約束
鈴との関係が肉体的にのみ戻ってきた俺の元にトラブルが3つくらい降ってくる。
まずは鈴が引っ越してきたことだ。彼女は浦和のアパートを引き払って俺が暮らす浦安にやってきた。わざわざ転職までして。思い返せば付き合っていた頃の鈴は色々な資格を取得するために勉強していると言っていた。その理由はいつか今の仕事をやめるためと言っていたし嘘ではないのだろうが、最大の理由はこうやって引っ越す時のためだったんじゃないだろうか。浦安でも西宮でも札幌でもアナハイムでも俺が行くところで暮らしていくつもりだったに違いない。
「私の部屋で会ってくれるんだもんね」
鈴は“私の”を強調して言った。口約束の一言一句なんて覚えちゃいないが浦和のアパートでしか会わないと言っておけば良かった。このせいで移動の都合で浦和に行けないという言い訳が使えなくなった。
ふたつ目のトラブルは鈴が再び自殺未遂を起こしたことだ。彼女からの呼び出しを特に理由も無く無視したことがきっかけだった。明日にでも適当に言い訳して謝っておこうと思っていたのがショートケーキにバケツいっぱいの砂糖をぶちまけたくらい甘かった。スマホの液晶に表示された悪夢のような通知がど真ん中に失投した時と同じ寒気を食らわせてくる。
「いきてるいみもないのでしにます」
「しきにもあえないし」
「がまんできなかった」
「ごめんなさい」
鈴はそれだけ送ってきて俺からのメッセージには反応しなかった。電話をかけても出ない。
ごめんなさいじゃねえよクソボケ!
救急箱を持って車に乗り込む。風邪をひいたとかうっかり転んで擦りむいたとか鈴がまたやらかしたとかそういう時のために用意しておいたものだ。役に立つかわからないけど。
運転しながら送られてきたメッセージを思い出す。いきてるいみもないのでしにます。一度くらい無視されただけでそんなこと言ってんじゃないよと思うが、彼女にとってはそれだけじゃないのだろう。これまでの人生で数え切れないくらい自分を否定されてきて、最後に残ったのが俺だったのだ。そうなった原因は鈴自身にもあるはずだし彼女が悲劇のヒロインというわけでもないのだが、結果的には俺の行動が追い打ちをかけてしまった。鈴は最後のチャンスを守り抜くために俺が出した条件を律儀に守って決して無理な呼び出しをしなかった。今日だって彼女の部屋に行くことはできたし行かないにしても連絡はするべきだった。必要以上に苦しめる理由など無かったのに。
鈴の部屋に入ると彼女はただでさえ傷だらけの右腕に新しい切り傷をこさえてそこから血をだらだらと流していた。傍らに落ちている包丁でやったらしい。幸いにも本人は生きていて意識もはっきりしていた。
「四季……」
俺は胸の内の感情が憎しみと安心のどちらかわからないまま鈴を見下ろす。
「たった一度無視されただけだろ。こんなことするなよ」
「一度じゃないもん。7回も電話したのに出なかった」
それもそうなんだけどさ。
「今日みたいな日もあると思ってほしかったけどな。まあ悪かったよ」
傷口を洗面所で洗ってから救急箱のガーゼで抑える。最初は俺が抑えていたが上目遣いで見上げてきてえへへと笑うのが気に入らなかったので自分で抑えさせる。傷口が心臓より高くなるよう腕を上げさせてしばらく待つと血が止まった。救急箱の中には消毒液と包帯もあったがここから先は本職の人に任せた方が良いような気がしてきたので病院へ向かうことにする。
「四季の車に乗るの久しぶりで嬉しい」
「それどころじゃないんだよ」
「ごめんなさい……」
病院で鈴は4針を縫うことになる。傷は深かったが動脈に達していないのが不幸中の幸いだったらしい。自分で切っておいて不幸もクソもあるか。
「今日はありがとう」
帰りの車中で鈴が言った。元はと言えば俺のせいでこうなったので感謝されると背中が痒くなる。
「無視して悪かったな。これからはしないから」
鈴が俯く。その表情は暗い。
「私なんかに何回も呼ばれて迷惑だよね」
「迷惑だからやめてくれと言ったらやめるのか?」
「そうなったら……」
「生きてる意味も無いから死ぬ?」
小さな首肯。俺は溜息をついた。
「いいよ。もう諦めてるから。自分でもどうしようもないんだろ?どうにかしろとは言わねえよ」
「うん……。ごめんね。私、本当に……どうしようもなくて……」
「仕方ない仕方ない。今くらいのペースなら会いに行くから」
小さな声でありがとうと言うのが聞こえた。俺は助手席の鈴を一瞥してこう付け加える。
「恋人になれとか言われたら無理だけど」
バックミラー越しに再び鈴の表情を見れば僅かに曇っている。やっぱり元の関係になることを期待しているんだろうか。そのうち鈴が恋人になれないなら死ぬとか言い出したらどうしようかと思う。嘘でも恋人としてやっていくしかないのか。けれどもその関係を続けていたら俺は彼女を死に追いやるような何かをしでかすと思う。愛を持たない恋人は不幸そのものだ。
最後となる3つ目のトラブルが発生したのは俺がプロ入り8年目のシーズンを迎えようとしていた頃、つまり今年の3月だった。その前の2月に始まった石垣島での春季キャンプや練習試合を終えて久々に千葉へ帰ってくると待ってましたとばかりに鈴の呼び出しを受けた。それで一発やってラッキーストライクを吸っていたら鈴がとんでもないことを言い出した。
「私、四季が60試合投げられなかったら死ぬ」
ごほっごほっぶえっ。煙が変なところに入った。
「なんて?」
「四季が60試合投げられなかったら――」
「もういいわかった。聞き間違いじゃなかったんだな」
「うん」
鈴が晴れやかな表情で頷いた。頭のネジが飛んでんじゃないだろうか。
「理由を聞こうか」
「四季の役に立ちたいの。ベースボールエンペラーのインタビュー読んだよ。今年は60試合に投げるのが目標なんだよね。私もその目標を叶えたい。人の命がかかってたら叶うかなって」
記憶を辿る。ベースボールエンペラーの取材は確かに受けた。60試合以上は投げたいとも言った。去年から1試合の登板につき3万円をファルコン症候群の研究のために寄付していて、より多くの金額とするために去年の52試合を超える60試合に投げたいと言ったことを覚えている。
「目標を達成しないとお前が死ぬから肩がぶっ壊れても投げろと?」
「そうじゃないよ。四季は私が何かしなくても頑張るでしょ?」
そりゃ元からお前のためにやってるわけじゃないしな。
「頑張ってほしいというより守りたいなあって。四季が投げる展開にならないとか、それこそ肩を壊しちゃうとか、そういう不運なことがあったら嫌だもん。だからこうやってお祈りするの」
久々にロックの口癖を思い出す。アワーファーザーフーアート……。
「命がけの神頼みってか?お前も神とか信じるんだな」
「そういうわけでもないけど人の力でどうしようもないこともあるから。だから私は祈るし捧げられるものは捧げる。明確な相手はいないけどね」
「意味が無い。不幸なんて起きる時は起きる。それだけだ」
「不幸が起きた時は私の命に四季の役に立つだけの価値が無いってことだよ」
鈴の瞳は真剣だった。何を言っても再考などしてくれそうにない。だから俺は早々に諦める。彼女との関係は諦めの上に成り立っていた。
「そうか。そうなんだろうな。わかったよ。もう勝手にしてくれ。ひとつだけ確かめさせてもらうけど、そういうことを言うなら俺が60試合に投げられるか決まるまでは今までみたいに死ぬとか言わないんだよな」
「それはわかんない」
「お前な。60試合の前に死なれたら意味ないだろ」
「だって急に四季と会うの我慢できるようにはならないもん」
「お前は役に立ちたいのか足を引っ張りたいのかどっちなんだよ」
役に立ちたいんだよ、と鈴が言った。人に死なれるのが怖い人間に対して死ぬと言って行動を支配しようとしている者の言葉とは思えない。しかし彼女は本気だった。自分が本気なら運すら操れると信じていた。この死にたがりめ。
「じゃあそれでいいよ。でも目標が達成できなくてお前が死んでも責任は取らないからな」
「最初から取ってほしいなんて思ってないよ」
そう言って鈴は笑った。
「四季が60試合投げられなかったら死ぬ。約束だよ」
頭が痛い。お互いの利益を守るために交わすのが約束じゃないのか。その約束は誰も得をしない。
でも冷静になればそこまで重く考える必要も無いんじゃないかという気分になってくる。シーズンが終わるのは半年以上も先だし時間が経てば鈴だって自分で言っていることのしょうもなさに気づくはずだ。それまで今まで通りに会い続けていれば満足してくれるんだろうし。
結局は自分の存在を少しでも俺の中に植え付けようとしてこんなことを言い出したのだろう。くだらない。実にくだらないがこんなことをしなければ自分を維持できないらしいから仕方ない。いつも鈴は自分の存在意義を守るために存在を貶めている。本末転倒。そんな存在意義なんて捨ててしまうべきだ。それもできないとは可哀想に。
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