第109話 雷火の看護イベント

「風邪ですね」


 目の前の医者は、大したことないよと言わんばかりにそう告げた。


「インフルエンザとかではなくですか?」

「ええ、熱もそこまで高くないし、解熱剤を飲んでいれば治るでしょう」



 そう言われたのが昨日の夜。

 今日の朝起きると体温は37度4分と、微熱にまで落ちていた。

 一応学校は休むことに決め、心配する静さんにも大丈夫だからお仕事行ってきてと伝える。

 今日は出版社で大事な話し合いがあるそうなので、俺の風邪ごときで休んでもらいたくはない。

 雷火ちゃんや火恋先輩にも今日風邪で休むとラインで伝え、病人は大人しく床につくことにした。

 それが今から4時間ほど前の話。



 正午現在――


「ヒューヒューヒューヒュー」


 ベッドの上で、荒く熱い呼吸を繰り返す。

 死ぬ……完全に熱がぶり返した。朝方熱下がって余裕じゃんって思ってたけど、単純に解熱剤のおかげだったらしい。

 頭もグラングランして、関節は痛いし、倦怠感がやばい。目を開けているはずなのに視界が霞んでいる。

 なんとか力を振り絞って体温計を使うと、結果は38度5分。

 人間って体温一度上がるだけで、こんだけしんどくなるんだな。

 ここ最近風邪引いてなかったから完全に舐めてた。


「薬……薬……」


 どこやったっけと考えて、確か昨日の夜台所で水飲んだ時一緒に飲んだはず。そこに置きっぱなしになってると思う。

 ベッドから台所まではほんの数メートル。それくらいならなんとか……。

 俺は上体を起こし、這いずるようにベッドから出ようとすると、バランスを崩してぼたりと転がり落ちた。


「ヒューヒューヒューヒュー」


 あっ、ダメだこれ。ベッドから落ちて全然動けん。しかも布団から出たせいで、悪寒が止まらない。


「し、死ぬ……」


 静さんは夜まで帰ってこないし、皆には大丈夫って言っちゃったし。ってかまだ学校の時間だ。心細くてほんと泣きそう。

 その時ベッドからコロンと俺のスマホが転がり落ちてきた。

 俺は朦朧とする意識の中、この幸運を逃してなるものかとスマホに手を伸ばす。視界が霞んで、もうどのボタンをタップしてるのかもわからない。


「誰かに……繋がれ……」


 すると奇跡的にもコール音が響く。誰かに繋がった。だが、コールは数回響くと無情にも留守電へと繋がる。


『ピーっという発信音の後にメッセージを――ピー』

「だず……け……」


 それが俺の限界だった。

 誰に繋がったかもわからない留守番電話。恐らくこの声もノイズ程度にしか聞き取れないだろう。

 俺なら間違ってかけたのかな? と思ってしまう内容。

 もう後はこの人に賭けるしか…………ない。



 俺は目を覚ました。

 気づくと布団の上で寝かされており、悪寒などはほとんどなくなっていた。

 あれ? さっきまでの出来事は一体なんだったのか? もしかして寝ぼけていただけなのだろうか?

 そう思ったが、目の前に制服姿の雷火ちゃんが心配そうに俺を見つめているのが見えた。


「大丈夫ですか?」

「雷……火ちゃん?」

「はい、電話が来ましたので」


 あっ、やっぱりさっきのは寝ぼけていたわけじゃなかったらしい。


「今、何時?」

「昼の2時です」

「あれ? 学校は?」

「早退してきました」

「えっ、ごめん……」


 しまった心配して来てくれたんだ。悪いことしたな。というか、さっきの電話でよく早退しようと思ってくれたな。


「ほんと早退してきて正解でした。部屋に入った瞬間、悠介さんが倒れてたので、悲鳴あげちゃいました」

「ご、ごめんね」

「いえ、朝ラインで風邪引いたって言ってましたし、あんなお化けのうめき声みたいな留守電が入ってたら心配になりますよ。一応解熱剤があったので、それを飲んでもらいました」

「ありがとう。死ぬところだったよ」

「大げさですよ。風邪の時気が弱くなるのはわかりますけどね」


 優しく笑う雷火ちゃん。

 ほんと女神。伊達家は多分前世女神三姉妹とかだったんだろうな。

 年下の女の子を見て、心の底から安堵していると俺の腹がぐーっとなった。


「あっ……ごめん」

「お昼食べてませんよね? 食欲あるなら食べておきましょう」

「それだったら静さんが作り置きしてくれてて」

「あっ、おかゆがありましたね。コンロに鍋が乗ってるの見ました。ちょっと温めてきますね」

「ありがとう」


 雷火ちゃんが台所に入るとすぐに、カンカンカンカンと何か金属を叩く音が聞こえる。

 最初は卵でも割ろうとしているのかなと思ったが、音がカカカカカカと小刻みになったり、ボワッと炎が上がったような音がなったりする。

 しかも「水、水、水!」と小声で叫んでいるような声も聞こえる。


(えっ? 温めてるだけだよね?)


「雷火ちゃん大丈夫?」

「全然大丈夫ですよ!」


 若干声に焦りが入っているような気がするが、気のせいだろうか……。


『ウーウー火事デス、火事デス、ウーウー』


「雷火ちゃん大丈夫!? 火災報知器鳴ってるよ!」

「大丈夫です! 多分壊れたんだと思います!」


 そんなピンポイントでいきなり壊れんやろ。

 大丈夫大丈夫と言いながら報知器を止める雷火ちゃんだが、部屋の中に白い煙が充満しているのだが。


「雷火ちゃんコンロの使い方わかる!?」

「だ、大丈夫です! それくらいわかりますよ、い、嫌ですね!」


 滅茶苦茶焦りが滲んでいるような気がするのだが。



 30分後、俺の前にはコンビニで買われた、ゼリー飲料とプリンとポカリが並んでいた。


「すみません……」

「いや、全然気にしないで。ほんと買ってきてくれてありがとう」


 温めるのに失敗して土鍋は全焼。おかゆは炭の塊と化してしまった。


「あの、あれはなんで燃えたの?」

「いや、その、やはり風邪ならもう少しビタミン的なものがいるかなと思いまして」


 彼女はスカートのポケットから、大量のタブレットケースを取り出す。


「これわたしが使ってる奴なんですけど……」


 ケースにはABCDEのアルファベット他、数字が振られている。


「風邪で不足するビタミンAとCをもう少し多めにとったほうがいいかと思って、AとCを入れたんですけど。でもB1やB2、B6も風邪に効くと聞きますので、これも入れようと思いまして」

「お、おう……」

「錠剤が溶け始めたら、おかゆがドロドロのネバネバの気持ち悪い物体になっちゃって。それで底の方から焦げ始めて……」

「なるほどね、いらんことしたんだね」

「はう」


 雷火ちゃんは今の言葉が胸に突き刺さったらしく、慎ましい胸を押さえて苦しんでいる。


「ごめんない」

「いや、気持ちは凄く嬉しいし、看病してもらって俺からはありがとうしか言えないよ」

「今痛感しました。家庭って仕事と家事で分業するのが最も効率がいいという考えでしたが、ある程度どちらもカバーできるスキルが必要ですね」

「そうだね。どっちかが働けなくなったとか、家事ができなくなったってなると大変だしね」

「はい。あっ、でももしわたしと結婚したらお手伝いさん呼びますので、お手伝いさんの能力もわたしの能力に含めていただけると助かるのですが」

「そのお手伝いさんが来れなくなったら大変だよ?」

「そ、そうですね。トラブルとは得てして重なるものですからね。じゃあもうわたしが働きに出て、家に火恋姉さん置いておけば最強じゃないですか?」

「それ俺の立ち位置はどこなの?」


 夫:雷火

 嫁:火恋

 俺:? になってるよ。



 それから一時間ほどすると、薬も効いて体がすごく元気になってきた。

 熱を測り直してみると37度3分とかなり下がっている。


「ほんとに雷火ちゃんのおかげだよ。ありがとう」

「いえいえ、じゃああんまり長居すると落ち着かないと思いますし、わたしはこれで帰りますね」


 そう言って立ち上がる雷火ちゃん。


「あっ……」


 小さく声が漏れた。


「どうかしました?」

「いや、なんでもない。風邪移しちゃったら悪いしね」


 一応ずっとマスクはしているが、それでもこれだけ近距離にいたら移ってしまう可能性は高い。


「それじゃあお大事にしてください。もし何かあったらラインしてもらえると飛んでいきます」

「う、うん……」


 玄関で靴を履く雷火ちゃん。


「では、また明日学校で……と言いたいところですけど、無理せず熱があったら休んでくださいね」

「う、うん……」


 玄関を開いて、雷火ちゃんは帰っていく。


「あっ……」


 また声が溢れた。今度は手も一緒に動く。なんだこの手は? 一体”何を掴もうとした?”

 …………言えるわけないじゃないか。


 寂しいからもうちょっとだけ一緒にいてほしいなんて。


 子供じゃあるまいし。

 風邪を移してしまうリスクもある。迷惑をかけているってわかっているのに。

 だけど、扉が閉まるその瞬間俺は外に飛び出してしまった。


「あれ、どうかしましたか?」

「あっ、いや、なんでもないんだ。なんでも。じゃ、じゃあ気をつけて帰ってね」

「はい、悠介さんもお大事に」


 そして扉は閉じられ、俺は一人になった。

 病人は病人らしく、大人しく寝ておこう。何を気弱になっているんだ。

 だが


「一人になった途端、急に不安になったな」


 俺がスマホを抱いて布団に入ろうとすると、玄関の扉が開く音がした。

 あれ? 静さん、もう帰ってきた?

 俺が振り返ると、そこに立っていたのは、帰ったと思っていた雷火ちゃんだった。


「あ、あれ? 忘れ物?」

「…………いえ、そうですね、忘れ物と言えば忘れ物かもしれません」


 彼女は靴を脱ぎ捨てると、俺のベッドまでやって来てペタンと腰を下ろした。


「今さっき、なんで悠介さんはわたしを追いかけてきたんだろう? ってマンションの外に出て考えたんですよ。そしたらわたしなんかミスしてるような気がするって思って」

「う、うん?」

「わたしが自分の立場だったら、一人しかいない部屋でずっと寝込むって本当に寂しいなって。もし悠介さんが同じことをしてくれて、じゃあ元気になったから帰るねって言われたら、わたし寂しくて寂しくて死んでしまうかもしれません」

「…………」

「まして意識が朦朧として倒れた人を、すぐに置いて帰るってわたし何やってんだ、アホかって思って帰ってきました」

「…………」

「お邪魔じゃなければ、ママ先生が帰ってくるまでここにいても大丈夫ですか?」


 あっ、やばい、ちょっと泣きそう。

 なにこの優しさの権化みたいな子。


「風邪移るかもしれないよ」

「その時は悠介さんが看病しに来てくれるって信じてますから」


 フフンと自信満々な笑みをこぼす雷火ちゃん。

 もし風邪移ったら全力で看病しに行こう。


「さっ、わたしに構わず寝て下さい」

「う、うん。あっ、そのへんにあるゲームとかマンガとか好きに使ってくれていいから」

「はい、わかりました」


 彼女がいてくれるだけで、凄い安心感に包まれ俺はあっという間に夢の中へと落ちていく。

 もしかしてこれがバブみを感じてオギャるというやつなのだろうかと、新たな性癖に目覚めそうだった。



 悠介就寝後。


 雷火はラノベをパタンと閉じ、小声で話しかける。


(ゆうすけさ~ん、寝ましたか?)

「…………」

「…………大丈夫そうですね」


 雷火は安心しきった表情で眠る悠介の顔、特に唇の部分を注視する。

 彼女が悠介を放っておけないと思ったことは事実。それともう一つ、あれ? これもしかしてチャンスなんじゃ? という気がしたのだ。

 マンガやアニメの看病イベントには必ずラブがある。でも今日自分がやったのは悠介の部屋で火災を起こして、料理できない無能を晒しただけ。

 せっかく早退してまで得たチャンスを完全にコメディに振っているではないか。


 予想通り悠介は無防備に眠っているので、雷火は恐る恐る顔を近づけていく。

 彼女の頭の中に風邪が移る心配なんて微塵もない。多分”もう移ってる”と思うし、移ったら移ったでまたイベントが起きて美味しい。むしろどんと来いウイルスである。


「寝てる人にキスするって卑怯ですかね……。でも……」


 いいですよね? もうさっき薬口移しで飲ましちゃいましたし。


「ん――――――」



 その後雷火の期待虚しく、風邪は移らなかった。




 雷火の看護イベント         了

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