菜桜 後編
やがて俺も菜桜も中学生になった。俺は野球部に所属して練習に明け暮れていたが、勉強の手を抜かず菜桜の家庭教師も続けていた。しかし菜桜は中学1年生の秋あたりからそれまで以上に深刻な体調不良を繰り返すようになる。ファルコン症候群の末期症状が始まっていた。肉体を内側から焼き尽くすような下がらない高熱。痛みのあまり気絶するがまた痛みで目覚めて苦しみ続ける激痛。次第にいくつもの臓器が機能を低下させていった。忍び寄る死の足音。
そんな苦境でも学業を頑張った菜桜は2年生への進級を決定させていた。でも4月になったところで学校に通えるとは到底思えなかった。春休みの頃になると入院していた彼女は薬物治療の副作用で髪が抜け、顔も手足も胴体も痩せこけ、生命力とか活力とかそういう類のものを一切感じられない姿になっていた。
「頑張って誕生日まで生きようね」
俺たちの両親はプログラミングされたみたいにこのセリフを繰り返した。とても始業式なんか間に合いそうになかった菜桜に目標を与えて気力を維持させたかったのだろう。そう言われる度に菜桜は笑顔で頷いていたが、だからこそ俺はやるせなかった。もう笑うのも辛いはずだ。頑張らなきゃいけない理由だって存在しない。死ぬ以外には苦痛が止むはずもないという絶望的な事実が誕生日なんかより確かな質感を宿している。彼女の現実を舗装するのはどうしようもない残酷さだ。その中を生き続けてきて、さらに最期の瞬間まで続けさせられるなんてあまりに不憫だ。俺も両親と同様に菜桜の強さに希望を見出してかなり救われていた。でもここまで強くならなきゃいけなかった境遇は憎くて仕方なかった。中学生なんてもっと周囲に、家族に弱さを晒すものだろう。俺はもっと彼女の笑顔の裏に潜む苦悩や恐怖や深海のように暗いあらゆる感情のいくつかを共有させてもらえる兄でありたかった。
春休みが終わって俺と菜桜は進級した。けれども菜桜は2年1組の教室に一度も顔を出さないままついにその時を迎えてしまう。彼女の容態は急変して医学で延命させることも不可能な状態に陥った。担当医は意識があるうちに最後の言葉を伝えてあげてくださいと言った。俺はここに至って目の前の現実を直視することができない。菜桜が死ぬ? 本当に?
頬に涙の川を作った両親が愛娘に別れを伝えていた。その言葉に菜桜は弱々しく、それでもはっきりと頷いている。もうあの笑顔を作るだけの力も残っていないが、どうにかして笑おうとしているように見えた。俺の妹は自らの命が燃え尽きるその瞬間まで無理をしようとしていた。
両親が俺にも別れを言うよう促した。俺は両手で菜桜の小さな手のひらを包み込む。勉強の合間に無意識でペンを回していた手。俺が焼いたクッキーを何度も美味しいと言って次々につまんでいた手。キャッチボールでゴムボールや学童野球の軟式球を投げて変化球まで習得した手。ここにある菜桜の手とこれまで共に生きてきた彼女のそれとの間には連続性がある。これから先だってそのはずだった。菜桜の手を握る力が込もる。でも言葉が出てこない。情けないことに先に消え入りそうな声を発したのは菜桜の方だった。
「四季……」
俺の名前を呼んだ菜桜は間違いなく笑っていた。顔の肉がごっそり落ちてかつてとは別人のようになってしまったが、生きていることの喜びを歌うような明るさは変わらない。もう無理して笑わなくていいのに。
「今までありがとう」
透き通るような菜桜の声を聞くと嗚咽が込み上げてきて、鼻水がどこに溜まってたんだよってくらい溢れてきて、ずっと全身に力を込めて我慢していた涙がこぼれ落ちていった。俺はひたすら頷く。声は出ない。菜桜のために何かするのを面倒に思ったことなんかない。だからお礼なんかいらないよ。そういう言葉を伝えたかったけどそれどころじゃなかった。そもそも伝えてどうするんだろうと思った。死にゆく菜桜が最後の力で伝えてくれたお礼をいらないなんて言ってどうするんだ。他に望むものがあるわけでもなかろうに。
「わたし、優しい四季が大好きだよ」
菜桜の声がまっすぐに響いた。そして俺は悟る。やっぱり望むものがある。俺には菜桜に伝えなきゃいけない言葉がある。
「菜桜。俺も……俺も、菜桜のことが大好きだから…………だから…………」
全身が震えて上手く声が出ない。だけど上手くなくてもいい。とにかく声を出せ。俺は菜桜の顔を見据える。もう見えてはいないけど。涙で視界が滲んでいる。菜桜の手の感触を除けば他の五感もあやふやだ。泣き声が聞こえるがその主が自分か母か父かもわからない。それでも俺は言う。
「死なないで…………」
ようやく言葉にできた俺の最大にして100年先まで生きていても変わらない願いが菜桜に聞こえたかどうかはわからない。それを口にしたのと同時に、俺に握られていた手の力が蝋燭の火に息を吹きかけたみたいに失われていた。上着の袖で目元を拭って菜桜の顔を見る。そこにあったのは麗しき少女の寝顔だった。誰であろうと触れることすら許されない美術品のような眠りだった。決して目覚めることのない悠久のまどろみだった。
医者が臨終を告げる。菜桜の短い生涯が幕を閉じた。あと2週間もしないうちに14歳だったのに。その後には俺の誕生日も祝ってくれたはずなのに。俺は菜桜の手を握ったまま離すことができない。再び多くの感覚が失われていく。俺にとっての世界はその手の小ささだけになった。
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