dedication-09(108)
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キリムの血を貰い気分が良かったからか、ステアは珍しくぐっすりと眠りについていた。
やがて窓から淡い光が差し込み、外では荷車の車輪が軋む音が聞こえ始める。田舎の朝は早い。夜明けと同時と言えど、畑に出る者、家畜の世話をする者、朝食の用意をする者、殆どが起きている時間だ。
ステアは身じろぎする事もなくゆっくりと目を開ける。隣のベッドにはキリムが寝ているはずだったが、もう起きているのか姿がない。装備はそのままだから、寝起きの恰好のままという事になる。
「……顔でも洗いに行ったか」
クラムは顔など洗わなくても支障はない。それでもキリムと共に行動するうち、顔を洗う、歯を磨くなどの習慣を真似するようになった。ステアはゆっくり起き上がり、タオルを持って右手で寝癖がないかを確認しながら部屋を出た。
1階に降り、風呂場の脱衣場の洗面台に向かうも、キリムの姿はない。昨日あれだけ食事をしておきながらもう腹が減ったのか。ステアは風呂場を覗いた後で食堂に顔を出した。
「あらおはよう、クラムステア。あなたもご飯を? ……なかなか可愛い寝間着ね」
オリガが思わずプッと噴き出す。可愛らしいウサギが大きくプリントされた前ボタンの寝間着は、背が高く凛々しい青年姿のステアが着るにはインパクトが強い。
「そうか。飯は不要だ。ビールなら貰おう」
「流石に朝からビールは出せませんよ」
クラムは人の感覚とは違う。この村の住民はそれをちゃんと分かっている。かといって神であるクラムだからと何でも応える訳ではない。オリガは笑いながらやんわりと断り、目覚めにと1杯の水と、珈琲を差し出した。
ステアはまず水を1杯飲み干す。そしてコーヒーカップの取っ手を持つのではなく側面を掴んで持ち上げると、躊躇わずに珈琲を一気に流し込んだ。
熱さを気にもしないのは今更だが、味や舌触りが好きというのが本当かどうか、疑いたくなる行動だ。
「キリムの姿がない」
「キリムならもう食事を済ませて、外に出ていきましたよ。きっとキルミアとイーシャのお墓でしょう」
「そうか」
ステアはオリガに礼代わりに少しだけ頭を下げ、宿の外へと出ていった。宿から墓地までは少し距離があるものの、急いで祈りの時間を邪魔するつもりはない。
歩いて向かった墓地には、案の定キリムの姿があった。歩く速度の違いで追いつける程度の時間差だったのか、キリムは父母の墓前にちょうどついた頃だった。
陽の光が照らし始めた敷地内は、他の者の姿がない。キリムは手を合わせ、何かを呟いている。ステアは気づかれない位置で足を止め、見守った。
「父さん、母さん、おはよう。俺が旅立てなかった去年の3月から、今日でちょうど1年経ったよ。また出発するけど、ちゃんと帰ってくるから」
どうやらキリムは旅立ち前の報告に来たようだ。無理矢理引き剥がすように旅立たせた手前、この時くらいは気の済むまで待とうと、ステアは墓地の入り口まで戻った。
暫く……数分ほどしてキリムが戻ってくる。ステアがいる事に少々驚きつつ、キリムはにこやかに声を掛けた。
「おはよう。来てたなら声を掛けてくれたらいいのに」
「邪魔になると思った。もういいのか」
「うーん、良いかと言われるとちょっと迷ってる」
やはり故郷を離れる事が寂しいのか、それとも両親への報告がまだまだあったのか。キリムの言葉からは真意が読み取れない。
「急いでいる訳ではない。昨晩の場所へはすぐに戻れる」
「いや、そうじゃなくてさ」
キリムは苦笑いしながらステアの服の袖を引っ張る。寝起きの姿で来ている事に、何か困る事でもあったのだろう。自身もくたびれたグレーの長袖シャツを着ており、誰がどう見ても普段着以下の装いだ。
2人とも宿のサンダルを履いていて、武器も所持していない。
キリムはそのままステアを案内し、再び墓前に立つ。
「ほんとは、ちゃんとした恰好でしたかったんだけどね。もうこの恰好でもいいや」
「何がだ」
「カーズ、ここでなろうって決めてたんだ」
「……いいのか」
ステアは驚く。キリムにとって、カーズになる、人としての生き方から外れるという事は、重い決断のはずだった。ステアはその日を待ちわびていつつも、まさかこのタイミングで言われるとは思っていなかった。
「デル戦で命を落としてこの墓地に眠るのは10人や20人じゃないんだ。100人、200人、いや、もっといると思う。生きられなかった人の分まで俺が生きられたなら、ここのみんなが見てきた事、感じていた事を俺が語り継げる」
「俺にもお前にも時間は限られている。確かに次に負傷した時、目覚めるとは限らん。だが……本当にもういいのか」
もういいのか。それは強くなりたいという願望や、もう少し背を伸ばしたい、筋力をつけたいという成長への憧れを諦めてもいいのかという意味だった。
キリムはそれらをここで手放そうとしているのだ。ステアは従僕として、それを確認もせず喜んで歓迎する訳にはいかなかった。
「いいんだ。俺は今までずっと時期を見送って、機会を見送ってきた。ステアが俺を連れ出してくれなきゃ……俺は今どうなっていたか分からない。だから、少し前倒しくらいでちょうどいい」
「キリム、もう一度問う。本当にいいんだな。その決意はお前のためのものだな」
「うん、俺のため、俺がやりたい事のため。みんなの前で、父さん母さんの前で誓いたい」
ステアはキリムの決意を聞いて、ゆっくりと頷いた。何度も念を押すのもまた、キリムの思いを無下にする行為だ。
キリムは1度、母親の死をきっかけに、そして父親のために旅立ちを断念した。その際は井戸の前で旅立ちを渋り、ステアが強引に連れ出した。
父親が死んでからは失意のまま旅を再び諦め、ステアに説得された。これまでの決意は全てステアに促されてのものだった。
キリムは今日、人としての成長を手放す。それを決意と言うべきなのかは分からない。けれどキリムは確かに、自分だけの意思で判断した。
「分かった。俺の血をお前に」
ステアから血を分けて貰った後、キリムがどうなるのか定かではない。はっきり分かっている事は、目覚めないまま生きている前例がある以上、死ぬことは無い、そして永遠に老いる事がないというだけだ。
キリムはステアに腕を差し出される。普段ならステアがキリムの腕に牙を立てるものだが、今日はその逆だ。
「えっと……噛みつくの?」
「ああ」
「なんか、こう……ちょこっと切って、垂らしてもらうとか」
「この期に及んで何を言い出す。先程の決意はどうした、煮え切らん奴だな」
魔物を斬ることは出来る。必要なら殴るし、蹴る事もある。噛みついたことはないが、キリムは魔物相手なら躊躇わない。しかし、人型の相手だと別だ。
「武器は持ってきていない。俺は歯型ぐらい何とも思わん」
「いや、なんかそこは人として駄目な気がする! 人の歯って鋭くないし、あー駄目駄目! 想像しただけで貧血起こしそう」
ステアが自分の爪で皮膚を裂こうかと言ってもウンと言わず、かといって他に方法もない。
結局キリムとステアは一度宿に戻り、オリガに挨拶をしてチェックアウトを済ませてから墓地に戻った。
「グダグダになっちゃった。でもなんか、肩の力は抜けたよ」
「それで、俺が自分の腕をほんの少しだけ切って、滲んだ血をお前が掬うんだな」
「そう! それならいけそう」
ステアはため息をつき、躊躇いなく自身の左腕を短剣で斬った。流石は双剣の神、僅か薄皮1枚を切るかのような手捌きだ……と思ったのは間違いだった。
「ステア! ちょっと、切り過ぎ!」
自分に対して無頓着なのか、ステアは力を入れなかったものの、普通に大きく刃を引いた。案の定、血はだらだらと垂れはじめ、掬って口に入れるどころではなくなった。
「構わん。早くしろ」
「早くしろじゃないよ! 止血!」
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