夢
菜桜が亡くなって通夜と葬式が行われた。その参加者たちは彼女の早すぎる死を惜しみ、妹という自分の一部を失った俺に憐れみを向けた。正直やめてほしかった。可哀想なのは俺じゃない。俺を慰めることで菜桜の死がもたらした無力感を紛らわしたいのだろうが、それに付き合う義理は無い。俺は周囲の期待を裏切って涙を封印した。そうやって菜桜が燃やされるまでを見届けた。
やがて日常が戻ってくる。菜桜がいない日常。俺はそれまで以上に野球へ打ち込むようになり、菜桜のために使っていた時間の多くを野球に費やした。スパイク越しに踏みしめるマウンドの感触やグラウンドに漂う土の匂いや見据える先のキャッチャーミットや握った白球の重みに没頭して、腕を振って振って振って振りまくってボールを投げ続けた。
俺は世界の誰よりも全力だったんじゃないかと思えるくらい全力で練習した。本来は俺の身体に合っているわけじゃないあの菜桜と同じフォームもこの日々の中で使いこなせるようになった。そして既にそこそこの好投手だった俺はさらなる急成長を遂げる。中学最後の大会では長身を武器に打者を見下ろし唸る速球を投げ下ろし対戦相手の脅威となった。7イニング制の中学野球で21個のアウトのうち19個を三振で奪ったり、味方のエラーでランナーをひとり背負っただけのノーヒットノーランを達成したりした。その活躍からごく一部では宮城のダルと呼ばれた。ダルも宮城の高校出身なのに。最終的にそれまでのオーバーワークも祟って肘を痛めてしまい東北大会進出こそ逃したが、梅比良四季という名前は中学野球界に強いインパクトを残しながら広まっていった。
野球部の強化に余念が無い各地の高校がこぞって進学の誘いを持ちかけてきた。地元仙台の強豪。毎年のように甲子園で名前を見かける県外の有名校。高校野球の横綱と称される何度も全国制覇した名門。ただでさえ将来の選択に頭を抱える中学3年生の元に選択肢の方がいくつも駆け寄ってきた。俺は周囲の同級生より明確で生々しいリアリティを感じながら進路に悩むことになった。
将来の自分が実現させたいことを考えると高校を選ぶ基準は甲子園に出られるかどうかではなかった。俺は菜桜と同じファルコン症候群で苦しむ人々のために何かをしたい。すると高校卒業後に目指す職業は直接的に病気の治療や研究を行える医者とか、制度や予算の面から医療現場を支援できる政治家あたりだろうか。しかしそうやって考えた将来像はどれもしっくりこなかった。それらの世界で活躍する自分を想像してワクワクすることができない。俺はあらゆる可能性を探っては却下し続けた。そんな日々を続けていると自分は何にもなれないんじゃないかとすら思えてくる。そこで改めて推薦の話を確認すると、多くの高校は学費免除を申し出てくれていた。梅比良家の財政は菜桜の治療費もあって決して芳しいものではなかったし、できるだけ家計に負担をかけない高校に行こうと思った。その先のことを考えるのは入学後でもいい。母がある新聞のコピーを見せてくれたのはそういうことを考えていた時期だった。
「四季。昔はプロ野球選手になりたいって言ってたよね。今はどう?」
俺はその問いで鉛を食べたような気分にさせられる。
「野球は好きだしなれたら嬉しいけど……」
プロ野球選手は将来を考える上で意図的に外していた選択肢だ。部活として取り組むならともかく、職業で好きなことに興じるべきではないと思っていた。それでは多くの好きなことや楽しいことを満喫する前にこの世を去った菜桜に申し訳ない。
「四季はお兄ちゃんとして菜桜のためにたくさん頑張った。これからは菜桜の分まで頑張ろうとしなくていいから、自分のために生きるのがいいと思う」
自分でも気づかないくらい僅かに顔が曇った。俺は俺のために生きたいわけじゃない。そして母はそれを見逃さなかった。彼女は菜桜が受け継いでいた春の陽気みたいな笑顔を俺に向ける。
「でも四季はそれで満足しない。わかってる。だからね」
差し出されたコピーはあるプロ野球選手を特集した記事だった。成績に応じた寄付など、その選手が行う慈善活動について書かれている。
「四季が好きな野球で菜桜みたいな人たちの役に立つこともできるんだよ。こうして寄付する方法もあるし、有名になれば珍しい病気を知ってもらうチャンスが増える。やっぱりプロ野球選手もいいと思わない?」
俺はその記事を長いことじっと見つめ、それからゆっくり頷いた。ずっとそう言われたかった。菜桜を思って生きることとプロ野球選手になることは矛盾しないと誰かに背中を押してほしかった。やっぱりこの人は俺の母だ。そして菜桜の母だ。俺は母に感謝する。それから母と相談して共に家族のため考えてくれたであろう父にも感謝する。
「未来は自分で選ぶべきだけど、私やお父さんの希望を言うならプロ野球選手になった四季を見たいな。きっと菜桜もそれを望んでる。あの子は四季の試合を見るのが好きだったから。四季がいない時とかビデオで何回も四季が投げるのを見てたんだよ。私たちは菜桜が憧れた未来を生きてる。それは四季がプロになる未来でもあるはずだから」
俺は唇を噛んで俯いた。全身が震えている。ノーアウト満塁でマウンドに上がる時以上の気合を入れないと泣いてしまいそうだった。母が俺の頭を撫でる。その手の温もりは泣いてもいいんだよと言っていた。俺は勢いよく首を左右に振った。泣くわけにはいかない。俺は菜桜の兄として強くなければいけなかった。
プロ野球選手という目標が定まった俺は、晴れやかな気持ちで進学先の選別に臨んだ。近道をするなら野球部の設備と指導者を軸に勧誘してくれた強豪校から決めればいい。しかしこういう言葉もある。急がば回れ。ヘイストメイクスウェイスト。
人生には不運が付きまとう。菜桜の病気だって誰かが悪いわけじゃなく不運としか言えないし、野球でも味方の失策で完全試合を逃したり故障で投げられなくなるような不運がある。できればそういうことに見舞われても嘆くだけで終わらず、泰然と次の策を講じられる人間になりたい。身内が希少疾患で命を落としたならその病気を広く知らしめ次の世代の糧とする。野球を断念せざるを得ないなら医者でも政治家でも別の道を目指す。少なくともプロ入りできなかった時に背中を押してくれた家族を恨むような生き方はしたくない。野球以外にもスキルを磨いて備えるべきだ。
俺は県内最高の進学校として知られる青葉第二高校を受験することにした。幸い俺には身長と速い球を投げる才能がある。野球は強豪に拘らなくても計画的なトレーニングでプロになれるはずだ。だから勉学に励む環境を重視した。両親に俺の意志を話した上で学費の負担を謝罪すると、彼らは息子が自分で決断したことを喜び、子どもが金の心配をするなと言って笑った。プロ入りした時に契約金を全て両親に渡したのはこのことへの感謝でもある。
そして受験に挑んだ俺はあっさりと合格を勝ち取った。菜桜に勉強を教えるため重点的な復習が習慣化していた俺は基礎がしっかりしていて、いくらでも学びを積み上げられた。
高校では入学当初からトップレベルの学業成績を収めつつ、野球部でも主力として活躍した。その甲斐あって俺は学内や周辺地域で目立つようになって女子からの人気を集めた。初めて恋人という存在もできた。そして恋人に愛を感じられない自分を知った。俺は隣で幸せそうに笑って好きだと言ってくれる少女たちに同じように好きだと言うことができなかった。最初は恋愛に慣れていないだけだと思った。中学生の頃までは好きだと言われても菜桜に野球に彼女にと抱えきれる気がしなくて断り続けていたから。菜桜が早く彼女を家に連れてきてよとからかってくるのを複雑な気持ちで受け止めるだけだったから。でも何度か恋愛というか恋愛擬きのような関係を続けていると慣れとか経験とかそういう問題じゃないことがわかってくる。俺にはセックスを気持ちいいと思えるだけの肉体的な感覚があったけど、精神的には殆ど不感症みたいな状態らしかった。誰と付き合っても何人と付き合っても相手を愛おしいと思えない。俺の恋愛は俺が望んでいる何かを与えてはくれなかった。
だから野球と勉学が俺の青春だった。心の隙間を埋めるかのように文武両道を邁進した。野球は最後の夏に宮城県大会の準決勝に進んだのが最高成績で甲子園には出場できなかったが、プロ志望届を提出すると10球団から調査書が届く程度には評価してもらえた。学業も多くの大学の医学科を狙える成績を維持している。
そして高校3年生の10月にプロ野球のドラフト会議で千葉トゥンヌスから5位指名を受けた。もっと高い順位で指名されたかったが、何位でも入団してしまえばこっちのものだ。そう意気込む俺を目の回るような忙しさが待ち受ける。様々なメディアが取材にやってきた。どこで知ったのか多くの記者は菜桜のことが良いネタになると踏んでいたらしい。菜桜の死が安っぽいお涙頂戴の記事にされるのは嫌だったが、ファルコン症候群を知ってもらうチャンスでもあったから真摯に対応した。トゥンヌスの関係者たちとの指名挨拶や契約交渉もある。入団時に結んだ契約は契約金3000万円に年俸500万円という内容だった。背番号は「63」を与えられた。地味な番号だがドラフトで下位指名だった高校生への期待値なんてそんなものだ。それを裏切って活躍するのが面白いのだし、実際に俺は活躍した。トゥンヌスのスカウトで俺を担当した
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