崩壊

 俺は鈴と付き合うようになった。それは本当の意味で恋人になったということだった。俺は間違いなく鈴に恋をして愛していた。今までの恋人というか恋人みたいな関係の人たちにも大切にしたいという気持ちを持っていたし感謝もしているけど、鈴は他の女と決定的に違った。何が違うかはわからないけどその確信はあって、俺は鈴を愛するために生まれてきたんじゃないかとさえ思った。生まれてきた理由が違うなら生まれ変わったと表現してもいい。俺は鈴が恋人になってくれて自分とその周囲の全てが新しくなったように思った。梅比良四季の人生は第二幕が始まったのだと。

 当然の話だが鈴以外の女と付き合うのはやめた。今まで二股や三股くらいは当たり前だった。誰と付き合ってもその相手をたったひとりの大切な存在だと思って好きになれないことに耐えられなかったからだ。鈴にその心配は無い。俺は彼女のことが本気と書いてマジに好きだった。

 交際を続けるうちにどんどん親密になっていく。鈴には敬語を使うことをやめさせた。最初は戸惑っていた彼女も次第に慣れてきてタメ口で会話できるようになり、俺たちの間の境界線はさらに曖昧になり、鈴はそれまで以上に心を開いてくれるようになった。傷つきやすい彼女はしばしば日常で辛かったことや苦しかったことを話した。ねえ四季聞いて、今日は仕事しててこんなにひどいこと言われたんだよ。実家から電話がかかってきてね、あの人たち私のこと全くわかってくれないの。そうやって嫌な思いをさせられた出来事をいくつもいくつも教えてくれた。俺は穏やかな表情でそれを聞き、決して鈴を否定せずに俺だけは何があっても味方でいるから大丈夫と言い聞かせた。その手腕たるやプロ野球選手を引退しても球団のメンタルトレーナーか不定愁訴外来の担当医師としてやっていけるんじゃないかと思うくらいだった。俺と話してすっきりした表情の鈴を見ているとそれだけで幸せな気分になる。俺は鈴に何も求めず、ひたすら彼女が求めるものを与え続けたいと思っていた。ギブアンドギブとテイクアンドテイク。それで十分に満たされることができた。

 満たされた俺は自信が湧き上がるのを実感していた。それまでの俺は自信を失っていた。そんなものはプロに入ってすぐ失われていた。ルーキーイヤーに鹿児島で行われた二軍の春季キャンプに参加した俺はプロのレベルってやつを痛感させられた。バッターのスイング、打球の速さ、野手のグラブ捌きに肩の強さ、走塁時の判断力、何もかもがこれまでやってきた野球と違った。直松さんとか後々見下すことになる先輩たちだって初めて見た時はものすごい迫力だった。何より俺はピッチャーだから他の投手が投げるボールのキレやコントロールにショックを受けた。一軍レベルではないと判断されて二軍にいるはずの人たちがそういうボールを投げていたのだ。一軍がどんな世界か想像することもできないし自分がその世界に到達するイメージも沸かなかった。キャンプが終わった後も野球のプレー以前に練習に付いていくだけで精一杯という日々が続く。1年目も2年目も一軍には上がれなかった。二軍でも出番は多くない。コーチとか周囲の人たちは今は基礎を固める時期だから焦らずやっていこうと言っていたが、基礎なんかいくら固めて固めて踏み固めて工事現場のあの機械でダダダダダダダダダダと舗装しても一軍に上がれるとは思えなかった。半ばやさぐれる俺。でも鈴が自信を与えてくれた。自分が誰かにとって必要だと思わせてくれた。一軍に上がってやりたいことや果たすべき目標があるという原点に立ち返らせてくれた。

 自信を得てメンタルが安定した俺は二軍で結果を残せるようになってきた。固めてきた基礎の重要性も理解できるようになった。そしてこの3年目のシーズンに3試合だけとはいえ一軍のマウンドにも上がることができた。

 続く4年目のシーズンは二軍で先発ローテーションの一角を務めて6勝を挙げた。当時はまだ先発投手として活躍するつもりだったのだ。しかし一軍では10試合に登板するもプロ初勝利を記録した以外に大した活躍を見せられなかった。それでも俺は充実していた。来年こそは結果を残してやろうと思うことができた。それも鈴がいてくれたからだと思う。この頃の鈴は以前より性格が明るくなり、不平とか不満とか不安を口にすることが少なくなっていた。むしろ些細な喜びを発見することが上手になった。生きることが楽しそうで幸せに包まれていた。それを見守る俺も幸せを感じていた。そのはずだった。

 プロ入りして5年目に初めてシーズンの開幕を一軍で迎えた。念願のローテーション入りではなく先発投手が早めに降板した時のロングリリーフや大差で負けている時にイニングを消化するというモップアッパーの仕事を任されたが、俺はその役割で懸命に腕を振った。そうすることで先発としてのチャンスを狙っていた。俺は好成績を残したが、その頃のトゥンヌスはリリーフ投手が次々に怪我だの成績不振だので離脱してブルペンが崩壊しかけていた。だから俺は先発に抜擢されるわけではなくリリーフとしてより重要な場面を任されるようになった。出番を与えられた以上はどんな場面でもベストを尽くすしかない。新しい立場でも好成績を残す……といきたかったがそうは問屋が卸さなかった。俺は僅差の場面で登板するプレッシャーに面食らった。あれは想像を絶していた。相手が大量リードしている場面ならバッターは打っても打たなくても勝つからまあいいやって感じになっていてあっさり抑えられるのだが、自分の打撃が勝敗を左右するとなった時のバッターは集中力が違った。食うか食われるか真剣勝負に臨む武士の目をしていた。しかもピッチャーの方はここで打たれたら先発投手や野手に申し訳ないとか考えるから余計なプレッシャーを感じてしまう。それで俺は思うように腕を振れなくなって不調に陥った。ある試合なんて3点リードの場面で登板してヒット、四球、四球、満塁ホームランで4失点して敗戦投手となった。

 ほどなくして二軍に落とされた俺は二軍の投手コーチを務めていた中谷なかたにさんと面談することになる。そこで彼は決定的な問いかけを発した。

「お前は先発とリリーフのどちらでやっていきたいんだ?」

 プロ野球のコーチを35年以上も務める名伯楽の中谷さんは、俺がリリーフとして格上げされた後も先発への未練を断ち切れていないことを見抜いていた。彼はお前にはリリーフでやっていく覚悟が無いからプレッシャーに飲まれるし長いイニングを意識した先発型のピッチングスタイルも捨てられないんだと言った。

「お前は先発でも中継ぎでもこなすような器用なタイプじゃない。だから決断しろ。お前が決めた方で飯を食っていけるよう俺も全力で協力するから」

 そして俺は決断を迫られる。本当は先発になりたかった。当時の俺にとっては先発こそが投手の花形だった。輝かしいエースにならなければと思っていた。でも俺はリリーフになることを決心した。限界が見えていた先発に見切りをつけ、中谷さんを信じて新しい自分を作り上げることにした。

 短いイニングで力を出しきる投げ方、試合中の準備法、連投にも耐えられる身体のケアなどリリーフとして必要なスキルを積極的に学習した。コーチだけでなく二軍で調整している先輩たちにも質問攻めを食らわせ、知識を吸収しては実践した。そうして俺は二軍で敵無しのリリーフになった。どんな場面でもズバズバ投げ込んでビシバシ三振を奪った。一軍で打たれた試合の印象が最悪だったせいかなかなか昇格の声はかからなかったが腐らず投げまくった。腐るはずもない。リリーフとして他の投手を助けチームの勝利を守ることに喜びを見出せたからだ。この仕事は性に合っていた。

 シーズン終盤にようやく再昇格するとそこから一軍で9試合に登板して10イニングで一度も失点せず17個の三振を奪った。クライマックスシリーズでも1イニングに登板して三者連続奪三振と結果を残している。




 こうして本職でターニングポイントを迎えた俺は鈴との関係でも大きな変化に直面していた。結論から言えば彼女に愛を感じられなくなった。何かその理由となる出来事があったわけではない。むしろ俺たちの関係性は幸せそのものだった。リリーフにやりがいを感じていた俺を鈴が応援してくれて、何もかも満ち足りていたはずだった。どうしてこれまでの恋愛と同じ状況になってしまったのか見当もつかなかった。

 その状況に耐えられなくなった俺は次第に他の女とも寝るようになる。たぶん鈴はそのことに気づいていた。俺との間から何かが失われつつあることを悟っていた。それでも彼女は何も言わなかったし決して俺を責めようとしなかった。いつも努めて明るく笑っていた。その表情は可愛いものだったし尊かったけど、俺はそれを見て別れようかなと思い始めていた。その考えは日に日に膨らんで抑えがたいものとなっていき、やがて関係の終焉を決意させた。

 11月になって秋季キャンプや契約更改も過ぎていった。俺はシーズン後半からの活躍が評価され翌年の年俸が5割増しとなり、背番号も“63”から“30”に変更されることが決まった。12月になれば5年も暮らした浦和の選手寮を出て浦安のマンションで一人暮らしを始める。心機一転するには最良のタイミングだった。俺は鈴を呼び出して別れを告げた。その時の彼女の表情はいつまで経っても忘れられそうにない。呆然という単語を聞く度に思い出すのだと思う。それでも鈴は泣いたり喚いたりしなかった。

「わかった。今までありがとう」

 彼女はそれだけ言った。俺はここに来てもっと愛してやることはできなかったかと後悔に似た感情を覚える。こういう感情は初めての経験ではない。今までも別れ話をされ寂しそうに俺を見上げる女にもう少し上手くやれたはずと思うことがあった。でもそんなことを言っても仕方ない。上手くやろうとして愛そうとしても望む結果を得られないからこういう状況になっているのだ。

 それから月日を経ても鈴との関係は何がいけなかったか考えてしまうことがある。俺は鈴が面倒になったのだろうか。彼女と付き合う中で自覚できないままにストレスを溜めていたのだろうか。それとも、菜桜の代わりを求めすぎたのだろうか。あれこれ考えても納得できる答えは見つからない。愛には賞味期限があると思うべきなのだろう。時の流れは容赦なくままならない。

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