genius-02
バベルの言葉にキリムが吹き出す。海そのものが青い液体だと思っていたのだろう。「船は海の中に敷かれた線路の上を走っている」と思っていたキリムより、発想が独特……いや、並べてみると大して変わらないレベルかもしれない。
「大丈夫だよ、この空の色で青く見えたんだ」
「そっか……海って、空色なんだね」
「空色の海、か。いいね、響きが素敵だよ」
水面が煌めき、遠くで船の汽笛が鳴り響く。
「あれは何て生き物の鳴き声?」
「あれは、船が遠くで鳴らした汽笛だよ。さっき港で見たあれ」
バベルは人の子のように色んな事を知りたがった。バベルを間に挟み、キリムとステアがあれこれと説明していく。岸壁に座る3人のその姿は、まるで兄弟のように見えた。
「どうして水が揺れてるの? 船が通ったから? 魚のせいかな」
潮の満ち引きがなぜ起きるのか、その謎はまだ一部の学者が仮説を立てている段階。キリム達は不思議に思ってもいなかった。
「えっと……なんでだろう。船が通ったから、って事はないよね」
「クラムポセイドンのせいだろう。あいつは海の神だ。あいつが揺らしている」
「そうなの? 止めるように言っといてよ、俺みたいに船酔いする人いるんだから」
「分かった、今度言っておく」
時々間違った知識が植え付けられているが、残念ながらそれを正してくれる者がいない。バベルはキリムとステアレベルの知識を吸収しながら、夕日が沈むまでずっと眺めていた。
「おひさまが何だか赤くなったよ」
「うーん、どうしてか分かんないけど、昔からそうだから気にしなくて大丈夫」
長く生きているとしても、ひたすら勉強をしている訳ではない。光の屈折や可視光の減色など知るはずがない。キリムは自分にも分からないと言いつつ、いつものことだからと気にしていない。
「日光に照らされ続けていれば日に焼ける。自身も焼けたのだろう」
「そっか……なるほど。あれ? おひさまが海に溶けちゃった! どうしよう」
「隠れて見えなくなっただけだよ。世界は丸いんだ、おひさまは裏側に隠れただけ」
「良く分からないけど、まだ隠れないで欲しかったな……」
「光が足りんならクラムウィスプに言え。キリムも周囲を照らす魔法なら使えるが」
「キリム、凄いね! 日焼けしてないのに」
「あ、えっとうん……。なんか、違う気がするけど」
* * * * * * * * *
バベルにとって、宿は特別なものだった。見知らぬ場所でありながら、自分が知っている事ばかりがありふれている。
町の中では右も左も分からず1人で行動出来ない。しかし、キリムの宿で過ごしたおかげで、宿の事はバッチリだ。
宿泊時に名前を書く(まだ書けない)、食堂で食事が出る(メニューがキリムの宿と違ったので質問攻め)、大浴場がある(入った事はない)、洗面台で歯を磨く(磨き方は知らない)などを得意気に挙げていく。
「ここ、ベッドが4つあるから4人部屋だね!」
「うん、そうだね」
「キリムの宿のベッドの方が気持ちいいね」
「うん……嬉しいけど、それは黙ってようね。宿の人が気を悪くする」
クラムは眠くて寝る訳ではない。キリムも寝る必要などないが、今は人を理解し、生活を体験させる事も重要だ。22時になっても元気がいいバベルに、キリムはそろそろ寝ようと提案した。
「さあ、もう夜遅くなったし寝ようか。夜働いている人は朝から寝たりもするけど」
「知ってるよ、人は眠くなるんだよね。疲れてしまうんだ」
「うん、その通り。ステアと一緒に起きててもいいけど、俺は寝ようと思う、ちょっと疲れた」
「見張りをする必要がないのだから俺も寝る。バベル、お前もだ」
「うん分かった」
大浴場にも入り、旅の埃はすっかり落とした。バベルは鞄を漁り、キリムをチラリと確認する。キリムが呆れたように頷くと、嬉しそうに豚さんの寝間着に着替え始めた。ステアも、もちろん狐さん寝間着だ。
「じゃあ明かりを消すよ。おやすみ」
「ああ」
「おやすみなさい」
挨拶の習慣がないとはいえ、バベルはキリムのおかげできちんと「おはよう」や「おやすみなさい」などを言える。バベルがおやすみなさいと言う間に、ステアはもう眠りに入っていた。
* * * * * * * * *
「……どうした」
真夜中の3時。バベルは月明かりの窓辺から、じっと外を見つめていた。気配でステアも起き上がり、起きたのだからと寝間着から軽鎧に着替え始める。
「ん~……あれ、今何時……」
「3時だ」
「3……え、3時? 何でもう起きてんの?」
クラム化のせいか、キリムも目覚めは良くなった。しかし寝間着のまま外を気にするバベルと、装備に着替えたステアの様子に、キリムは事態が飲み込めない。
「バベルが起きたからだ」
「軽鎧まで着てるし、音で目が覚めちゃったよ。どうしたの」
「起きたから着替えた」
「あ、そう……」
会話のキャッチボールが出来ているのかいないのか。キリムは深く突っ込むことなく受け流し、会話に加わらないバベルを心配する。
月明かりに照らされた青白い横顔は、目を凝らしているというよりも音を拾おうとしているようだ。
「バベルくん、何かあった?」
「……なんだか、どこかでざわざわしてる」
「え?」
「僕、行かなくちゃ」
バベルが寝間着を脱ぎ、急いで軽鎧に身を包む。
「ちょっと、ちょっと待った! 説明してくれないと困るよ! 俺まだ着替えてないし……寝ぐせも凄いし」
「助けてって言われた気がした! 僕行かないと」
「この前の老人のような事か」
「うん」
バベルはキリムが着替えるのを足踏みしながら待っている。何が何だか分からぬまま、キリムはフロントに鍵を預け、駆け出すバベルの後を追った。
月明かりだけでは周囲が分からない。それでもバベルは目的地が分かっているようだった。その速度はステアやキリムにも劣らない。土を蹴る音が規則的に続き、あっと言う間に駆け抜けていく。
その時、ふと町内にサイレンが響き渡った。
「な、何?」
「何かの襲来か、火事でもあったか」
「もしかして、バベルくんはこれに気付いたのかも」
バベルは一心不乱に走り続け、キリム達は見失わないようにするのが精いっぱいで問いかける暇もない。
バベルは港まで出るとそのまま波止場の端で止まり、じっと海の先を睨んだ。よく見れば他に数人の姿が見える。3時過ぎなら漁師が船を出すためにやってくる時間だが、どうも様子がおかしい。
「ちょっと、どう……え、ちょっと!」
「あ、あんたら旅人だな! 良かった、大変な事になっちまって」
「漁の途中で襲われたか」
波止場にはずぶ濡れの夫婦が倒れ込んでいた。ゴム長靴に黒いゴムのエプロン姿。乗っていたと思われるイカ釣り船は、まだ明かりがついたままだ。甲板には銛で突かれたサハギンの死骸が1つ転がっている。
「魔物が……海から現れて……ゲホッ、くっ……船が襲われ……」
男が苦しそうに咽せながら、その当時の状況を説明しようとする。周囲には動揺が走り、これから漁に出ようとしていた者達が船の鍵を握りしめる。
イカ釣り船はランプを幾つも下げているため、水棲の魔物からも狙われやすい。他の船も、この時間に船を出すのなら明かりは必須だ。
そのため、通常は数隻で行動するのだが、港には帰って来たであろう他の船が見当たらない。目を凝らせば、まだ遠くの海上には船の明かりが幾つか見えている。
バベルはその方角を睨んでいた。
「襲われたのはお前らだけか? でも生きて帰れて、ひとまず良かった」
「……違う、違うの……うっ……ゲッホ、うっ……違う」
「は? 何が違うんだ」
「俺達じゃねえ、俺達じゃなくて……」
夫の代わりに妻が遠くに見える船団を指さす。
「客船が……客船が沖でサハギンの大群に……襲われてるの!」
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