一流

 俺はトゥンヌスが1点をリードした7回裏ワンナウト、ランナーを一塁と三塁に背負った場面でマウンドに上がった。敵地の仙台で迎えたケルベロスとの3連戦の初戦だ。好投していた先発の仁木にきがランナーを溜めて降板し、直後に迎えた左打者を2番手で登板した左腕の小桜こざくらが抑えて3番手の俺に繋いだ。俺は最初に対戦した3番打者の浅岡あさおかにストレートを2球続け、カウントを1ボール1ストライクとする。その間に一塁ランナーは盗塁を決めていた。俺はセットポジションでもモーションが大きい部類の投手だから結構走られる。それが俺の欠点だと指摘するコーチや解説者もいるが、俺に言わせればそいつらは野球をわかっていない。どれだけランナーを溜めてもホームベースを踏まなければ得点できないのだ。一塁から二塁にチマチマ走られることなんて気にしてどうする。抑えりゃいいんだよ抑えりゃ。3球目にもストレートを投げてファウルを打たせる。追い込めば伝家の宝刀のフォークがある。リーグ屈指の強打者たる浅岡も赤子同然に空振り三振。三塁にランナーがいてもフォークのサインを出してくれるキャッチャーの村田が後輩ながら頼もしい。

 続いて4番打者のマッシュが打席に入る。スコアラーが収集したデータによれば今年の彼はストレートの打率が悪いらしいから直球勝負だ。うりゃあ!スコーン!あれっ?甘くなったストレートが簡単にセンターへ弾き返される。やばいやばいやばい逆転されるもっと盗塁を警戒しとけば良かった。

 誰もが4番打者の試合をひっくり返すタイムリーを確信したが、トゥンヌスのセンターを守るのは一流の韋駄天だった。プロ10年目で33歳の荻山おぎやまさんが躊躇せず前方へ走り込み打球に向かって飛び込む。宙に浮いた身体がドッシャンと地面に叩きつけられ勢いそのままに芝生の上をズザァッと滑るがグラブで掴んだ白球は離さない。審判が捕球を確認してスリーアウトチェンジ。

 トゥンヌスファンの大歓声とケルベロスファンの溜息が球場にこだまする。俺はほっと胸を撫で下ろしてマウンドを降りた。かなり危なかったが今季18試合目の登板もリリーフを成功させた。しかし登板ペースで言えば年間で54試合くらいの計算なのでまだ少し足りない。




 荻山さんのファインプレーで勢いづいたトゥンヌスはそのまま試合に勝利した。俺は試合後の宿舎で荻山さんの部屋を訪れる。一流選手の彼は人間性も抜群で、突然の来訪ながら温かく迎え入れてくれた。

「珍しいな。どうしたんだ?」

「今日はオギさんのおかげで助かりました。ありがとうございます」

「なんだ。そんなこと気にしなくていいのに。梅比良の方も浅岡を三振にしたピッチング、すげー良かったよ」

 そう言って荻山さんは笑った。和やかな雰囲気。少し踏み込んでも大丈夫そうだ。俺は変なこと訊いてもいいですかと言った。以前から彼と話したいことがあった。

「どんなことだ? とりあえず言ってみろよ」

「じゃあ言いますね」

「おう」

「誰かが訴訟されかけてるとするじゃないですか」

「うん」

「大した罪じゃないというか罪と言えるかも怪しいけど、実際に訴訟されて有罪にでもなれば人生に悪影響なわけですよ」

「大変だな」

「でも訴訟されないで済む条件がひとつだけあって、ある試合でオギさんが盗塁を成功させたらその人は助かるんです」

「えっ?」

「で、偶然にもその人とオギさんが試合中にベンチ裏で出くわして、その人はすごい必死で走ってくださいと叫んでる。そうなったらオギさんはどうするかなあって」

 荻山さんはきょとんとした顔で俺を見つめている。そりゃそうだ。でも一流選手の彼はすぐに頭を回転させ、俺の予想を上回る返答をしてくれる。

「まるで『走れ! タカハシ』だな。というかそのままか」

 今度は俺がきょとんとした表情になっていた。きょとんきょとん。

「知ってたんですか」

村上むらかみりゅうは結構好きなんだよ。移動の時とかによく読んでる」

 世間的にプロ野球選手は漢字も読めない馬鹿の集まりだと思われているし、それもそこまで間違ってはいないが、やはり一流と呼ばれる人たちは教養も備えている。一流の中にも救いようのない阿呆がいたりはするが。

「で、どうして俺がそんなシチュエーションに巻き込まれたらと思うんだ」

「えっと、まあ、最近読んでみて実際のプロ野球選手ならどうするのかなって思ったんです」

「タカハシも実際のプロ野球選手だろ……いや、話はフィクションか」

 荻山さんは腕組みをして俺の質問の答えを考えてくれた。

「実際にその状況になったらどうだろうな……。普段から見てくれる人たちを喜ばせたいと思って全力でやってるつもりだし、誰かに何か言われて特別に頑張るって感じでもないような気もするけど……」

 その答えに俺の表情と気持ちが明るくなる。さすが幕張の天才スプリンター。普段から全力プレーとの言葉にも偽りは無い。身体に負担がかかって毎年のように故障するから、実力者であるにも関わらずこれまで一軍で年間を通してプレーしたシーズンは皆無だ。今年はコンディションの良さを維持しているみたいだから最後まで投手陣を救い続けてほしい。

「そうですよね。結果が出ても出てなくてもいつも必死でやってるわけですから」

「ああ」

 荻山さんの首肯が嬉しかった。彼に訊いて正解だった。今日は気持ち良く眠ろう。しかし荻山さんは余計なことまで言ってしまう。

「でも一回くらいなら無茶はするかもな。俺は基本的にセーフになる自信が無い時は走らないようにしてるけど、そのシチュエーションなら自信が無くてもギャンブルするかもしれない。やっぱりなりふり構わず頼まれたらかっこいいところを見せたくなるだろうし」

 やや恥ずかしそうに、しかし爽やかに8学年上の先輩が笑う。今の彼と同じ年齢になってもこうなることは無理だと思えて息苦しくなる。俺みたいな速球派のリリーフは肩肘の消耗が激しいからその頃まで現役でいる自信も無いし。

「プロとしてかっこよくあろうとする姿が既にかっこいいですよ」

「嬉しいことを言ってくれるな。でも少し顔が暗くないか?」

「えっ?そんなことないですよ」

「そうか。別に俺ならそうしたいってだけでプロはこうあるべきってことを言いたいわけじゃないし、お前が違う考えならそれはそれで尊重されるべきだと思うぞ」

 幾度もバッテリーとの読み合いを制して盗塁を決めてきた男は俺の心中などお見通しだった。俺はプロが特定の誰かのために頑張るなんて馬鹿馬鹿しいと思いたくて、でもひとりでそう思っていたら自分がとても利己的な人間のようで嫌になるから荻山さんを共犯にしようとしていたのだ。

 荻山さんは俯いた俺に笑いかけ、冗談交じりの優しい口調で続けた。

「ところでさ、まさか本当にそういう状況の人がいるわけじゃないよな。口では調子の良いことも言えるけど、現実でそんな責任は負えないぞ」

 俺は顔を上げて腑抜けた笑いを見せた。

「安心してください。そんな人はいませんよ」

 荻山さんも肩をすくめて笑った。




 自分の部屋へ戻ってベッドに仰向けで寝そべり天井を眺める。荻山さんはやはり一流選手だった。プレーや言動はもちろん、目の前で話してみて感じるオーラが違う。俺にも中継ぎ投手の主力となった自負はあるが、あれと比べてしまうとまだまだ二流だと思うし気分が沈む。ああやって間接的にでも他人の事情に責任を背負える人間の方が特殊なのであって、そうじゃないのが普通だし普通であることは恥ずかしいことじゃない。だけど俺はコンプレックスを感じる羽目になった。くそったれ。それもこれも全部あの憐れな鈴のせいだ。

 実際にプロ野球選手が盗塁するかどうかで訴訟の実行を決める人間はいるだろうか。俺はいないと思う。そういう賭けを言い出したとして、盗塁が決まったくらいでやらないと言うなら最初から大したやる気じゃないし、仮に走らなくても手続きとか諸々が億劫になって断念するに違いない。結局は答えを最初から決めた上で趣味の悪いゲームを楽しんでいるだけだ。そして鈴もそういう悪趣味な人間だ。俺は内心で彼女に自分で宣言した「約束」とやらを履行する気なんか無いと確信しているが、万が一ってこともあるし不安を拭いきれないでいる。俺があいつに責任を負う義理なんか無いのに。

 伏田鈴は今シーズンの俺が60試合に登板しなかったら死ぬつもりでいるらしかった。

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