菜桜 前編

 仙台駅前の風景は郷愁を誘われる。俺は生まれてから高校を卒業するまでこの地で暮らした仙台っ子だった。温かい家族。騒がしい仲間。数多の元カノたち。仙台を本拠地とする東北ケルベロスの試合は何度も観戦した。この地には今の俺を形成するあらゆるものの面影が漂っている。

 そして仙台遠征の際には都合が合えば必ず訪れている場所がある。俺は目の前の墓石を掃除して線香をあげ、カントリーマアムとQooのみかんを供える。どちらも生前の彼女が好きだったものだ。そう言えば萩の月も好んで食べていた。次に来る時は買っておこうかと思う。俺が拝む墓石には「梅比良家之墓」と彫られている。13歳でこの世を去った俺の妹、梅比良菜桜なおを弔うためのものだった。




 物心ついた時には既に菜桜がいた。何しろ俺たち兄妹の年齢はひとつしか離れていなかったし、5月4日生まれの俺が産声を上げてから1年と経たない翌年の4月21日に菜桜が生まれているのだ。菜桜の方はかなりの早産だったらしい。それが影響したかどうかは定かでないが彼女は生まれた時から小柄で、亡くなった時もその身長は140センチしかなかった。幼少期から周囲の同年代より背が高く今は186センチある俺とは対照的で、生前の彼女と撮った写真を見返しても1歳違いの兄妹とは思えない。

 見た目には殆ど成長しないまま逝ってしまった菜桜だが、体力や免疫力も強くなることはなく幼少期から虚弱体質に悩まされ続けた。発熱して寝込むことは日常茶飯事で、1キロの距離を歩くような体力も無い。やがて彼女はファルコン症候群なる病気と診断された。遺伝子の変異によって引き起こされ、突発的な高熱や全身の痛みが繰り返される。日本中を探しても患者は40人程度しかおらず、治療法も見つかっていない難病だった。

 この病気のせいで菜桜は頻繁に入院したし学校も休みがちだった。どうして菜桜がこんな目に遭わなきゃいけないんだ。俺は強い憤りと無力感を抱いて妹を見つめる日々を過ごした。ドラえもんでも神龍シェンロンでもホイミスライムでも何でもいいから菜桜を救ってほしかった。でも現実に万能な癒しなど存在しないし俺はフィクションにすがるより自分にできることをして菜桜の役に立つしかなかった。

 まず学校にあまり通えていなかった菜桜のために勉強を教えることにした。自分がわからないことは教えられないから必死で勉強してどんな質問にも対処できるよう準備した。菜桜は俺が言った内容に真面目な表情で耳を傾け、最後には必ず満面の笑顔でお礼を言ってくれた。彼女は病気で苦痛と不安に苛まれていても明るく笑える可憐で芯の強い少女だった。菜桜の反応が嬉しかった俺はさらに勉強を重ねることで自分の成績を向上させ、菜桜の方も出席日数の少なさに反して学力で周囲に後れを取ることはなかった。

 起き上がるのも辛く横になることしかできない状態の菜桜が本を読みたいと言えば読み聞かせたし、料理を身につけて菜桜が食べたいと言ったものを振る舞うこともあった。彼女はそうした俺の行動を地球の裏側まで照らせるんじゃないかというくらい眩しい表情で受け入れてくれた。菜桜の生命力が余すことなく凝縮された笑顔。俺にとってもそれが生きる意味で自分の全てと言えた。

 そんな菜桜が沈んだ表情をしているのでどうしたのかと尋ねたことがある。すると彼女は友達が公園に集まって遊んでいるのが羨ましいと言った。送迎してくれる両親が不在だと自力で公園に向かうしかないのだが、ひ弱な身体にはそれすらも耐え難い負担だった。そこで俺は菜桜を背負って公園へ送り届けることにした。菜桜はしきりに申し訳なさそうにしていたが、辛いとか面倒とかそういう気持ちは沸いてこなかった。それ以上に菜桜の身体が空気みたいに軽くて簡単に背負えてしまうことの方が俺を息苦しい気持ちにさせた。

 菜桜が友達と遊ぶ間、俺は持参したゴムボールでひとり壁当てをして遊んでいた。頭の中で壁に的を描き、それを狙ってひたすら投げ続ける。そこにあるのは公園で小学生が古めかしい壁にゴムボールをぶつけるだけの光景だった。だけど俺の空想は壁に的を設置するだけに留まらず、満員のスタジアムのど真ん中でプロ野球選手がキャッチャーミットに硬球を投げ込む姿を描き出した。10年以上先の未来で実現する俺の夢。いやトゥンヌスの試合はそんなに満員にならないんだけど。

 少しして菜桜が俺の元に駆け寄ってくる。まだ彼女の友人たちは遊んでいるようだし帰るには早すぎる。だが菜桜は帰りたいと言った。楽しくなかったのか、友達と喧嘩でもしたのか、そんな質問に菜桜はかぶりを振った。

「四季を見てたら一緒にキャッチボールしたくなったの」

 俺はその言葉が嬉しかったがやはり心配でもあった。

「でもそれならいつでもできるだろ。せっかくだし今日は友達と遊ぶ方が良くないか? 俺に気を遣ってるなら……」

「違うよ」

 菜桜は毅然とした口調で俺の言葉を遮ってこちらをじっと見つめた。そして自分の思いをどう言語化するか思考を巡らせている。伝えるという行為に客観性を持って注意を払うことができる彼女は年相応以上に聡明だった。

「病気がいつ悪化するか、いつもすごく怖いの。また熱が出たり身体のあちこちが痛くなるのが怖いし、そうしているうちに死んじゃうのが一番怖い。だから元気な時にやりたいことを全部やりたい」

 そう言って傍らに死の質量を感じ続けてきた少女は凛々しく微笑んだ。

「わたしは四季とキャッチボールしたいな」

 俺は自分の顔が赤くなるのを感じて視線を逸らした。じゃあ帰るかと言うと明るい声でうんと言うのが聞こえた。

「でもせっかく連れてきてもらったのにすぐ帰るなんて言ってごめんなさい」

「気にするなって。それよりちゃんと友達にお別れを言っとけよ」

「わかった」

 それから俺は再び菜桜を背負って家路に就いた。歩きながら胸が痛むのを感じる。「いつでもできる」なんて無神経なことを言ったのが悔しくてたまらなかった。菜桜は大きすぎる恐怖をまっすぐ見据えている。俺はそんな恐ろしさや菜桜自身と向き合えていない。

 帰宅して庭でキャッチボールをする。俺は友達との遊びや壁当てで投球に慣れているが、小柄な身体で一生懸命に投げる菜桜のフォームはプロ野球の始球式に出てくる野球未経験のアイドルみたいだった。砲丸投げのように腕を前方に伸ばして押し出すような投げ方。当然彼女の手を離れたゴムボールはすぐ地面に落下し、俺の元へ届くのは弱々しいゴロばかりだった。

 それでも大切な妹と投球で交わすコミュニケーションはどんなことにも替えがたいほど楽しかった。しかし菜桜の方はかなり悔しかったらしく、以降も定期的にキャッチボールに誘ってくるようになった。その度に彼女は俺の投げ方を観察し、全身を使ったフォームと投球の力強さを会得していった。元々体質が極端に弱いだけで頭脳も運動神経もすこぶる優秀なのだ。どうすれば小さな身体で俺に負けないボールを投げられるか、結論を導くのにそう時間はかからなかった。完成した投球フォームは左足を上げた時に軸となる右足のかかとを浮かし、高く掲げたグラブを上から下に使って縦回転させた身体で右腕を垂直に振り下ろすというものだった。反動をフル活用するだけにバランスが難しい跳ね馬みたいな投げ方だが、菜桜は天才ジョッキーさながらいとも簡単に使いこなしていた。飛躍的にボールの威力を向上させた一方でコントロールも針に糸を通すがごとく精密だった彼女の才能は俺なんかと比べ物にならなかった。この投げ方はプロ野球選手となった俺の原点でもあるが、菜桜が持っていた躍動感とその裏に存在するしなやかさには遠く及ばない。

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