Babel-02



「ああちょっと! シーツに血が付くだろ!」


「洗えばいいだろう、何を騒ぐ必要がある」


「いや、洗うのは俺なんだけど」


 キリムが慌ててバベルの口元にタオルを当てる。バベルの口からかなりの量の血がこぼれていたからだ。


 ステアだって気遣いが出来ない訳ではない。けれどおおよその事において雑だ。それはクラムがそれぞれスペシャリストであり、専門外の事を上手くやろうとは思っていないせいでもある。見捨てないだけ良しと考えるべきところだろう。


「このクラム、バベルって名前なんだね」


「ああ、自らそう名乗った」


「なぜ昏睡状態なのか分からぬが、何を司るつもりなのか。血を与えて目覚めぬなら投薬か、もしくは刺激を与えても良いな」


「あー……少し待ってからにしませんか」


 アスラの家の様子はキリムも知っている。怪しい薬やまじないを想像し、キリムはアスラの申し出をやんわりと断った。





 * * * * * * * * *





「ここは」


 木の香りが漂う1室に、温かな光が差し込む。バベルは誕生した時とは全く別の場所にいると気付き、むくりと上半身を起こした。


「お、起きたな。流石クラム、目覚めが良すぎて怖いくらいだ。どうだ調子は」


「ここは、どこ?」


「キリムって召喚士が経営してる宿だ。俺はエンキ、ワーフ様と一緒に鍛冶をやってる」


「ワーフ……」


 バベルがベッドの横の椅子に座っていたエンキに気付いた。1時間おきにキリムとエンキが交代で看病していたのだ。エンキは読んでいた本に赤いお手製の栞を挟み、ゆっくりと立ち上がる。


「起きられるか? あー……あんたが何のクラムか分かんねえけど、鍛冶のクラムじゃねえよな」


「違う、僕は……」


「ん? どうした」


「僕、僕はいったい……あれ、分からない」


 バベルの表情は固まったまま。どうやら自分が何のクラムか分からないようだ。褐色の肌、金色の髪、青みがかった瞳。健康そうな少年のようで強そうにも見えず、連想出来る武器が何も思い浮かばない。


「おいおい、自分が何のクラムか分からねえなんてあるのかよ。ちょっと待っていてくれ、キリム達呼んで来るから」


「う、うん……」


「約束だからな。勝手に瞬間移動で洞窟に帰るのはなしだぞ。クラムに二言はねえよな」


「帰る……?」


 生まれたてて混乱しているのか、それとも司るものを何も持っていないのか。この状態で怯えられ、洞窟やその他の場所に逃げられたら探しようがない。エンキは悩んだ結果、扉をあけてバベルを視界に入れつつ、大声でキリムを呼んだ。


「あ、バベルくん起きたんだ」


「一応はクラムだぞ、バベルくんはちょっと」


「でもまあ俺達もクラムみたいなもんだし。さあ、これはこの宿の室内着なんだけど、背丈に合うと思うから着てみて。それと下着ね、新しい奴だから大丈夫」


「あ、うん……」


 クラム達はいったん洞窟に戻っていた。キリムはステアを呼ぼうかと思ったが、自分以外のクラムの世話など、ステアが許すとは思えない。ワーフもエンキが甲斐甲斐しくバベルの世話をしたと知れば、どれだけ嘆くことか。


「ステアとワーフには内緒、いいね」


「ああ。ワーフ様にはすっげえ申し訳ないけど、内緒にしていた方がいいのは分かる」


 キリムはワーフが用意したブカブカの服から着替えさせようと、一式をベッドの上に置く。一方、バベルはクラムとして生まれただけで、人の習慣は一切分からない。


 ワーフや一部のクラムのように、人のためにものを作ったり、売ったり運んだりするのでもない限り、服の着方からまず分からない。おまけに人にある羞恥心がクラムにはない。


「もしかして……あー、えっと、まずこれに足を通して。パンツね。その後、このズボンを穿いて」


「なんで?」


「え、なんでって……えっと、何でだろう」


 バベルの素朴な疑問に、キリムは咄嗟に答えが出て来ない。しかし、だからといってそのままでいいとも言えない。ワーフのようなウサギ男ならともかく、人の姿で全裸だと問題が多すぎる。


「えっと、人はね、だいたい服を着るんだ。だから人の姿で服を着てないと驚かれちゃうし……変態って思われたりする。ああ、変態ってのは、別にサナギからチョウが生まれるみたいな事ではなくて」


「サナギ……チョウ」


「あー、お前ののんびりペースで説明してたら陽が暮れちまう。とりあえず着りゃいいんだよ! 裸でうろつくと捕まる! 悪い事! だから着る! チンコ出すな! 分かったか」


「分かった……着る。着るって、なあに。チン……」


「あーあー! 何でも聞き返すな! 着るってのが何かって、俺達みたい……あー、俺鍛冶の前掛けのままだった。そこにいるキリムみたいに、服で自分の体を隠せって事だよ」


 服の重要性までは理解できていないようだが、バベルは大人しく用意された服に手を伸ばした。何分もかけてパンツを穿き、ズボンを穿き、ようやく半袖シャツに袖を通す。


「あー違う違う、そこは首が通るとこ!」


「ばっか、ちげえよ、前後ろ反対じゃねえか!」


「ねえエンキ……。俺、バベルくんが女の子じゃなくて、なんとなく助かったと思ってる」


「言いたい事は分かる。はい次はブラだぞーなんて、流石にきついよな」


 もしこれが女の子だったなら。いや、男の子でもどうかと思うが、傍から見てどうだろうか。2人が助かったと思うのも無理はない。


「きついどころか、そんなの用意してないよ。その時はエンキに作ってもらうしか」


「ばっ……そ、そんなの買えばいいだろ」


「嫌だよ、恥ずかしいじゃん! サイズとか何も知らないんだし」


「100歳とっくに超えてんのに、何が恥ずかしいんだよ」


「じゃあエンキが買って来てよ」


「お、俺!? いやいや待て待て、そもそもバベルは男だろ、要らねえし」


 どうやら経験は蓄積されても、心は思春期のままらしい。キリムとエンキは互いに架空の下着を押し付け合って疲弊している。


「着る、したよ」


「あ、うん。なんとか出来たね。じゃあ……ひとまず1階に行こうか」


 幸か不幸か、バベルは物の名前を知らない。おかげでキリムとエンキの会話は耳で追えなかったようだ。


 バベルはおとなしく2人の後に続き、1階の食卓テーブルの椅子に座った。物珍しそうに周囲を見渡し、あれは何、これは何としきりに聞いてくる。


「ステアもこんな感じだったのかな」


「ステアに服の着方や物の名前を教えた奴、絶対胃に穴が空いたよな」


「別に胃に穴など空けてはいない」


「うおぉぉ!?」


 エンキがニヤリと笑った後、そのすぐ背後で声がした。エンキは椅子ごと飛び上がり、ゆっくりと振り返る。


「こ、これはこれは、ステア……と、ワーフ様」


「やあやあ! バベルは目覚めたんだね! 気分はどうだい、急に倒れておいら心配したんだ」


バベルはそれぞれの顔を見ながら「ステア、ワーフ」と繰り返す。最初に会った事を覚えているようだ。


「ねえ、バベルくんは何のクラムか自分で分からないらしいんだ。服の着方も知らないし、見るもの全て、名前も使い方も分からないって」


「は? そんなはずがないだろう。クラムは自らが何を司っているか、それこそが存在意義であり誇りなんだぞ。俺も物の名前を覚えるのは苦労したが」


「普通は発生してからゆっくり覚えていくんだ。実際に召喚に応じるようになるまで何十年もかける。でも、自分が何のクラムか分からないなんて、おいらも初めてだ」


 酷く消耗した状態で発生した事と、何か関係があるのか。バベルの次に若いステアはともかく、ワーフが知る中でも前例がない。


「もう少し血をあげて、本調子になってもらうとか」


「武器を片っ端から見せていくとか……」


 今日は宿の泊り客がいない。キリム達は夜遅くまで、バベルのために色々な案を出し合っていた。

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