再生

 一人暮らしを始めた頃の俺は新しい生活を心から満喫していた。好きな味付けで料理を作って食べられるし年上の選手に遠慮しながら過ごす必要も無いし門限だって存在しない。俺はさらに色々な女と寝るようになり、そのことがとても気楽なものに変わっていることに気づいた。相変わらず彼女たちを愛することはできないし愛せないことは苦痛だが、元々愛せないんだから仕方ないとも思えるようになっていた。鈴に対してはそう思えないから辛かった。満たされていた記憶があるから同じ状態を求めるし、満たされなくなった理由がわからないから悩むし、鈴の方にその理由があるとも思えないから自分を責める。心が鬱屈して叫び出したくなって、それを抑えるために野球に熱中しているような感覚だった。本来なら野球という仕事を通して抱くあらゆる負の感情を浄化してくれるのが恋愛じゃないのか?恋愛とは1日が2ヶ月になるくらいの落ち着きをもたらして癒してくれるものだと思う。夢を見過ぎと思われるかもしれないが鈴との恋愛はそういうものだった。彼女の隣にいればそれがどこであっても大丈夫だと思えていた。

 俺は鈴のことを忘れようとしながらプロ入り6年目のシーズンに向けたトレーニングを継続して煙草を吸って女と遊んで部屋のインテリアを整えて寮にいた頃よりずっと快適な日々を送っていた。それがぶち壊されたのは忘れもしないクリスマスイブのことだ。この日の俺は球団の地域交流活動の一貫で小学校を訪問した際に知り合った美人教師の琉奈るなさんとディナーの約束をしていたのだが、さあ出発するかと思っていたタイミングでスマホが地獄の凱歌みたいに着信を告げた。画面に伏田鈴と表示されている。それを見つめて心の中でスリーカウント数えてもまだ鳴り止まないので仕方なく応答する。無視することもできたはずなのになぜか応答した。カウント数はファイブでもテンでも良かったのにスリーしか数えなかった。

「もしもし、四季?」

 およそ1ヶ月ぶりに聞く声は妙に落ち着いていた。違いますと言って通話を打ち切りたい衝動に駆られるがどうにか抑え込む。

「何の用?これから予定入ってるんだけど」

「ごめんなさい。じゃあ要件だけ言うね」

 いや明日かけ直せよ。

「これから死のうと思うの」

 あっそ。やっぱり明日言えば良かった……うん?

「死ぬのか」

「うん」

 この会話はなんなんだ。

「四季と別れてからずっと死にたくて、頑張って我慢はしてたけど、クリスマスだなあって思ったら寂しくなって耐えられなくなったから死のうかなって」

 お腹が空いたからコンビニでチキン買ったのみたいな口調で鈴は言った。対する俺は鼓動が早くなっていることを自覚しながら、それを悟られないよう平静を装う。

「で、俺のせいで死ぬから当てつけとして電話してきたと?」

 あっ、という小さな声が聞こえた。

「そんなつもりじゃなかったの。ひとりで死のうと思ったけど最後に四季の声を聞きたくなっちゃって……ごめんなさい」

 ごめんなさいじゃあないんだよ。その言葉をぐっと飲み込み、はああああああと息を吐く。心を落ち着け頭の整理を試みた。冷静に冷静に。メンタルのコントロールはリリーフとしてやっていくために意識して取り組んできた。

「電話してきたもんは仕方ないからもういいよ。別に聞いたからどうするってわけでもないしこのことは忘れるから予定通りひとりで死ねばいい」

「うん。四季の声が聞けたから満足。ありがとう」

「ああ」

「バイバイ」

「いや、ちょっと待て」

 俺は思わず通話を引き延ばしていた。自分で思う以上に冷静なのか必死なのか。

「どうしたの?」

「単純な興味だけどどうやって死ぬつもりなんだよ」

「方法?首吊りにしようかなって」

「そうか。だったらカーテンレールを使うといいぞ」

「そうなの?ドアノブのつもりだったけど」

「カーテンレールにしとけ」

「なんで?」

「なんとなく」

「うーん。四季が言うならそうするけど」

「俺からの餞別だと思ってそうしとけ。じゃあな」

「うん。バイバイ」

 電話を切って再び息を吐く。これから運転するのだから冷静にならないと事故を起こす。鈴との会話は一旦忘れなければならなかった。




 安い国産車に乗ってクリスマスの首都高を飛ばす。来年一軍で活躍して年俸が上がったらポルシェを買おう。そうしよう。未来の自分に期待する今の俺はもう行きたくないと思っていた二軍の本拠地がある浦和に向かっている。本当なら琉奈先生とクリスマスデートを楽しんでいるはずだったのに。小学校ではやらない個人授業を受けるはずだったのに。それでも俺は友達が自殺するとか言い出してちょっとやばいからと断りの電話を入れてから家を出た。これがきっかけで彼女との関係は終わってしまうのだがキャンセルした。くそくそくそくそくそったれ。

 腹立たしさで運転が荒くなって事故を起こしそうになるので楽しいことを考えて気を紛らわそうとするが上手くいかなくて関係ないことを思い出す。アワーファーザーフーアートインヘブン……うるさいうるさいファックファックファック。俺の脳裏に聞こえてきたのはトゥンヌスに在籍していたロックという名前の外国人投手の口癖だった。彼は何かにつけて神に祈り感謝を捧げていて結構なことだったが、俺自身は神の存在を信じていないからこんな時に思い出しても迷惑なだけだった。神がいるなら菜桜を救わなかったはずがない。敬虔な信徒だったロックも平凡な成績しか残せなくてチームを去っていった。宗教は人間にとって必要なものかもしれないが、祈りに現実を変える力は無いのだと思う。

 鈴が暮らすアパートに到着して3階まで階段を昇る。目的の部屋には鍵がかけられていたので持ってきた合鍵で解錠する。そのうち処分するつもりだったけどすっかり忘れてしまっていた合鍵。

 扉を開けるとすぐキッチンがあるものの鈴はいなかった。キッチンと洋室を結ぶ扉は閉められている。あの扉を開けた先に鈴の死体があるかもしれないと思うと悪寒が走る。今のうちに引き返すべきなのか。第一発見者になれば週刊誌に書き立てられて面倒なことになりそうだし。

 それでも俺は洋室の扉を開ける。暗い室内に足を踏み入れ壁を探って照明のスイッチを押す。すると目に飛び込んできたのはユニフォーム、タオル、サイン色紙、カレンダー、インタビュー記事の切り抜き、エトセトラ、エトセトラ。部屋は「千葉トゥンヌスの梅比良投手」が溢れていた。こんなところで死なれたらややこしいことになりそうだから片付けてほしかった。今回はまあいいけど。

「生きてんじゃん」

 夜風が身体を震えさせる。ベランダに続く窓が開いていた。鈴はそのベランダで体育座りをして空を見上げていた。俺の声に気づくとゆっくり虚ろな視線を向けてきた。

「四季?」

 どうしてここにいるの、と言いたげに鈴が見つめてくる。その答えは俺にもわからない。

 ふとカーテンレールが目に留まる。無地のタオルが結び付けられたそれは不自然に負荷を加えられたらしく曲がって折れている。言われた通りカーテンレールで首を吊ろうとして失敗したわけだ。俺は鈴と付き合っていた頃の記憶からこのレールが古くなっていることを知っていた。咄嗟の思いつきにしては機転が利いていたんじゃないだろうか。いやこうやって生きていて普通に話せる状態なのは単なる結果論で運が良かったに過ぎないけど。

「死ねなかった」

 鈴は微笑んでいた。自嘲なのか安心なのかわかりにくい。あと口元が汚れている。どうやら嘔吐したらしい。

「そうみたいだな。とりあえずこっちに来い。風邪ひくぞ」

 うんと言って鈴が室内に戻ってきた。俺は風邪ひくぞってなんだよと思っている。風邪ひくぞってなんだよ。

 それにしても臭い。鈴は吐いた上に漏らしてもいたらしい。シャワー浴びてこいよと言って鈴を浴室へ向かわせる。頭が痛いと言いながらふらふらした足取りで歩いているが大丈夫だろうか。まあ生きてるし大丈夫かなと呑気に考えてベランダに移動して煙草に火をつける。火をつけようとするが上手くいかない。あれ。手が震えている。確かに寒いけどこんなに震えるほどじゃない。何これ。やばいやばいやばい。それでも俺はどうにか火をつけて一服して多少の落ち着きを取り戻す。ああ怖かったんだなと思えるだけの余裕を確保する。

 俺は鈴の死が怖かった。基本的に人の死が怖いんだと思う。もちろん菜桜のことが影響している。菜桜の命を奪ったファルコン症候群は遺伝子の変異が引き起こす病気だ。彼女と同じ両親から生まれた俺が罹患してもおかしくなかったのに俺は健康で菜桜だけが死んだ。そしてその死は彼女が俺への言葉を伝えた直後に俺に手を握られている中で訪れた。心のどこかで菜桜に病気を押し付けて最後も自分が殺したような気がしている。もちろんそんなはずはない。でも鈴が死ぬと言い出してまた人を殺すのかという恐怖を感じていた。

 ベランダからクリスマスイブの夜空を見上げる。雪が降ればいい雰囲気だったかなと思う。現実はそんなに都合のいいはずもなく何も降りそうになかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る