第8話

 昔から朝が苦手だった。

 いつも時間ギリギリまで寝てしまって、母に怒られる事もよくあった。

 でも、その日は自然と朝早くに目が覚めた。

 すべき事が山のようにある。

 まずは家の片付けだ。

 竜也が来る明日までには何とかしなければならない。

 私の部屋はそれなりに片付いているが、両親はあまり几帳面な性格ではない。

 しばらく洗った形跡がないリビングのカーテンを引き剥がし、洗濯機に放り込む。

 ソファのカバーも気になったが、一度に洗える量ではない。

 洗濯機の順番待ちをしている間に、床の拭き掃除をする。母はいつも掃除機をかけるだけだから、シミのようなものが所々に残ってる気がした。


「朝から何してるの?」


 そうこうしている間に母が起きてきて、不思議そうな表情を浮かべた。


「見ての通り掃除だよ。言ったでしょ。竜也が明日来るって」

「来るのは竜也くん一人だけでしょう? そんなに張り切ってどうしたのよ」

「……久しぶりに来たのに、汚いって思われるの嫌じゃん」


 竜也が最後に来たのは小学生の時だった。

 昔より家が汚くなったと思われるのは嫌だった。


「あ、そうだ。来客用のお菓子って何かあったっけ?」

「あなたが食べてるいつものオヤツならあるけど……」

「そうじゃなくて。もっとちゃんとしたお菓子ないの?」

「ないけど、男の子なんだしスナック菓子の方が良いんじゃないの?」

「じゃあジュースは?」


 母の顔が、やや困惑した様子に変わっていく。


「……ちょっと気を遣いすぎじゃないの? 初めてのお客さんじゃないんだし……」

「……久しぶりだから嫌なんだって」


 小さい時とは違う。

 私達はもう殆ど大人なのに、未だに子供のように扱おうとする母に嫌気が差した。


「いいや。私買ってくるから」


 どうせ洗濯機が止まるまで時間がある。近くのスーパーで買えば良い。


「ねえ、霧香」


 部屋に向かおうとする私に、母の声が投げかけられる。


「もしかして、竜也くんとお付き合いする事になったの?」


 一瞬、言葉に詰まった。

 少しだけ迷いが生じる。

 いっそのこと相談してしまおうか。


「……そんなんじゃないって」


 結局、何も言わない事にした。

 短く会話を切り上げて、部屋に向かい着替えを済ませる。

 時計を見ると、ちょうどスーパーの開店時間だった。

 家を出ると、朝の冷たい空気が肌を差した。

 歩きながら、竜也は今頃どうしているのだろう、と考える。

 私と同じようにそわそわしているのだろうか。

 いくら幼馴染とはいえ異性の家に来るのだから、多少は意識するだろう。

 少なくとも、今回の事をきっかけに意識して貰える程度には頑張る必要がある。

 そこまで持っていく事が出来れば、後はすんなりいくはずだった。

 既に友人としては、親友と言っても良いレベルに達しているはずだ。

 そう、異性として意識して貰うだけでいい。

 焦る必要はない。

 角田先輩よりも私の方がずっと竜也に近しいのだから。


 スーパーに着くと、私は真っ先に飲料売り場に向かった。

 竜也は炭酸飲料を好む。二種類ほど買っておけば問題ないだろう。

 それから、お菓子売り場で煎餅を手に取る。

 いつも夏休みは田舎に帰省していたせいか、竜也は昔から煎餅が好きだった。

 「年寄りみたいだ」とからかっていたのが懐かしい。

 次に衛生用品のコーナーへ向かう。

 部屋とリビングとトイレ用に芳香剤が三つ欲しかった。

 あとは消臭スプレー。部屋用と玄関用。

 いくつか目に入ったものが気になり、予定になかったものまで買うはめになってしまった。

 特に匂い関係は妥協出来ない。

 生活臭というのは慣れていると分からないし、竜也に幻滅されたくなかった。


 レジを通すと、それなりの値段になった。

 財布の中身が目減りしていくのを見て、小さく溜め息をつく。

 竜也と付き合えても資金不足であまり遠くまで行けそうになかった。

 夏休みになったらバイトを入れよう。

 同じ場所でバイトするのを提案しても良いかもしれない。

 それなら夏休み中も頻繁に会えるし、一緒に遊ぶ資金を確保出来る。

 付き合った後の事を夢想しながら、家路を急ぐ。

 その途中、小さな本屋があってふと足を止めた。

 将棋の本もあるのだろうか。

 竜也が退屈しないように何か用意しておこう。

 そう思って、本屋へ入る。

 目当てのものはすぐに見つかった。

 趣味のコーナーに並んだ将棋の本。

 その中で、詰将棋の本を手に取る。

 初心者向けから上級者向けまで色々なものが収録されているようだった。

 これなら竜也でも楽しめそうだ。


「これください」


 レジに持っていくと、暇そうにしていた白髪の老人が意外そうな顔で手元の本を見た。


「これはプレゼントかな?」


 いえ、と答えかけて口を噤む。

 プレゼントにした方が喜ぶかもしれない。


「……はい。プレゼントです」

「うちは50円でラッピング出来るけど、どうしようか」

「じゃあお願いします」

「うん。ちょっと待っててね」


 ニコニコと老人が笑いながら、包装紙を取り出す。


「お相手はお父さん? お祖父ちゃんかな?」

「……あの、こ、恋人です」

「おやぁ……じゃあ若い子だねぇ。青色の包装紙で良いかな?」

「は、はい」


 つい恋人と口走ってしまったが、老人は自分の事のようにニコニコと嬉しそうに本を包んでくれた。


「はい、出来たよ。喜んでくれると良いねぇ」

「ありがとうございますっ!」


 しっかりした紙袋を渡され、思わず頭を下げる。

 そのまま店を出ると、よく晴れた空が私を出迎えてくれた。

 眩しさに思わず目を細め、自然と笑みが零れた。

 良い休日になりそうだった。


 家に戻ると、父もリビングに出てきていた。

 父は私を見ると母と似たような反応を示した。

 

「今日は随分と早いね」

「竜也が来るって言ったでしょ。色々と用意しないと」


 買い物袋をテーブルに置く。


「それは?」

「お菓子とか芳香剤とか。洗濯物出してくるから、お父さんそれ冷蔵庫入れといてー」

「ああ」


 洗濯機からカーテンを取り出し、干すためにリビングに戻る。

 買い物袋を覗いていた父が怪訝そうな声をあげた。


「おい、霧香。消臭剤買いすぎじゃないか? こんなにいらないだろう」

「いるんだって。ちゃんと全部の部屋に置いておかないと」

「だからってこれは……来るのは竜也くんだろう?」

「久しぶりだからちゃんとしたいの。明日は髭剃ってよ。休みの日はいつも剃らないんだから」


 父はそれで反論する気をなくしたのか、降参するように両手をあげてテレビに視線を移した。


「ちょっと部屋戻ってるね」


 不意に私室の窓が気になった。

 窓ガラス掃除はあまりしていない気がする。

 あと、ベッドシーツと枕カバーは今日中に洗っておきたい。

 万が一の可能性だってあるのだから、寝具周りで手を抜くわけにはいかない。


「やる事、いっぱいあるなぁ……」


 いつもは気にならない所が、今日は妙に気になって仕方がなかった。

 しかし、こういう部分で減点されたくない。

 何から手を付けようかと部屋を見渡した時、ベッドに置いていたスマホから着信音が響いた。

 慌てて手に取ると、発信者は竜也だった。

 小さな胸騒ぎ。


「……もしもし?」

『あ、霧香? いきなりごめん』

「ん。どうしたの?」

『いや……それが……』


 歯切れが悪い。

 嫌な予感が大きくなっていく。


「……明日の事?」


 半ば予感のようなものがあった。

 恐る恐る問いかけると、電話口から肯定の言葉が返ってくる。


『……悪い。キャンセルさせて欲しい』

「あー、うん……日程変更しようか?」


 沈黙が訪れる。

 嫌な間だった。

 なにか良くない事が起きる前触れのように思えた。


「竜也?」

『……日程を変更というか、キャンセルさせて欲しい』


 何かを言い淀むような竜也の様子に、違和感が膨れ上がっていく。


「……理由、聞いてもいい?」


 竜也はすぐには答えなかった。

 竜也以外の声が、向こうから聞こえた気がした。

 女の声だった。


「……竜也?」


 焦燥感と不安が胸を満たしていく。

 竜也の小さく息を吸うような音が耳に届く。

 そして、呆気ないくらいにそれは告げられた。


『四季先輩と付き合う事になった。だから霧香の所には行けない』

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