かれている。
「私は四季じゃなきゃダメなの。全部の思い出が四季のことを大好きにさせるから」
そう言って鈴は笑った。彼女は満たされていた。俺のせいでこうなったのか。自殺するという脅しに屈してずるずると関係を続けたからこうなったのか。鈴が喜ぶことを中途半端にやり続けたからこんな、こんな可哀想な女になったのか。
「馬鹿じゃん」
俺は苛立っていた。治療薬の話を知った時の得体の知れない不快感が胸に残っている。大切な試合を自分が台無しにした事実に折り合いをつけられないでいる。
「いつまでもそんなこと言ってられるわけないのに」
煙草を灰皿に押し付けて潰した俺は、立ち上がって鈴の腕を掴み彼女のことも無理やり立たせた。そのまま乱暴にベッドへ投げ出してやる。苛立ちを全てぶつけてやるつもりだった。
鈴の上に覆い被さり服を脱がす。俺もズボンを脱ぎ、ぼんやりこちらを見上げる鈴の身体が慣れるのを待たずに挿入してしまう。
「痛っ……」
思わず声をもらした鈴の表情が苦悶に歪む。それは俺を高揚させた。音を立てて軋むベッドが壊れてもお構いなしという勢いで腰を振る。必死で痛みに耐える鈴の表情はあまり見たことが無いものだった。これで俺のことを嫌いになり始めるだろうか。
けれども鈴は「四季」と言って、「すごい」と言って、「もっと」と言う。俺は自分が気持ち良くなるためだけに鈴を犯していて彼女のことなんか考えていないけど、鈴はそんな俺を受け入れている。受け入れるしかないのだろう。受け入れなかったら彼女の世界には他の誰もいないのだ。可哀想に。可哀想に。……可哀想に?
興奮が思考を押し流して頭の中が真っ白になる。気がつくと俺は射精して鈴を抱きしめている。いつもなら一度やればそれで満足するのに今日はまだ足りないという気分になっていた。すぐに二回戦が始まる。ひたすら欲望をぶつける俺に鈴が「好き」と言った。知ってる。俺も……俺は好きじゃないか。でも何かが芽生えていた。俺は自分の中に隠れていた何かを見出そうとしている。
濃密な時間を終えて部屋を出て、疲れきった足腰をどうにか動かしアパートの近くに停めていたポルシェに辿り着く。運転席に座ると鍵を回さずハンドルを両手で掴んで額もそこに押し付けた。そのまましばらく黙っているとほろりと涙がこぼれていく。鼻水が出てきて嗚咽も込み上げる。泣くのはいつ以来だっけ。去年
俺が泣くのは愛を感じてしまったからだ。可哀想な鈴を、というより鈴が俺に抱かせる可哀想という気持ちを愛してしまったからだ。しかしそれは今日に限った話ではなかった。3年前に鈴が死ぬと言い出した時、俺は彼女を可哀想だと思った。俺と別れてから新しい彼氏を作って立ち直るでもなくクリスマスイブで寂しさに耐えきれなくなって死のうとするなんて不憫だと思った。それから俺は鈴が可哀想であることを願い続けた。俺は誰かを可哀想だと思うこと自体が好きなのだ。鈴との幸せだったはずの恋愛が上手くいかなかったのは幸せだったからだ。あの合コンの夜、あるいはその前から鈴を可哀想だと見なしていて、付き合っているうちにそう思えなくなったから愛せなくなった。だから鈴を好きにならず可哀想なままにしようとする。一方的に愛される男というポーズをとろうとする。最低だった。俺は馬鹿野郎だ。こんな風にしか誰かを愛せないのか?そもそも俺が愛しているのは誰かという自分の外の存在ではなく、誰かを可哀想と思うことで得られる優越感じゃないのか?それは自己愛でしかない。俺は26歳にもなって自分以外を愛することもできないのか。
身体が震えて勝手に妙ちくりんな声も出てきて涙が止まらない。これが鈴との関係だけの話ならまだいい。良くないけどまだいい。俺は他の全て、俺を取り巻く全てのものにこの自己愛ジャンキーっぷりを発揮してるんじゃないかってことが問題だった。プロ野球選手としての俺はここ4年ほどリリーフに専念している。リリーフは性に合うと思っていた。しかしそれも結局は自分以外の他者を可哀想と思いたいだけじゃないのか。他のピッチャーが作ったピンチを凌ぐためマウンドに上がる時、球場には独特な雰囲気が流れている。ピンチを作ったピッチャー本人を始めとするチームメイトや監督やコーチやファンの人たちが一様に祈っているからだ。俺はピンチをどうにかしたいと願いながら自分ではどうすることもできない彼らを可哀想だと思っているのだろう。そうすることで誰かに頼られる自分という実感を得ることができるから。
ファルコン症候群の治療のために寄付したり患者とその家族を試合に招待したりもしてきたけど、それだって可哀想な人たちに救いの手を差し伸べる俺という目に見える形が欲しかっただけじゃないかと思う。これだけは絶対に違っていてほしいけど。これらの活動の根底にあるのは菜桜の存在だ。俺の大切なたったひとりの妹。ほぼ歳の差も無く長い時間を一緒に過ごしてもうひとりの俺みたいな存在になっていた妹。彼女への思いだけは純粋なはずだ。けれども俺はやはり自分を疑う。俺は生まれた瞬間からねじ曲がった人間で、人生のほぼ全てが可哀想だった菜桜への自分の優しさに浸っていただけかもしれない。彼女にすらまっすぐな感情を向けたことが無く、勉強を教えたのも料理を覚えて振る舞ったのも本を読み聞かせたのも彼女を背負って公園に連れていったのも全てが自己愛でしかないとしたら。
呼吸が苦しくなってくる。涙の海に心が沈み溺死しそうだった。助けてくれ。
「うぐっ。違う。違うんだ。俺は、菜桜を、菜桜だけは、ううっ、う……。はあっ、くそっ、俺は……」
誰に言ってるのかも何を言いたいのかもはっきりしないが言葉を吐き出さずにはいられなかった。涙を流して言い訳しないと自分が壊れてしまいそうだった。ごめんなさいごめんなさいぼくがわるかったですゆるしてください。誰かに怒られて謝った記憶はあまり無い。でもそうしたくてたまらなかった。
弱さをさらけ出した心は加速度的に弱くなって救いを求め始める。そして俺は救いの天使に出会う。天使は上から降ってくるものだと思っていたけど本当は下にいた。俺の下で全てを受け入れて優しく微笑む俺の天使。潜在的に渇望して欲するものが何でもそこにあると思わせるほど完璧で満ち足りた鈴とのセックスの記憶。俺はそれに救われようとしている。
「違う……はっ……菜桜、ごめん、俺は……ごめん……」
ごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめん。菜桜、こんなお兄ちゃんでごめん。菜桜が憧れた未来を生きているはずなのにこんなんで本当にごめん。俺は泣いて謝り続ける。記憶の中の菜桜はいつまで経ってもあの笑顔で、そのことが余計に俺の胸を締めつけ続けていた。
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