エトランゼ⑥
下校時刻をとっくに過ぎた小学校は閑散としていて、まるで異世界にでも来てしまったような不思議な感覚を覚える。
哲太は、誰もいない5年1組の下駄箱がある玄関から入り上履きを履くと、そのまま3階の音楽室へ向かった。普段気にも止めていない掲示板の張り紙を見ながらゆっくり上がる階段の途中、ピアノの音が聴こえてきて、哲太は耳を澄ませる。
(この曲)
哲太の通う藤原音楽教室では、毎年12月に、クリスマス会を兼ねた発表会がある。音楽室から聴こえてくる曲は、奏恵先生が哲太に勧めてくれた候補曲のうちの1曲だった。
『哲太君は自分で思ってるより指もよく動くし、頑張って練習すれば、これくらいの難易度の曲も弾けると思うのよね』
その時はあまり心惹かれず、この曲ではない、ブルクミュラー18番の大雷雨を選んだのだが、哲太は、聴こえてくるその曲が終わってしまうのが嫌で、必死に走り音楽室へ駆け込む。しかし入った瞬間、最後の音が響き渡り、曲は終わってしまった。
「あ!幸人だったんだ」
ピアノを弾いていたのは、藤原幸人だった。
「あれ?持田君どうしたの?」
「君付けとかこそばゆい、哲太でいいよ」
別に仲良しなわけではないけれど、同じクラスの男子は、普通にみんな下の名前で呼んでいる哲太は、幸人にもそう言ったが、幸人は戸惑うように笑うだけで何も答えない。
「なあ、さっきの曲なんだっけ?もう一回弾いてよ!」
「え?」
「実はこの曲発表会にどう?って勧められて、その時はあまりピンとこなくて、でも今幸人が弾いてるの聴いてたら、凄く良く感じたんだ!ね、頼む!」
哲太が拝むように頼むと、幸人は分かったよと言って、最初からもう一度弾き始めてくれた。
(やっぱり、なんだか凄くこいつの音気持ちいい)
幸人の細くて白い、だが決して弱々しくはない綺麗な手が、鍵盤の上を軽やかに動く。耳に残る、今までに聴いたことのないような円やかで美しい音色に、哲太はすっかり聴き惚れた。
「もう一回!」
「はあ、やだよもう」
「だっておまえの音、すげー心地よくて気持ちいいんだもん!」
哲太の言葉に、幸人はなぜかクスリと笑う。その顔を見て、哲太は、笑うとこいつ可愛いなと思った。引っ越してきた時から、女子達が美少年やばい!と騒いでいたが、哲太は、なんだか感情のない人形みたいだと思っていたのだ。
「おまえちゃんと笑うんだな」
「なにそれ?俺普段から笑ってるよ、持田君が俺とあまり話さないから知らないだけでしょ」
「持田君じゃなくて哲太!それじゃあ今度からもっと話そうぜ。ところでさっきの曲の名前なんだっけ?」
「ドビッシーの子供の領分に入ってる、グラドゥス・アド・パルナッスム博士だよ」
「それだ!なんの博士だか知らねーけど、めっちゃ覚えにくいよな、その名前」
幸人のおかげで曲名を思い出せて、哲太はいくらかスッキリする。
「そんなに気に入ったなら、今度の発表会この曲にしたら?」
「え?幸人弾くんじゃないの?」
「違うよ、これは小2の時に弾いた曲で、指慣らしに今も時々弾いてるだけ」
「小2って!なんだよおまえ、本当に天才ピアノ少年じゃん」
「全然、世の中には俺より凄い奴なんて山のようにいるし。母さんにもしょっちゅうこんなんじゃ甘い!死ぬ気で練習しろって怒られてるよ」
「えー!あの奏恵さんが!」
哲太が叫ぶと、幸人が冷めた目で哲太を見上げてくる。
「なんだよその奏恵さんて呼び方?」
「いや、ピアノ教室の時はちゃんと先生て呼んでるぜ、でも奏恵さんて凄い美人で女優さんみたいじゃん。レッスンの時も凄く優しいし、俺の憧れの女性なんだよ」
「ああ、あの人外面めちゃくちゃいいだけだから、俺からしたらただの鬼だし」
「鬼?あの上品で美しい奏恵さんが?」
「いやいや、生徒の前で取り繕ってるだけ。それなら俺、哲太のお母さんの方が気さくで面白くていいと思うぜ」
「えー!あの乱暴者で女らしさのかけらもない美佐枝が!おまえもしかして趣味悪い…」
言うと同時に思い切り後ろから頭を叩かれる。
「全部は聞こえなかったけど、あんたが私の悪口言ってるのははっきりわかったわよ!」
「ゲ!」
「何がゲだ!ごめんね幸人君、こんな無神経な男と二人で待たせちゃって」
「いえ、楽しかったですよ」
笑顔で答える幸人に、母の頬が緩む。
「あー、私もこんな素直で可愛い息子が欲しかった」
「俺も奏恵さんみたいな綺麗なお母さんがよかったし!」
「なんだって!」
拳で頭をグリグリされながら、こんな女だぞ美佐枝はと言うと、幸人は腹を抱えて笑いだした。そんな幸人の反応に、母も生徒の前で息子を怒り過ぎたと反省したのか、軽く咳払いをして、哲太が持ってきた楽譜を幸人に渡す。
「これ、急に頼んじゃってごめんね」
「あ、そうだよ、なんで楽譜」
「昨日言ったでしょ、私があんたのクラスの音楽見ることになったって。昔他の学校で5.6年の音楽も教えたことあったからなんとかなると思ったんだけど正直きつくて。CDで乗り切ろうとも思ったんだけど、5年1組には、せっかく幸人君というピアニストがいるしね。幸人君どう?弾けそう?」
「大丈夫だと思います」
母から渡された楽譜を、少しの間眺めていた幸人の言葉に、母は凄い!と喜ぶ。
「ありがとう!ほんと助かったわ!あ、そうだ、後1時間くらいしたら勤務時間終わるから、幸人君にはずっと残っててもらっちゃったし、校長に許可もらって家まで送っていくわよ。幸人君ちには私から事情話すから」
「ありがとうございます。甘えさせて頂きます」
「それから哲太、おばあちゃんの着替えと荷物持ってきた?」
「え?楽譜しか言われてないし持ってきてないよ」
「えー!あんた来るからそのまま家寄らないで病院行っちゃおうと思ったのに」
「はあ?俺のせいじゃないし、電話でちゃんと言わないのが悪いんだろ!」
「そりゃそうだけどさあ」
母はあからさまにため息をつき、それじゃあ悪いけどもう少しだけ待っててねと手を振り音楽室から去って行った。
「あームカつく!俺のせいじゃねえし!幸人もわかっただろ?絶対奏恵さんの方が優しいし」
「いや、うちも同じようなもん。それより病院て、なんかあったの?」
幸人に気遣わしげに尋ねられ、哲太は応える。
「ああ、この間ばあちゃんが倒れて入院しててさ、命に別状はなかったんだけど、うち父ちゃんはいないし、爺ちゃんは死んじゃってるし、大人が他にいないから結構大変なんだよ」
「ああ、哲太のところもうちと同じなんだ」
「え?登喜子先生なんかあったの?」
「違う違う、おばあちゃんは元気だよ。月、水、木はピアノのレッスンしてるし。そうじゃなくて、うちも離婚してるからお父さんいないし、おじいちゃんも俺が小さい頃死んでるってこと」
全く知らなかった哲太は、幸人の言葉に驚く。特に話さないだけかもしれないが、正直今まで、哲太以外に、離婚して父がいない友達の話しを聞いた事がなかったから。哲太がそう言うと、幸人は、たまたまでしょ、とこともなげに言う。
「離婚なんて世の中に溢れてるし」
「そんなもんか。でも俺実は父親の記憶ほとんどないんだよね。幸人は今もお父さんに会ったりする?」
「ああ、父親とはたまに連絡したりするよ、ドイツいるから中々会えないけど」
「ドイツ!外国じゃん!」
「いや、そりゃ外国だけど」
言いながら、幸人がまたクスクスと笑いだす。
「なんだよ!馬鹿にしてんの?」
「違う違う。美佐枝先生と哲太ってやっぱり親子だなって思って」
「どこが!」
「心と口が繋がってるところ。人前だろうとなんだろうと気にしないし、すごくわかりやすくていい」
「え?心と口が違う奴なんている?」
哲太がそう言うと、幸人は心から驚愕したような表情を浮かべ哲太を見つめる。
「い…ないか」
「だろ?別々の方が変だよ。あ、でもブスとかデブはもし万が一思っちゃったとしても言っちゃダメって美佐枝が言ってた。誰かに言ったらぶん殴るって」
「やっぱり俺、美佐枝先生好きだわ」
「だから幸人趣味悪すぎ!」
思わず顔をしかめる哲太を見て、幸人はまた楽しそうに笑う。この日から、それまで見知らぬ人も同然だった幸人は、哲太にとって特別な友達に変わった。
側にいながら、全く気づいていなかった魂の片割れが惹き合うように、少しずつ少しずつ、互いが必要な存在になっていく始まりの日。
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