第14話「君がこの道に興味があるのなら」

 依頼した溶接部材は、一週間で届けられる運びとなった。

 ヴェルナーの経験では二、三週間と踏んでいたので、明らかに優遇されている。ヤスミンカが悪さを働いたのかと勘ぐったが、交渉の過程で探りをいれるに、どうも本当に実力らしい。


 大企業から無理難題を突きつけられ、乗り切るためのノウハウと設備投資が進んだからだという。トトノ重工ともなると、一口あたりの受注量も金額も桁がちがうにちがいない。物量で試作屋さんを動かすのはさぞかし気分がいいだろうな、とうらやむヴェルナーだった。




 納品までのあいだは、いたって平和だった。平和というと、大人を巻き込むような大事件は起こっていない、ということでる。


 せいぜい、ヴェルナー愛用の自転車が、小型個体ロケットを背負い制御不能になり、木に激突して粉々になってしまったことくらいである。


 あるいは、文章が不規則な文字列に変換されるローター式暗号機の初期型をどこからか持ち込んで、ひとり読解ごっこをして遊んでいたくらいである。ちなみに、原理が数の暴力にすぎないことに不満たらたらだった。


 その程度のことは、とるにたらない些細なことだと認識するヴェルナーもリンドバーグは、すでにヤスミンカに慣れてしまっていた。

 むしろ、ヴェルナーにとって心配事は、別のところにあった。


 ヤスミンカの話についていけないのである。


 二年の学年差があるとはいえ、リンドバーグが食らいついているところを間近でみていると、否応なく焦燥感を駆り立てられる。学校の試験勉強であれば、及第点ぎりぎりの彼はなんとも思わない。けれど、工房でおこなうヤスミンカとの議論は、自分が好きで始めたことだ。

 なにより、ヤスミンカは、自分が同じ景色を見るのだと信じて疑わない。宣言したときのヤスミンカの疑いのない眼差しが、ヴェルナーの背中を押した。




 その日、基地へと向かうはずの彼は、バス停の前で止まった。市内を走る乗合のバスに乗車し二度、バスを乗り換える。

 目指すは、欧州大陸随一の所蔵目録を有する、王立図書館である。

 ヴェルナーは、バスから降り立ったその瞬間から、緊張にも似た張り詰めた空気を感じた。理屈なく、ひとを圧倒する空気が、たしかにそこにはった。

 中央本館は、ブラジウス大聖堂にある宮殿礼拝堂を模した荘厳なたたずまい。前庭の泉には、花壇があり、聖女の手をひく青年の像が置かれている。

像の右手には、国内外の名画を収集した美術館があり、左手には、植民地の文化を展示する博物館が併設している。

 知識を尊ぶというその一点のためだけに、予算と時間とをかけて作り上げた堅牢な石造りの空間が、目前に広がっている。


 ヴェルナーは自然と背筋をのばし、顎をひいた。

 勇気をもって、足を踏み入れる。正面のステンドグラスから、夏の鋭い日差しが差し込み、彼が踏み込んだばかりの石畳に、大きな光の絵が映し出されていた。

 壁に掘られた案内に従い、螺旋階段をのぼって二階へ。途中には、ドクツ建国の歴史的場面が精緻に描かれたタペストリーが飾られている。

 階段を登りきり、ひとつの廊下を渡り、角を曲がる。低いけれど見事な透かし彫りのあしらわれた扉を潜る。


 書庫の窓は開かれていた。直接本に陽光があたらぬよう、棚の位置は配慮されていたが、あちこちに明かりとりの窓があるためか、広間は十分に明かるい。楽しげな日の光が、壁の角に折れ曲がり、あるいはテーブルの上に広がり、あるいは、ヴェルナーを歓迎するかのように、床に広がっている。


 彼は、書棚の間をゆっくりと歩いてゆく。

 哲学、民俗学、地理学、宗教学、言語学、天文学、数学。それらに肩を並べる工学。工学から枝わかれし、機構学、振動工学、熱力学、流体力学。それらの末端に独立する航空力学。

 それらのひとつひとつに、著者の発見、思想、思考、知識、知恵が詰まっている書が、堅牢な石造りの神殿を埋め尽くしている。


 にもかかわらず、既存の書の中に、ヴェルナーたちが考えるような液体燃料を使ったロケット推進機構の開発について、詳細に記した本は見当たらない。


 これは興味深い発見だった。つまり、自分たちがやろうとしていることは、先人の積み立てた知識のごく一部を細かく深掘りし、得られた成果を複数組み合わせて、やっとのことでたどり着けるものなのだ。

 ロケット開発は、本当に誰も手をつけていない、前人未到の領域だったのだ。


 ヴェルナーは震えた。

 改めて実感したのだ。自分たちが、成そうとしてることの果てしなさを。

 これから自分たちは、誰も体系だって本にまとめたことのない、荒野のような道を行かねばならないのだのだと。

 燃焼や、材料や、おそらくは流れに関する知識を要求され、構造も考えねばならないのだろう。果たして、出来が良いとは決して言えない自分のような学生になし得ることなのだろうか。


 ヴェルナーは首をふった。怖気づき逃げ腰になった自分を鼓舞する。

 ヤースナがついている。彼女がみている景色を、一緒にみるって決めたのだ。最近のヤースナは、ろくに休んでいない。目元に深い熊がにじんでいるし、こころなし、肌も荒れている。ちゃんとシャワーを浴びているのか不安にもなる。なにせ、暑いからといって湖にとびこむような女の子なんだから。


 論文の棚は、機密に触れる部分があるとかで、立ち入りが制限されているため、司書に依頼する。

 待つこと数分。司書の回答は、ヤスミンカ・べオラヴィッチの名を冠する論文は所蔵されていない、ということだった。


 彼女はモスコーで博士になったと言っていた。であれば、ドクツ語の論文でないのは、当然といえば当然であるが……。


 論文がないことに、思った以上にショックを受けている自分に驚きながら、ヴェルナーは司書に礼を告げ、帰りのバスの時刻表を確認する。

 少しだけ時間が残っていた。暇を持て余したヴェルナーは、もののついでということで、小説の棚をのぞき、懐かしい本をみつけた。


『月世界への航路』


 ヴェルナーがちょうど十歳のとき、社会現象にもなったSFで、三人のおとなが巨大な大砲で打ち上げられ、宇宙を旅する珍道中を描いた傑作である。

 幼いヴェルナーにはわからなかったが、老若男女問わず買い求め、当時は入手が困難なものだったらしい。

 そして、ヴェルナーが宇宙に心を躍らせるきっかけにもなった本だった。


 しかしそれはあくまでも空想上の物語であり、いまの彼が求める地に足のついたものではない。ヤスミンカの口上を借りれば、数学的に記述していない夢である。


 この小説を現実にするためには、夢物語を読み続けているだけでは駄目なのだ。

 大人になれ、と背中を押されているような気がして、ヴェルナーは少しだけ悲しくなった。


 『月世界への航路』を棚に戻そうとして、隣の本を落としてしまった。

埃をかぶった古書のようで、誰も手をつけていない。物理に触れた者にしか伝わらない微妙な表現で、あきらかに売れそうにないタイトルだった。


『作用反作用利用装置による宇宙探索』


 月世界への航路と同年代に乱立した、書籍のなかのひとつだろう。ヴェルナーはぱらぱらとめくる。

 掴みどころのない、あるいは突拍子もない内容だった。

 人工衛星、宇宙船の示唆に、軌道エレベーター等々、現実にはなし得ないようなものが書き記されている。けれど、不思議とひきつけられ、ページをめくる手が止まらなかった。

 憑かれようにページをめくり、挿絵をみたところで、手が止まった。見覚えがある形をしていた。

 ヤースナが持ってきたロケットの発想そのままの構造が、そこには記されていたのである。著者は、ツィオルコフスキーとあった。


 慌てて棚を見返した。けれど、大衆小説の棚に彼の著作はない。

 はやる鼓動を抑え、工学の棚に駆け戻った。けれど、彼の書籍はなかった。ダメ元で、司書に彼の著作を尋ねるも、ツィオルコフスキーの名前はないという。

 再び失意にくれながら立ち去るヴェルナー、呼び止める声があった。


「ツィオルコフスキーに興味があるんだって?」


 優美なたたずまいの女性だった。凛としたたたずまいが、図書館という雰囲気に良く馴染んでいる。

 黒色の髪を翻し、髪と対になる白衣を軍服の上から、袖を通さずマントのように羽織っていた。


「たしか、翻訳依頼をかけた文献のなかに、ツィオルコフスキーの名があっただろう? あと、ゴダードも持ってきてくれ」


 女性は、司書に問う。

 さらに待つこと数分。司書が差し出したものは、モスコーの科学者の論文を翻訳した、学術書である。


 タイトルは『液体推進ロケットの燃料・質量比に関する実験的考察』


 まさしく、ヴェルナーが探し求めたもの、そのものだった。

 タイトルの厳しさと、ずっしりと感じられる書の重み。思いつきで探してみたそれは、とても自分の手に終えるものではないと思われ、青年はたじろいだ。ぱらぱらとめくってみるだけで、意味のわからぬ数式がいくつも飛び出してくるのである。

 けれど、そこに記されている数式は、まさに、他者と正しく目標を共有するために記されてもののはずなのだ。ならば、理解できないことはないのだ。

 さらには、女性が追加したゴダード博士の本は、さらに理解不能な数式や文字列が並んでいる。


「ありがとうございます、あの」


 ヴェルナーが顔を上げる。女性は微笑をうかべて青年を覗き込んだ。


「君がこの道に興味があるのなら、いずれ会うこともあるだろう」


 その本を読み解くこと以上に、優先すべきことはあるまい?

 女性は微笑みだけでそう語り、たたずむヴェルナーを置いて去ってゆく。


「おおいに学べ、若人よ」


 丁寧に一礼するヴェルナーに、そんな言葉を残して、彼女は図書館の奥へと消えていった。

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