第15話「あなたは正しい努力ができるひとよ」
翌朝。
借りてきた論文を一心不乱に読み込んでいたヴェルナーの顔は真っ青だった。目下は落ちくぼみ、顔は土色にこけている。
青空の高いよく晴れた日で、ヴェルナーは、陽光に溶けてしまいそうになる自分を叱咤激励しながら、自転車を漕ぐ。けれど、気持ちは不思議と晴れやかだった。鳥のさえずりなんかで気分を良くして、ペダルを強く踏み込んだ。
できないと思っていたものをできた達成感は、朝焼けによく似ているなあ。彼は柄にもないことを考えて、ひとり笑った。
基地に着く。
あいも変わらず一番のりをしたヤスミンカが、黒板とチョークと戯れていた。彼女の目は活力に輝き、考えることそのものが楽しくて仕方がないというように、頬を赤く染めている。
自転車を物陰に停めつ、視界の端で彼女を観察する。
ヤスミンカも、しっかり悩んでいるようだった。
時々、考えにつまって顎の下に手をやる様子とか、無意識に髪をかいたのちに苛立たしげに文字を消しているいるのだから。
かの天才少女も、悩むことがあるらしい。自分だけが、立ち止まっているわけではないのだ。そんな気づきは、彼に少しだけ、勇気をくれた。
「ヤースナ、ちょっと時間いいかい?」
「どうしたの、あらたまって」
顔を上げてヴェルナーの方に振り向くと、驚いたように立ち上がる。ひどい顔よ、と言いながら駆けよってくるヤスミンカは、声も表情のどちらもヴェルナーを心配してくれている。
そんな彼女の素直さを嬉しく思いながら、ヴェルナーはいう。
「チョークと黒板、借りてもいい?」
「もちろんよ」
彼女の差し出したチョークを受け取って、黒板の前に立つ。彼女の思考の横に、同じように議論の為の式を書きつける。なんとか暗記してきた通りに記述して、記号のぬけ漏れがないことを三回は確認してから、ヤスミンカに向き直った。
「この間の終端速度の話は、この式が原点なのかな」
ヴェルナーが記述したのは、速度と比推力、重量比の関係についての式。ツィオルコフスキーの著作のなかで結論として示され、ゴダードの書の中で既知の事実として書かれていた、一行に満たない単純な式である。
それは、非常に単純な、作用と反作用の式である。
「この式は、空気のない空間をとぶためにロケットは、自分の重さを減らしながら進むという、君の質量比に拘った根拠がズバリ記述されている。そうだね」
ヤスミンカは首肯する。
彼が記述した式。
その内容は、荷物を放り出すと、放り出された分、逆向きに力が働く、ということを数式で記述していた。
なんのことはない。誰でも実験できる話だ。
台車にのって、そこから荷物を放り出せばいい。荷物がなくなった分だけ、台車は荷物とは逆向きに移動する。
その原理を、数学の力を借りて、客観的に示しただけのものである。
興味深いのは、この原則を使えば、空気のない空間でも移動できる、ということである。
しかも、式によると、得られる力は、放り出した荷物の量に依存する。
ロケットに置き換えると、荷物は燃料だ。
荷物にあたる燃料を放出することで、ロケットは前進する。
となれば、燃料が結果として排出できるガスの量が大きいほど、効率よく進むことができる。
この式は、もうひとつ、面白い事実を説明している。
荷物を捨てれば捨てるだけ、早く移動できるというのだ。
ロケットは、燃料を排出しながら進む。
ロケットの重量は、機体と燃料だ。このうち、燃料がなくなるのであれば、最終的に問題になるのは、機体そのものの重量だけになる。
拘るところは質量比だと断定するヤスミンカの根拠が、ズバリ記述されていた。
そして、偉大なる先人の方々は、作用反作用の式を根拠にもう一歩踏み込んでいた。
実際にロケットを作成するにあたり、排ガスにはなにを使えばよいか、という考察である。
質量を吐き出すという原理があるのであれば、打ち上げたい重量から逆算して、必要な燃料の値をおおよそ算出できる。
先人たちの示してくれた結論は、ヤスミンカが先日書いたしたNとMと対数の式、そのままである。
そこに至るまでの試験、および考察についての時間を鑑みれば、本当に単純な形をしてていることに驚きながらも、ヴェルナーは一晩読み込んでたどりついた結論を口にする。
「液体燃料が最適なんだね」
なんのことはない。ヤスミンカが液体燃料が固体燃料に比べて遥かに大きな排気速度を出せることを示したのは、先達の科学者がいたおかげなのだ。
「よく見つけたわね」
めずらしく、ヤスミンカは目を丸くして、感心した声をあげた。ヤスミンカの表情を変えさせることができた喜びと、自力で正解にたどり着いた嬉しさで、青年の心は弾んだ。
実のところ、間違っていやしないかと、不安だったのである。論文に触れたのはうまれて初めてで、しかも苦手意識のある数式を追っていくのは、青年にとって並々ならぬ時間と根気を要求した。
結局、一晩を費やして彼ができたことは、式の展開を数学的に追うのではなく、前後の文章から、筆者の結論らしきものを推定したのであった。
でも、自分のしたことは、正しかった。
自分だけの力でたどり着いた結論が、間違いではなかった。
僕も、ヤースナたちに追いつけないことはないのだ。
少しばかり得意になりながら、ヴェルナーはたずねた。
「すごく難しかった。どんなに読み込んでも、式の意味が正確に理解できないんだ」
「そう。でも、ツィオルコフスキー先生の書は、導出も解釈にも省略はないし、初歩的な数学の知識があれば十分に理解できる内容よ」
「君には簡単かもしれないけれど、僕にはちょっと、歯が立たないんだ。たぶん、君のいう初歩的な部分の知識が足りないんだ。
だから、もしよければ、この記号が示す意味を、詳しく解説してはもらえないかな」
ヴェルナーはヤスミンカに目を合わせた。ヤスミンカは、彼の目を見つめ返していたが、やがて首を左右に振った。
「だめよ」
あっさりとした口調の、しかしはっきりとした拒絶だった。
快諾されると思い込んでいたヴェルナーは、浮ついていた気持ちがいっきに萎んでいくのを止められなかった。
「どうして」
かろうじて絞り出した声は、喉の奥で引っかかって、かすれてしまっていた。チョークを握る手や身体を支えているはずの膝も、心なしか震えている。
「わたしがここで解説してしまったら、あなたの努力が無駄になってしまうもの」
「僕の努力?」
「正直に告白するとね、あなたは夢を追いかけるだけの人間だと思っていたわ。
ロケットは飛ばしたいけれど、自分の手の届く範囲だけに取り組むだけで、理論には触れてこないんだろうなって。
理論については、わたしが上手く誘導すればいいと思っていたし、いまのわたしたちの開発には、それで十分事足りた。
けれど、あなたはいまの状況の全部を良しとはしていなかった。そうでしょう?」
「僕は君のように深くは考えていないよ。ただ、興味があっただけで」
しどろもどろに青年はいう。ヤスミンカは優しくいった。
「興味だけで、ツィオルコフスキーの論文を探し当てるほど、世の中は単純にはできていないのよ」
ヤスミンカはからからと声をあげて笑った。それから、いつになく真剣な表情で、ヴェルナーを見つめた。
「ヴェルナー。あなたは正しい努力ができるひとよ」
ヤスミンカは手まねきし、しゃがむようにいう。青年は膝をつき、ヤスミンカと同じ目線になる。ヤスミンカは青年の頬に触れ、わずかばかり首をかしげてみせるという。
「だから、ヴェルナー。あなたがこの先、本気でロケットと向き合いたいと願うなら、独力でこの式を理解できるようになさい」
ヴェルナーは、自分の将来が、苦手としている数学の力を身につけるか否かにかかっていることを強く実感した。
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