移動日

 日本のプロ野球は基本的に火曜日から3日連続で同じチーム同士が戦い、金曜日から相手を変えて再び3連戦を行う。つまり火曜から日曜までの6連戦ということになるが、試合が開催されない月曜日は完全なオフになることもあるし火曜からの試合に向けて遠征することもある。今日は後者だ。俺たち千葉トゥンヌスの面々は新幹線で東北ケルベロスの本拠地である仙台へ移動することになっていた。そんなわけで俺は起床後に軽く身体を動かしてからシャワーを浴び、あれこれ支度を整え球団のオフィシャルスーツに身を包んで部屋を出る。エントランスに向かうためのエレベーターを待っていると背後からトゥンヌスの梅比良さんですよね?と声をかけられた。有名人は辛いね。俺は作るのがすっかり上手くなった人当たりの良い笑顔を伴って振り返る。

 そこに立っていたのは高校生くらいに見える若い女の子だった。恐らく俺と同じ階の住人だろう。会話らしい会話をしたことは無いものの見覚えがあった。切れ長の目と薄い唇で鼻筋の通った顔立ち。艶のある黒い髪。白いブラウスと黒いビスチェ風のワンピースに包まれた体躯はかなり細くてちゃんと食べているのか心配になるが、その体型が彼女に儚さという魅力を与えているような気もする。美人と言って差し支えないだろう。派手ではなく目立つとは言えないけど、クラスの中で秘かに根強い人気を得ているタイプ。学校に通ってクラスという集団に所属しているならの話だけど。

「高校生?」

 思考が舌を動かしてつい余計なことを訊いてしまう。少女は一瞬だけ驚いたような表情を見せたが、すぐにクスッと笑って答えてくれた。

「はい。高校2年生です。今日はサボってますけど」

 俺はそっかと呟いた。どうしてと訊くのも学校には行った方がいいよと一般論を言っておくのも自分がすべきことではないように思えた。

 なかなか来ないエレベーターを待つ間に少女が俺の服装を見つめこれから移動ですかと尋ねるので肯定する。仙台に行くんだよ。へえーと言った少女の瞳が僅かばかり輝きを増す。

「いいなあ。私、萩の月が大好きなんですよ」

 俺が仙台を訪れる目的は生活を懸けた仕事のためなのだが、そんなシビアさとは無縁の呑気な口ぶりに思わず笑ってしまう。

「あれは美味しいよね」

「やっぱり梅比良さんも仙台に行ったら買いますか?」

「遠征の時は買わないかな。他の選手はわからないけど。東京駅に行くと必ず東京ばな奈を買う人なら知ってるし、いつも萩の月を買ってる人もいるかもね」

 グラウンドでは見られないプロ野球選手の一面を垣間見たことが嬉しかったのか、少女の瞳にちょっとした興奮の色が浮かぶ。それを見ていると胸の内にどこか懐かしい微笑ましさが湧き上がってくる。この子と話すのは結構楽しい。

 ようやくやってきたエレベーターの中は無人だった。そこに少女とふたりで乗り込んだ俺は、彼女の顔がさっきまでのあどけない明るさに代わってカラスの鳴き声でも聞こえてきそうな憂いで覆われていることに気づく。視線を切って操作盤を眺めていると背後から少女の声が聞こえた。

「なんか羨ましいなあ。プロ野球選手なら色々な場所に行けますもんね。もちろん遊びに行くわけじゃないですけど」

 俺は振り返って少女の目をじっと見据えた。

「どこか行きたいところでもあるの?」

 少女が弱々しく微笑む。

「特にここって場所は無いけど、どこかに行きたいと思うんです。今いるのは私の居場所じゃない気がして」

 いかにも青春というセリフだった。なかなか大人になっても言えるものではない。とはいえ大人も自分の居場所なんてそう簡単に見つけられるものではないけど。俺がいるべきはどこだろう。少女はその問いをはっきりと言葉にしてみせた。それはきっと諦観と惰性が生む妥協に抗おうとする青春の力だ。

「思い切って旅でもしてみたら?」

「いいですね」

 少女は俺の言葉を愉快に感じてくれたようだったが、その表情は瞬きする間に再び曇ってしまった。

「でも旅をしても常に帰りのことを考えちゃうと思います。ここに縛られてるんです。だからどこに行っても居場所を見つけられるかどうか」

 青いねえ。そう言いたくなる自分がいたが、それ以上に俺は彼女の言葉を真摯に受け止め的を射ているとすら思った。彼女は子どもだ。悟ったふりをせず人生に泥臭くぶつかってままならないことに悩んでいる。それは確かに青いけど大人以上に真理を捉えうる姿勢でもあるだろう。ある場所や時点から心が動けなくなった状態は存在するのだ。

 機械音声が1階に到着したことを知らせる。途中で乗り降りする人もいなかったので俺たちはふたりきりのままエレベーターを後にする。

 じゃあねと言おうとすると少女は俺に頭を下げていた。これから遠征という時に話し込んで暗い話までしたことを謝っていた。俺は気にしないでと言って笑う。表情を作る必要は既に失われていた。

「引き止められて邪魔されたわけじゃないし、もう高校生と話す機会なんて滅多にないからね。新鮮な気分になれたよ。ありがとう」

「なら良かったです。また会ったら話しかけちゃおうかな、なんて」

「構わないよ。少しくらいならまた話せると思う」

「やった。嬉しいです」

「そう?喜んでもらえるならプロ野球選手冥利に尽きるね」

 今度こそ別れを告げて駐車場へ向かおうとした俺を少女が呼び止める。

「そうだ。私の名前、深浦ふかうら佳愛かえっていいます。“か”はにんべんに土がふたつで、“え”はラブの愛です。覚えてほしいとは言わないけど、もし良かったら」

 俺は敬礼のポーズで了解の意思を伝える。佳愛ちゃんね。いい名前だ。

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