第9話
「穴熊の姿焼きだね」
半年前の秋。
まだ部室に私と竜也の二人しかいなかった頃。
盤面を見下ろして硬直していた私に、竜也はそう言った。
「……すがた、やき?」
「穴熊は完成すると固いけど、逆に囲い以外が取られるとこうやって何も出来なくなる」
特に、と竜也は歩を進ませた。
「と金と金を交換させられると、徐々に削られていくしかない。じわじわと焼かれていくだけだ」
竜也の言う通り、私が出来ることはもうなくなっていた。
完成した防御陣地は、もう何も意味を為していない。
「防御は大事だけど、防御するだけだと相手の王を取る事は出来ない。防御はあくまでこっちが王を取るまでの時間稼ぎでしかないって考えた方が間違いづらいかもしれない」
記憶の隅に残っていた竜也の言葉。
それが鮮明に蘇った。
たぶん、それは将棋に限った話ではない。
防御は時間稼ぎのための方法でしかなくて、そこで稼いだ時間を使って何らかの勝利条件を満たすべきなのだろう。
「それと、霧香は少しだけ駒の交換を嫌がる癖があるね」
竜也の指摘はいつも的確だった。
だから、素直に言うことを聞くことができた。
「一方的に駒を取る、なんて事はどれだけ将棋が上手でもなかなか出来る事じゃない。だから、どの駒とどの駒をどうやって交換するのか、という考え方も場合によっては必要になってくる」
だから、と竜也は穏やかに笑う。
「駒を交換するんだ、という心持ちで取らせてみると見え方が違ってくるんじゃないかな」
それも多分、将棋に限った話ではない。
何かを得ようとするには、何かと交換する必要がある。
それは時間だったりお金だったり、あるいは物だったりする。
何と何を交換するのか。どうやって交換するのか。
そして、いま私が持っている駒は何なのか。
たぶん、そういう事を考えていく必要があった。
すうっと、頭の中が冷えていく。
右手で握り締めたスマホは、いつの間にか通話が切れていた。
あの後、竜也に対してどういう風に答えたのか記憶が定かではない。
なにか適当に相槌を打って終わらせたような、そんな気がした。
ゆっくりと息を吐き出して、部屋を見渡す。
ベッドシーツが目に入った。
私は暫くそれをじっと見つめた後、予定通りにベッドから剥がして洗濯機に放り込む事にした。
「お母さん、洗濯機もうちょっと使うね」
「それは良いけど……そこまでしなくても……」
母が苦笑する。
私はそれを聞き流して、ふらふらと自室に戻った。
意味もなくスマホを触りながら、竜也にもう一度連絡するタイミングを考える。
おそらく、竜也は角田先輩と一緒にいるのだろう。
そして、角田先輩が竜也に断りの連絡を入れるように指示をした。そう考えるべきだった。
ならばタイミングを図る必要がある。
角田先輩と離れた時を狙えば、竜也を誘導する自信があった。
私が持っている最大の駒は信用だ。
竜也は私の言うことを疑わないし、必要以上に遠ざけようとはしないだろう。
思考を切り替えるように、息をゆっくりと吐き出す。
そして、私は予定通りに家の片付けを進めた。
「将棋って先手の方が有利なの?」
いつの日か、私は竜也にそう尋ねた。
何かでそう聞いた覚えがあって、特に何も考えず質問しただけだった。
けれど、竜也はじっと黙り込んで曖昧な笑みを浮かべるに留めた。
「どうだろうね。統計的には先手の方が勝率が少し高いだけだよ」
「高いだけって……つまり有利って事じゃないの?」
私の言葉に、竜也は言葉を選ぶようにゆっくりと口を開いた。
「……将棋の盤面はあまり大きくなくて、その中で駒が動くパターンの総数っていうのは限りがあって有限だよね」
「ユーゲン? ……ああ、うん。そうなるのかな?」
「ということは、もし全部のパターンを瞬時に把握できる人なら、どこかで必ず勝てるパターンが生まれるよね」
「……うん? まあ……そうだね」
「その詰みが確定するのがどのタイミングなのかっていうのが、まだ分かっていない。ボードゲームによっては先手を取っただけで必勝パターンがあったりするけど、将棋は初期状態では勝敗が決さないと言われている。だから、先手が本当に有利なのかは何とも言えない。実は後手の方が勝ちパターンが多いかもしれないし、それはもっと先の時代で解析からじゃないと何とも言えないと思う」
それに、と竜也は言葉を付け加えた。
「棋士ごとに勝率を見てみると、後手の方が勝率が高い人だっている。だから先手後手にそれほど拘らない方が良いと思うよ」
静かな校舎。
私と竜也の二人だけの部室。
ずっと続いて欲しかった世界。
それを思い出しながら、私は自分の勝率はどれくらいなんだろう、と考える。
人の心の動きは将棋の盤面よりも遥かに複雑で、そのパターンが有限なのかも分からない。
先手後手は、重要ではない。
竜也はそう言ってくれた。
それは多分、何にでも言えることだった。先手だからとか後手だからという事に振り回されるのは馬鹿馬鹿しい。
だから、私は今もこんな事をしようとしている。
時計を睨みつけると、午後十時を回ったところだった。
角田先輩と一緒にいる確率は少ない。
スマホの連絡先から竜也を選択し、通話ボタンに指をかける。
――もし、まだ角田先輩と一緒にいたら?
頭をよぎった想像を無視し、通話をかける。
一コール。ニコール。
『……もしもし』
四コール目で、竜也の声が届いた。
「あ、夜にごめんね。今一人?」
すぐに探りを入れる。
不安で心臓が早鐘のように鳴っていた。
『ああ……そうだよ』
「昼のことだけどさ、ちょっと時間いいかな?」
『……いきなり前日に悪かった』
「いや、それなんだけどさ……実はまだ親に言えてないんだよね」
『え?』
竜也の戸惑いの声。
それを無視して畳み掛ける。
「特にお母さんの方がさ。竜也と会うの数年ぶりでしょ? 前から楽しみにして張り切っててさ、なんか言えなくって……」
『それは……』
「あのね、だからさ、短時間で良いから会ってあげてくれない? 私と遊ぶんじゃなくてさ、お母さんとちょっと話に来るだけなら別に良いでしょ?」
自分でも驚くほど舌が回った。
平気な顔で嘘を並べ立てて、竜也なら断れないであろう方向から攻める。
「角田先輩もそんな事で怒らないでしょ? 私と会うんじゃなくて近所のおばさんと会うだけなんだから。たまたま私の家でもあるだけで」
『……いや……そういうのは……』
「それにさ!」
自然と声量が大きくなった。
「この前本屋に寄ったら詰め将棋の本見つけてさ、竜也が好きそうだなぁって思って一冊買ったんだよね。部室に持っていく方がお邪魔虫みたいで嫌じゃん? ついでに明日渡すから来てよ」
一瞬、沈黙が落ちた。
僅か数秒のことが、私には随分と長く感じられた。
短時間の通話なのに、スマホを握る手が汗ばんでいた。
『……わかった。短時間だけ寄らせて貰う事にする』
「そ、そっか。うん。お母さんも喜ぶよ。じゃあ明日の十一時ね」
『……ああ』
竜也の気持ちが変わらないうちに通話を切る。
自然と溜め息のようなものが出て、私はスマホを机の上に置いた。
その時、ラッピングされた本がふと目に入った。
私は無言でそれを手に取ると、包装に爪を立てた。
びりびりと音を立てて包装が破れていく。
足元に散らばっていく紙片はとても軽くて、もうただの可燃ゴミでしかない。
「駒を交換させるって、こういう事かな」
意外と簡単だな、と思った。
これなら多分、もっと大きな駒も交換できるだろう。
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