2章 恋とはどんなものかしら
線分
埼玉県の浦和にはトゥンヌスのスポンサーでもある大手お菓子メーカーの工場があって、トゥンヌスの二軍が本拠地として使用している球場はその工場の敷地内にある。かつての鈴はそこへ熱心に通い詰める少しマニアックな野球ファンで、他の観客たちの中でも目立つ存在だった。少なくとも俺にとっては。まだ新しい環境に馴染みきれていないルーキーだった俺が土曜や日曜の球場で練習していると、観客席から梅比良さーんと若い女の子の声が聞こえてくる。その子は背番号63のレプリカユニフォームを着て“63 梅比良四季”という文字がでかでかとプリントされたタオルを掲げていた。タオルの代わりに自作と思われる団扇を持っていたこともある。プロ野球選手になればどんなに地味な選手でもひとりくらい熱狂的なファンがつくものではあるが、俺みたいに高校時代から有名だったわけじゃなくドラフトでも下位指名のルーキーにすぐファンがつくのは珍しい。まだ身体作りに専念とか言われて実戦登板もしていなかったのに。しかもその子の顔は俺より年下にしか見えなかった。入ってきてすぐ高校生の追っかけがいるなんてスターだなとチームメイトたちがからかってくる。どうしてでしょうねと返す俺は本当にどうしてこんなに早くファンがついたのか不思議で仕方なかった。
二軍の球場は一軍のそれよりずっと選手とファンの距離が近い。球場周辺を歩いていてサインをねだられるのは日常茶飯事だ。しかし俺のファンだった鈴は、スタンドでは周囲の目を気にせず言葉でも見た目でもウメヒラウメヒラと騒いでいたのに実際に話しかけようとすると井戸から引き上げた蛙のように萎縮してしまうらしく、遠くで色紙を持ちながら視線を投げかけてくるだけでそれ以上に近づいてこようとはしなかった。次第に俺の方が彼女を可哀想に思うようになってきて、ついには自分から話しかけることにした。サイン欲しいの?すると鈴は顔をアウトカウントのLEDより真っ赤にして目には涙を浮かべてこのまま卒倒してしまうんじゃないかと俺を心配させながらもおおおおおお願いしてもいいですかと訊いてくる。俺はいいよと言って色紙とペンを受け取る。それからサインする前に彼女が長袖の上着に重ねて着ているユニフォームを見つめる。
「俺のユニフォーム着てくれてありがとうね」
鈴は消え入りそうな声で梅比良さんのファンなのでと言った。実は気温が氷点下なんじゃないかと思うくらいに手が震えている。俺はそこまで緊張させてしまっていることを申し訳なく思いながらサインを書き始め、まだプロで何もしてないけどねと言って笑った。
「でもこれから活躍しますよね?」
唐突に言った鈴の大きな瞳が俺を捉えていた。さっきまで全く目線を合わせようとしてくれなかったのに。筆記体で“Thunnus”と書いていた手が止まる。やばい。少し滲んだ。
「そうなるよう頑張るよ」
「応援してます」
鈴の表情を一瞥してから色紙を完成させる。名前を尋ねて宛名も書き入れた。“鈴ちゃんへ Thunnus Shiki Umehira 63”と書かれたそれはチーム名を綺麗に書けなかったのが惜しまれるが、貰う側にとっては貴重だと思うことにする。あまりひとりのファンと話していると他のファンに不公平とか文句を言われかねないからさっさと渡して去るべきだが、俺はすぐにはそうしなかった。
「若く見えるけどいくつ?」
「えっ?」
「あっ、えっと……」
年齢なんか訊いてどうするんだ。無意識のうちに口をついた質問に俺自身が戸惑ってしまう。万が一にも年上だったら目も当てられないし。しかし鈴はおずおずとした口調で答えてくれた。
「17……今年で18です」
それを聞いて俺は直感した。自分が最初からこの答えを予測していたことを直感した。見た目だけで判断すればもう少し幼くてもおかしくないのに、自分のひとつ年下、菜桜が生きていれば同い年だと根拠も無く確信していた。鈴にはそう思わせる何かがあって、平たく言えばどこか菜桜に似ている気がする。本来なら俺の妹はこんな感じになっていたのだろうか。いや実際はそこまで似てないけど。鈴も可愛い顔をしているのは確かだが、菜桜ならもっと美人になっているだろう。それに風が吹けばポッキリと折れてしまいそうなくらい細かった菜桜と違って鈴には健康的な肉もあるし、身長だって160センチ近くある。何がふたりを重ねさせたのかよくわからない。
「そっか。ユニフォームとかは親に買ってもらった?」
「バイトの給料で買いました」
「すごいね。それが無駄にならないよう俺も頑張るよ」
鈴に色紙とペンを返却する。
「これからも応援してね。それじゃ」
「あ、ありがとうございました!」
ぺこりと音が聞こえそうなお辞儀を見て俺は笑った。菜桜と同い年の女の子にサインしたよなんてことを本人に報告できたらいいのにと思う。
それから2年が経って俺のプロ野球生活も3年目を迎えていた頃に鈴との距離が一気に縮まる。きっかけはとある先輩投手が合コンに誘ってきたことだった。その先輩は二軍の球場を訪れた女の子たちに声をかけ、勝手に俺の名前を使って参加の約束を取り付けていた。若い選手はクオリティの高い女の子を釣るための餌になる。都合良く使われたのは腹立たしいが、それ以上に腹立たしいのは参加者の中に鈴も入っているらしいことだった。先輩曰くずっとお前のことばっか応援してるしあの子はくれてやるよとのことだったが、人質を取られたくらいにしか思えない。やることが汚いしそんなんだからこの人はいい歳して二軍暮らしなのだ。しかし俺は独善的な先輩に付き合わされても従わざるを得ない。悲しき年功序列のプロ野球。
プレーは三流のくせに性欲だけは一流なクズどもの中に鈴を置き去りにするのが忍びなく合コンへの参加を決めたが、当日になっても億劫で足が強力なバネのギプスを装着したみたいに重くて仕方なかった。俺はプロ入りしてからも複数の女と付き合った。しかし高校時代と同じく彼女たちに愛を感じることはできなかった。自分なりに色々と接し方を考えたつもりだったが、最終的には「恋人」という役割を演じようとしているだけに思えてそれが嫌になって別れてしまう。本当は恋人らしさなんか気にすることなく一緒にいるだけで心が暖かくなるような恋をしたい。優しくすることが苦痛でない誰かに優しくしたい。俺は贅沢なんだろうか。役割を演じるのが普通の恋で、多くの人はそれで満足しているんだろうか。満足するところまでひっくるめた普通の恋ができればいいのに。しかし俺は見つかりもしない理想を追いかけている。ノリと勢いとアルコールで楽しむべき合コンを二軍のヘボ選手がセッティングした低俗なものとして嫌悪している。そんなものに費やす時間で『レオン』を観たいと思っている。俺の理想はマチルダ・ランドーなんだ。
店に着いて初めてレプリカユニフォーム姿ではない鈴を目にする。丸襟で長袖の白いブラウスに少し暗めの緑色をしたチェック柄のロングスカートという組み合わせ。牧歌的な絵本の主人公みたいな雰囲気を漂わせていて可愛いと思った。
それで肝心の合コンは適当に愛想を振り撒いて1時間もしないうちに鈴を伴っての離脱を成功させた。人質を解放。ミッションコンプリート。
「今日はこんなことに付き合わせちゃってごめん。他の人たちが騒いでるだけで楽しくなかったね」
俺が微笑むと鈴もそうですねと言って力なく笑った。
「じゃあ帰ろっか。タクシー呼ぶ?」
「えっ?」
鈴はすっかり目を丸くしていた。何を驚くことがあろうかと俺の方がびっくりしてしまうが、考えてみればこの状況はお持ち帰りそのものだ。
「そっか。そういうつもりじゃなかったんだよ。俺は早く帰りたかっただけだし、鈴ちゃんも気にせず帰っていいよ。それとも本当はまだ店にいたかった?」
うんと言われたら嫌だなと思いながら問うと、鈴は戻りたくはないと言った。震えているがきっぱりした声だった。彼女の顔を見つめて続きを待つ。鈴の白い肌はどんどん赤くなっていった。
「帰りたいなって思ってたし戻りたくはないです。でも、その、帰りたくもないというか、いや本当に帰りたかったんですけど、今は帰りたくなくなったというか。だから、えっと」
泣きそうな上目遣いの瞳が俺に向けられる。
「ううう、梅比良さんが良ければふっ、ふたりでどこかに行きませんか?」
鈴の提案を聞いてそれもそうかと思う。この子は先輩に俺が来ると言われてこの合コンに参加している。サインを貰うのも躊躇していたのに彼女なりの強い覚悟でここまでやってきている。だからこの状況ですんなり帰るわけにもいかないのだろう。
「いいよ」
俺は優しく言った。
「どこか別の場所に行ってから帰ろう。俺は寮暮らしで門限もあるからあちこちは行けないけどね」
鈴の表情が明るくなる。
「は、はい!えっと、どこに行きますか?梅比良さんの行きたいところに付いていきます」
「俺が決めてもいいの?」
「もちろんです」
「そんなこと言ってるとロクなところに連れていかないよ」
冗談めかした口調で言いながら腕時計を確認する。確かに門限は存在するが、まだ時間に余裕があった。
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