模造品

 俺は鈴に何を言うべきだろう。彼女に死なれるのは迷惑だ。だから命を粗末にするなとでも言っておけばいいのかなと思う。道徳的だし。でもその叱責はきっと本物ではない。自殺なんて馬鹿馬鹿しいことはやめろと言う俺は心の中でその言葉を疑ってしまう。鈴が死のうとしたのはもはや死ぬよりほかないと思ったからだ。それに対する生に祝福された人間の一般論は意味を持つだろうか。俺は菜桜のこともあって人の命は尊く貴重なもので全てを捨ててでも守り抜くべきものだということを知っているけど、その菜桜ですら死を願ってしまったことがあるのだ。彼女はたった一度だけ、俺とふたりきりの病室で「死にたい」と言った。薬で髪が抜けて骨と皮だけみたいに痩せてそれでも苦痛は消えなくて身体を動かすこともできず無理やり生命を維持させられて治る見込みも無い病気と闘い続けることに耐えられなくなり「死にたい」と言った。あの時の俺は何も言えなかった。伝えるべき言葉が、伝えたかった言葉があるのに言えなかった。でもあの状況で何かを言うなんて無理だったとも思う。まっすぐ死の深淵を見つめる瞳は問答無用に言葉を飲み込ませる。生は素晴らしいもので失わないよう努力しなければならないが、本気で死を願う者の意志も否定することはできない。俺には鈴のための言葉を用意しておくことなんて不可能だ。

 ベランダから室内に戻って63という背番号が刻まれたユニフォームを眺めていると、シャワーと着替えを済ませた鈴がやってきた。彼女は疲れきった表情で座椅子に腰を下ろして俺の顔を見た。

「予定があるんじゃなかった?大丈夫?」

「大丈夫じゃないけど断ったよ」

「私のせい?」

「そうじゃなかったらこんなところ来ないだろ」

「ごめんなさい」

 ぺこりと下げた鈴の頭からうっすら湯気が立ち上っている。

「これからどうするんだよ」

「私?」

「ああ」

「うーん」

 鈴はぼんやりした顔で思考を巡らせた。

「普通にするかな。頭は痛いけど動けるから普通にするよ。寝て、明日は仕事して、明後日は休みだから……どうしよう」

 俺は彼女の何もかもが他人事みたいな口調に苛立ってくる。

「また死のうとするんじゃないのか」

 思わず語気を強めてそう言った。鈴が俯く。

「そうだね。死にたくなったら死ぬと思う」

「今は死にたくないのか」

「うん。四季が来てくれたから」

 そう言って鈴は笑った。何も面白くない。

「俺が来なかったらどうするつもりだったんだよ」

「わかんない」

 鈴の視線が折れたカーテンレールに向けられた。

「でも意外と普通にしてたのかもね。目が覚めたら……って、首を吊って結構すぐ気絶しちゃったみたいなんだけど、気づいたらそこに落ちてたの。それで目が覚めたら死にたいって気持ちが消えてた。久しぶりの感覚。だから四季が来なくても普通にしてたかも」

 あっそ。

「どちらにしても私は生きてるもんね。四季が助けてくれたから」

「助けてなんかない」

「でもレールがいいって言ったじゃん」

「ちゃんと助けようとするやつは自殺自体を止めるんだよ」

 俺は溜息をついた。

「今のお前は殆ど他人みたいなもんだし俺とは何も関係が無い。だから死にたいと言うなら止めるべきでもないんだろう。でもああやって電話して見せつけるみたいなことをされたら迷惑だ。後でどんな影響があるかもわからないし、余計な罪悪感を感じるのは絶対に嫌だ。死ぬのは止めないが俺とは無関係に死ね。俺が伝えたいのはそれだけだ」

 鈴がこんなことをしたのは一方的に別れを切り出されて追い詰められたからで、俺の言葉はかなり身勝手なものだった。でも鈴はそれで反省しているらしくごめんなさいと謝ってきた。主体性を持たないから俺みたいなのに依存してまともな恋愛ができないんだ。憐れな奴め。

「死にたくなったら死ぬんだろ。そうすればいい。でも次は電話してくるなよ」

「頑張る」

 鈴は大真面目に言った。人生にはもっと頑張るべきことがあるだろうに。

「でも……」

「何」

「四季の声を聞きたくなっても我慢できるなら、きっと死にたくもならないだろうなって」

 無駄に説得力があった。0ボール2ストライクで外角に明らかなボール球を投げるくらい無駄だ。

「お前ってそんなに衝動的な性格だったか?」

「そうかも。元から我慢とか得意じゃないんだよ。だから人と上手くやれないんだと思うし」

 自己分析も無駄に冷静だった。2点差で負けているのに一塁のランナーをバントで送るくらい無駄だ。

「そうか。とりあえず電話することか死ぬことだけは我慢できるようにならないと俺が困る。何か方法を考えろ」

「四季が会ってくれたら死にたくはならないけど」

 げんなりする答えだった。俺の表情は“げんなり”そのものになった。見れば誰でもこの言葉を連想できた。

「好きでもない女と定期的に会えと?」

「そういうつもりじゃないけど……」

「だったら何か別の方法を考えろ」

 頭が痛いと言っていた鈴に無理やり考えさせる。まともな結論が導かれるはずもない。

「えっと、四季と会わなくても我慢できるように……頑張る」

「技術と体力を発揮するために何より大切なのは精神だけど、精神論はクソも役に立たねえよ」

「ごめんなさい」

「いくら謝られてもな……」

 やっぱり俺が考えなきゃいけなかった。まあ答えはほぼ決まっていたようなものだったが、自分でそれに納得しなければならなかった。

「仕方ないか。できればお前とはもう関わりたくなかったけど、暇な時に電話くらいするか。死ぬ直前になって電話をかけられるよりマシと思うしかない」

 鈴が驚いた顔で俺を見ている。うんうん。仕方ないから電話くらいはしてあげるって言ったんだよ。良かったね。

「それじゃダメ。電話するくらいなら会ってほしい」

「なんでそこだけ妙に贅沢なんだよ」

「声を聞いても会えないんだなって思ったら死にたくなるもん」

「さいですか……」

 がっくり肩を落とした俺を鈴が上目遣いに見つめている。

「ごめんね。私が面倒なせいで」

「もういいよ。ある程度は譲歩する。会えばいいんだろ?好きになることとかは求めないな?」

「う、うん。会ってくれるの?」

「お前が会わないとダメって言うからだろ」

「そうだけど……」

「いくつか条件を飲むなら会ってやる」

「わかった」

 俺は年俸が決まる契約更改の交渉を思い出していた。交渉と言っても契約の内容には殆ど何も言わず押印して終わりなのだが独特の緊張感があるし、それに近いものを感じているわけだ。得られるものは年俸ではなく望まない歪んだ関係のみだけど。

「まず恋愛感情で会うわけじゃないし、会ううちに好きになるつもりもない。それはちゃんと理解しろ」

「うん。四季が会ってくれるなら何でもいい」

「会うのは多くても1週間に1回まで。お前の方から連絡して俺の試合や移動に支障が無ければ会う。いいな?」

「わかった」

「会う場所はこの部屋だけ。他の場所に行きたいって言っても聞かないからな」

「うん。でも毎回来るのは面倒じゃない?四季も引っ越したんだし」

「なんで好きでもない女とふたりであちこち行ったり自分の部屋に連れ込んだりしなきゃいけないんだよ」

「そう……だね。わかった。会うのは私の部屋だけだね」

「ああ。この条件なら会うからお前も死ぬとか言い出すなよ」

「四季が会ってくれるなら大丈夫」

 鈴はそう言って嬉しそうに笑った。愛も無く会うだけの関係にそこまで喜ぶ要素があるだろうか。身体だけに過ぎない関係の相手に依存するのは今まで繰り返してきた失敗そのものじゃないのか。どうでもいいけど。俺は俺自身のことに集中しようと思う。気楽で気持ちいいだけの関係で許されるなら幸せじゃないかと思うことにする。普通の恋愛を渇望する気持ちは根深いけど、誰かを本当に愛して満たされることなんてできないんだからと開き直っている。

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