解凍

 飲食店が並ぶ通りをふたりで歩く。タクシーを使っても良かったのにそうしなかったのは、会話をたくさんして鈴の警戒心を解きたかったという理由もあるが、その間に自分自身を納得させたかったからでもある。俺は色々な女性と付き合ってきたしファンに手を出したこともあるが、これまで鈴だけはその対象から外していた。俺は怖かった。他の女と同じように鈴に対しても愛を感じられないのは嫌だった。

「鈴ちゃん、仕事はどんな感じ?」

 高校を卒業した後の鈴は実家を出て浦和で一人暮らしを始め、スープカレー屋だかどこかで働いているらしかった。

「大変です。変なお客さんが多いし同僚の人たちとも上手くいってないですし」

「そうなんだ。皆から好かれそうな感じなのに」

「私が、ですか?」

「うん」

「そんなこと無いです。人との距離感がよくわからないから話すのが怖いし仲良くなれそうな人がいると離れるのが怖くなって面倒に思われることをしちゃうし」

「俺が話してる感じだと問題ないけど」

「梅比良さんは優しいから平気なだけです」

「今は鈴ちゃんを油断させてるだけで、これから酷いことするかもしれないよ」

「それでもいいです。酷いことをする対象でも何でもいいから梅比良さんにとって他の人より少し特別でいられるなら嬉しいです」

 こういう変に重いところが人間関係を上手く構成できない理由なのだろう。その考えを表に出さないよう注意を払いつつ、以前からの疑問をぶつけてみる。

「そう言ってくれるのは嬉しいけど、そもそもどうして俺のファンになったの?俺なんて甲子園に出たわけでもないし一軍でも投げてないのに」

 合コンでも鈴が俺のファンだという話題が出る場面はあった。なんで梅比良なんだよと訊かれてもいたが、その時に答えていた球場で見て一目惚れしたという理由はよそ行きのものだろう。俺は彼女が本心を話してくれることを期待して鈴を見つめる。鈴も緊張した面持ちで俺を見て答えてくれた。

「梅比良さんがプロ入りした時に記事を読んだんです」

「記事?」

 鈴は頷いたが具体的な内容については口ごもってしまう。そこで俺は言わんとすることを悟る。

「もしかして妹の?」

 再び首肯。

「別に遠慮しなくていいよ。色々な人に読まれるのは理解して取材を受けたんだし。それで、妹のこととファンになった理由に関係があるの?」

「はい。あの、もしかしたら不謹慎かもしれないですけど」

「いいよ。どんな理由でも本当のことを話してくれたら」

 俺は鈴が話しやすいよう穏やかに笑う。鈴は躊躇しながらも口を開いた。そして堰を切ったように止まらなくなった。

「その、妹さんの記事を読んだ時、妹さんが羨ましくなったんです。私は他の人と上手くやっていくことができなくて、友達もいないし彼氏ができてもすぐ別れちゃうんです。彼氏と言っても相手は私の身体にしか興味が無いんですけどね。それなのに依存しようとしちゃうから上手くいかないんです。野球を見るようになったのも元々は彼氏と話を合わせたくて。まあ球場に通うようになって楽しめる趣味を見つけられたのは良かったですけど。ってごめんなさい。話が逸れましたね。私、周りの人だけじゃなく家族とも仲が悪いんです。だからどこにいても孤独で、私が死んでも誰も気にしないんだろうなって思ってました。それで妹さんが羨ましかったんです。死んでも大切に思われていて梅比良さんがプロで頑張る力になってる。私もそうなりたかったんです。梅比良さんみたいなお兄ちゃんが欲しかったんです。梅比良さんの妹になりたかったんです。梅比良さんを応援するのは、えっと、そうすることで妹になった気分に浸ってるんです。最悪ですよね。本当に梅比良さんが大切にしていた妹さんはもういないのに自分を慰めるためにそれを演じようなんて」

 語り終えた鈴がふうと息をつく。彼女が話したのは懺悔だった。俺がプロ入りした頃からこれまで溜め込んでいた罪悪感を吐き出そうとしていた。

「そっか」

 俺は呟いた。

「あの、ごめんなさい。私、こんな……」

「いやいや謝らないで。聞きたいって言ったのは俺だし、話してくれてありがたいよ。それに俺も菜桜……妹の名前ね。菜桜が応援してくれてるみたいで嬉しかったんだよ。鈴ちゃんと同い年だし」

 鈴は俺の言葉で少し安心したようだった。でも俺は安心させたいという気持ちだけで言ったのではないのだと思う。俺は確かに鈴と菜桜を重ねていたし、こうして自分が鈴の拠り所になれていたことに喜びを覚えている。だから俺が言ったのは純粋な本音でもあった。

「改めて早く一軍に上がらなきゃと思うよ。鈴ちゃんにかっこいいところを見せて、妹と同じ病気の人たちを支えるっていう目標を実現させる」

「梅比良さんなら大丈夫です」

「ありがと」

 視線を夜空に向けてみる。久々に自分の憧れをはっきりと認識できた気がする。こうして上を見るのも懐かしい感覚だ。

「鈴ちゃんは一軍の試合も生で見たことある?」

「はい。少しだけですけど」

「一軍ってやっぱりレベルがすごく高いんだよね。球場で見るとキャッチボールからして違う。ピッチャーが投げる球もバッターのスイングも守備の一歩目や送球の強さも全部が二軍なんかと比べ物にならない。あの中で投げて三振を奪えたら気持ちいいだろうな」

 鈴が思わずといった風に笑う。

「ごめんなさい。すごく野球が好きって感じで、その、可愛いなって」

 俺も苦笑する。

「可愛いって。でも確かに投げることが好きなんだろうね。改めてそう言うのはちょっと恥ずかしいけど」

「私も梅比良さんが投げるとこ見るの好きです」

「嬉しいこと言ってくれるね」

 鈴は顔を少し赤らめて俯いたが、少しするとその視線がどこか遠くに向けられる。でも、という声が聞こえた。

「梅比良さんが投げるんじゃないなら一軍より二軍の試合が好きかもしれないです」

「そうなの?」

 鈴がきまり悪そうに頷いた。

「失礼な話ですけど、二軍の試合を見てると安心する時があるんです。この中には一軍で活躍することなく去っていく人もいるんだろうなと思うし、プロに入るくらいすごい人たちでも日陰で燻ったまま終わるんだと思うと心が軽くなるんです。野球を見るようになってから二軍の球場に通うようになった元々の理由は一軍で活躍しそうにない人たちを応援するのが楽しかったからです。ヒットを打ってくれたりするとこんなところでも一瞬の喜びがあるってなんだか救われた気がして」

 自嘲気味の鈴を見つめる。妙な話だと思った。応援とは活躍してほしいからするものではないのか。鈴の話だと応援している選手が一軍で活躍することは彼女への裏切りになってしまう。彼らに一軍という日向で活躍する才能があってはいけないわけだ。鈴にとって価値があるのは、一軍へのサクセスストーリーではなく二軍でもがき続ける姿なのだから。

 俺は鈴の話をどう受け止めるべきかという脳裏の課題を保留し、とりあえず“一軍で活躍することなく去っていく人”になりそうな実例を挙げてみることにした。

直松なおまつさんとか?」

 流石に失礼と思ってか直接的な肯定は無かったが、鈴の表情を見るに正解らしい。直松さんはこの時でプロ10年目を迎えていたが、一軍には通算でも10試合にしか出場できていなかった。長打力を評価されている選手だが守備は下手だし、打撃も球速が145キロを超えるとさっぱり打てなくなるし、俺たち後輩にも一軍で活躍することは無いだろうと思われているような人だった。実際に彼はこの後2年はチームに在籍したものの、一軍ではたった1本の本塁打を放っただけで戦力外通告を受け引退している。

 彼のように二軍の試合を回すためだけに在籍しているような、どこに目標を置くべきか本人ですらわからなくなって戦力外になるのを待っているだけみたいな選手は決して珍しくない。そういう選手に限って年下に横暴な態度をとったりするから若手に目の上のたんこぶ扱いされがちなのだが、鈴みたいなファンを喜ばせているなら彼らも人々に夢とか勇気とか抽象的だけど大切に思える気がする何かを与えるというプロアスリートの務めは果たしているのかもしれない。

「鈴ちゃん」

「はい」

「俺のことだけは一軍で活躍すると思って応援してね」

「最初からそう思ってます」

 俺と鈴は互いの顔を見合わせて笑った。鈴は二軍のどうしようもない選手たちに自分を重ねるほど苦しんでいた。でもうだつの上がらないプロ野球選手なんかが彼女を本当の意味で救うことはできない。本当に必要なのはそんな奴らじゃなくて俺なのだ。俺はそのことに強い満足感を抱いた。

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