第11話「取り急ぎ、家一軒が買えるくらい」

 黒板の前でチョークを握りしめたヤスミンカをみて、ヴェルナーは連想する。バーネット女史の小説に出てくる、お嬢さまにおつきのやや神経質な家庭教師の姿だなあ、と。


 共創は、チームの誰もが同じ目標を理解するところから始まる。


 ヤスミンカの講義には、机もノートもない。ただ椅子に腰掛け、傾聴するだけである。付け加えると、見上げれば、天井の形に切りとられた青空がみえるし、振り返れば、エンジンの残骸が転がっている。傾聴する人間も、たった二人で、その二人ともが、お互いに顔見知りである。


 破天荒な勉強の仕方であったが、ヤスミンカはそれで構わないという。彼女がいうには、知識ではなく、頭の使い方、つまり議論を深めることにこそ価値があるというのだ。


「時間は有限ですから、さっそく始めましょう。今日は、物事の分析の仕方について、ね」


 ヤスミンカがポケットから手のひらに収まる小さな箱をとりだした。二人には、ただのマッチ箱のようにみえた。ヤスミンカはその箱をリンドバーグに渡すと、擦るまねをしてみせる。


「ここは火気厳禁なんだが」


 ぼやきながらリンドバーグがマッチを擦る。火は点かない。なんどか擦り直してみたが、いっこうに火は点かない。


「燃えないマッチ。なぜ、火はつかないのか。これを、知恵を絞って確かめていきましょう」


「湿っていたとか?」とヴェルナー。


「いや。いちおう、乾いてはいる」


 リンドバーグは首を振った。


「擦る角度が悪かったとか?」


「じゃあ、お前がやってみな」


 差し出された箱から、新しい一本を取り出し、ヴェルナーも同じように試してみた。どうややっても火は点かない。


「きっと、お嬢がいたずらしたんだな」


「要領のいい人間の答えね。とても帰納的。けれど、ここでは、もう少し踏みこんんで考えてみたいの。そもそも、マッチの機能ってなにかしら?」


「火をつけることさ」とリンドバーグ。


「じゃあ、燃えるためになにが必要かしら?」


「燃焼に十分な酸素に、燃えるもの」ヴェルナーがいう。


「燃えるもの、ね。周りの環境もあるんじゃないか。理想状態は、乾いていることだろう。いまだけじゃなく、水を被ってしまったら、乾かしてもだめだな」


「このマッチはヤスミンカが濡らしたやつなんだね」


 ヴェルナーはマッチ棒を観察しながらいった。微妙に木に濃淡がある。乾いたあとかもしれない。


「かもな。そもそも頭薬が色のついた何かだって考え方もあるんじゃないか」


「マッチそのものが偽物ってことか。あり得そうだね」


「というわけで、お嬢。答えは、頭薬に課題ありだ。これでいいかい?」


 ヤスミンカは静かに首をふった。すこし考えてから、告げる。


「濡らしたのはその通りなのだけれど、もう少し考えて欲しいわ。なぜ、火がつくのか、とか」


「マッチの先端に塗られた赤い薬品が燃えるからだろう?」


「なにもしていない時は、火がつかないのに?」


 ヤスミンカが指摘する。

 リンドバーグは押し黙り、代わりにヴェルナーが声をあげた。


「摩擦熱で燃えるんだよね、マッチって。じゃあ、頭薬の燃焼温度ってどれくらいだったけ」


「主成分は赤リンだったかな。自然発火しないけれど、擦ったら火がつく絶妙な発火点なんだろうさ」


「じゃあ、何回か擦っても燃えない理由は、うまく摩擦で温度を上げれていないってことになるのかな」


「だろうな。だとすると、マッチの軸木の長さとか太さにも由があるのかもな。軸木の先端に効率よく熱をあたえられるサイズが経験的にわかっているとか、そんな感じで」


「じゃあ、湿って点かない理由も同じってことだね。摩擦熱が得られにくくなるからね」


「まて、ヴェルナー。それだけじゃ、水に濡れたマッチを乾かしたときに火がつかないことを説明できない」


「あー確かに。でもまって。赤リンって、水に溶けやすいいんだっけ?」


「わからん」


 それっきり、二人は黙り込んでしまった。けれど、ヤスミンカはとても嬉しそうにいったのである。


「悪くない議論だったわ。思いのほかうまく議論を深めてくれて、正直ほっとしたわ」


「お嬢。いまの結論は結局、知識がないとわからないってことじゃないか?」


「いいえ。あなたたちは、赤リンの何か燃焼に寄与しているかを分析することを試みた。結果として、そこに知識の欠落を発見することができたのよ。


 これからは調べるとしたら、マッチがつかない理由ではなく、赤リンの燃焼温度と水溶性について調べるでしょう?

 気がつかなければ、知識は調べようがない。だからまず、自分が何に対して無知であるか気づかなければならない」


「いままでの一連の流れが、物事の分析の仕方だってことかい?」


「そのとおり。仮説を立てて、ひとつずつ可能性を潰していく。マッチがちゃんと燃えるために必要な項目を、サボらずに、余さず列挙していく。


 最小単位まで切り分けて、誰でも扱える事象を、原理原則に従って潰し込んでいくという方法論。うまくいかないこと、望んだ結果が出なかったとき、どうすれば次に進めるか。


 闇雲にすすめるためではなく、頭を使って考え続けて、仮説をたて、実践し、結果を検証し、また新しい仮説を立てる。わたしが大学で学んだ考え方であり、ロケットを開発するために不可欠な考え方よ。

 この思考法のポイントは、あくまでもお作法だということね」


「つまりどういうことだ?」


「誰にだって習得可能だってこと」


 ヴェルナーはなんとなく、頷いた。

 とかく、彼女がいいたかったことの概念のようなものは、おぼろげながら理解できた。

 確かに、網羅的にあれをやろう、これもやろうと思いついた事を順番にやっていっても、上手くはいかない。燃焼試験で四苦八苦するエンジンを組み上げることがやっとだった。

 その間に、ヤスミンカはちゃんと、空に打ち上げられるロケットを組み上げてきた。まだまだひとが乗るにはほど遠くとも、能力の兆しは掴んでいたのだ。


 そのヤスミンカがいうのだから、原理原則に基づいて開発を進めていくという方法論は、現状を突破する鍵になるかもしれない。

 ヴェルナーの関心をよそに、ヤスミンカはおどけてみせる。


「ちなみに、わからない点を明確にして順番に潰していくのは、試験勉強もおなじことなのよ?」


 自分よりひとまわりもふたまわりも小さい女の子から。定期試験の手ほどきを受けていたらしい。ヴェルナーは呆れるやら気恥ずかしいやらで、複雑な気分だった。彼の隣では、リンドバーグが乾いた笑い声を上げた。

 すると、したり顔で、ヤスミンカはいう。


「そしてこの考え方は、ロケット開発でも、同じことなのよ。

 たとえば、ロケットの終端速度を上げるには、なにをすれば良いか考えてみましょうか」


「直感でいえば、燃料がよくなれば、性能は上がるし、機体が軽くなれば、それだけ速くなるんじゃないかな。直感に従えば、その二つを突き詰めればなんら問題はないことになると思うけれど」


「さっきあなたは、赤リンの燃焼温度という、誰が見ても納得するしかない具体的な数字にまで、議論を落とし込んだでしょう?」


「じゃあ、推力とか、重さとか?」


「そうね」


 ヤスミンカは黒板に文字を書きつけてた。NとMの文字。それは、物理学の世界ではよく使われる、力と質量を示す文字である。


「実はもう、考え尽くしたの。推力と重さで正解。かっこよくいうと、推進力と質量比。たったこの二つ。

 無重力かつ空気抵抗がないと仮定した場合、ロケットの最終到達速度に関わるのは、わずか二つのパラメータにすぎないのよ。

 まず、推進力。これは正比例するから、一秒でも長く燃焼すれば、単純にそれだけロケットの速度はあがることになる。これは、あなた方の直感とも、それほど乖離していないと思うのだけれど、わかるかしら?」


「できるだけ燃料を積んで、できるだけ長く燃やし続ける、と」


 リンドバーグが、自分の考えを確かめるようにゆっくりといった。


「そのとおり。ただ、これはあくまで正比例。単純に足した分だけ増えただけ。

 でも、質量比の支配力は衝撃的。ロケットは、自分で抱えていた燃料をつかって、重量を減らしながら飛んでいくのよ。軽ければ軽いほど、加速に必要なエネルギーは少なくなる。結論だけいえば、対数で効いてくる」


「対数ってなんだっけ? その辺りの授業は、僕には難しすぎて。先輩は?」


「確か、対数の支配下にある数字は、ゼロに近ければ近いほど、変化が劇的になるんだ」


 リンドバーグは立ち上がると、縦軸と横軸と、原点を起点に立ち上がる曲線を描いた。原点近くでは急にたちあがるのに対し、数値が一を超えたあたりで、横軸に平行に近くなってくる。ヴェルナーは、曲線をながめているうちに、魚の肋骨を思い浮かべた。骨の付け根から中心あたりまでの曲線の立ち上がりは、似ていないこともない。それ以降は、丸まっていないけれど。


「そう。対数で示された式であるなら、質量比がゼロのロケットが世界最速ね」


「お嬢、質量比の定義を確認しても?」


「ロケットの筐体だけの重量を、燃料を満載したときの総重量で割った値ね」


 リンドバーグはしばし言葉の意味を噛みしめてから、恐る恐る尋ねた。


「お嬢。つまり式の上では、なにも残らないのが最速ってことになるわけか」


 ヴェルナーはいよいよ議論についていけなくなりつつあった。己の、数学の力の無さを痛感する。

 二人の議論の行き着く先はどのあたりだろう、とぼんやり考えた。結論だけでも理解できたら良いのだけれど。


「極論は、あなたの言うとおり。なにも打ち上げなければ一番速くなる。まあ、対数巻数のゼロは数学的に特異点になるわけだから、何も打ち上げない場合の議論は脇に置いておくとして。

 できるだけゼロに近くなるよう、機体の軽量化に知恵を絞る必要があるわけね」


「具体的にどの程度まで近づければいいんだろう」


 ヴェルナーはぽつりといった。


「そうなるわよね」


 ヤスミンカは満面の笑みを浮かべた。いまにも踊りだしてしまいそうだ。その言葉が聞きたかった、と彼女は全身で語っている。


「わたしたちが目指すのは、質量比八十よ」


「ロケットの八十パーセントは、燃料にするってこと?」


「そのとおり。まず、使えるロケットを作るところから始めましょう。燃焼室にエンジンに、通信モジュールを載せて、そのほかをとにかく燃料にすれば、おおよそ八十くらい。だから、これを目標にする」


 ヤスミンカはあらかじめ試算していたらしく、すらすらと数字を並べていく。数字の感覚は全くつかめていないヴェルナーはとりあえずうなずいた。


「わたしたちの設計方針は、比推力を常に最高に近づけること。具体的な目標は質量比八十パーセント。なにかで迷ったときは、この数字を思い出すようにしましょう」


 ヤスミンカは、力強くいった。


「ここにはわたしと、ヴェルナーがいる。リンドバーグ先輩もいる。あなた方は二人は、新しいことをしようとした実績がある。とりあえず組み立てることの偉大さを知っている。わたしは、誰よりも理論を手にしている。課題点を見出す自信もある。そして三人には、具体的な目標がある。

 だから、この三人の力を十全に使えたならば、なんとなく、これでいい気がする、を積みかさねた以上のものが作れると、わたしは確信している」


 彼女は、彼ら自身が自分に向けた評価以上に、彼らを評価していた。


「まず作る。改良する。打ち上げる。ここまでするだけで、歴史に名を刻めるわ。

 でも私たちにとって、液体燃料エンジンの完成は通過点に過ぎないわ。

 この世で一番軽くて、とてつもなく早いロケットを組み上げて、わたしたちは宇宙へ行ったはじめてのひとになる」


 彼女のなかでは、ロケットを組み上げることは既に確定事項のようだった。

 けれど、ヤスミンカがいえば、不可能ではない。彼女と話していくうちに、そんな気がしてくる。

 少なくとも、ヴェルナーはそうだった。


「人類初の宇宙飛行士、か。大きくでたね」


「当然でしょう。自分の乗れないものを作ってなにが楽しいのよ?」


 ヤスミンカが不敵に笑う。


「アイアイ、マム」


 リンドバーグがちゃかすように崩れた敬礼してみせる。


「けれど、俺たちにはいろいろ足りないものがあるぜ。とにもかくにも、現状の復帰からだ。信用と成果と金と、全部失ってしまったからな。エンジンは仕方ないとして」


「ここなら自由につかって構わないわよ。わたしが買い取ったから」


「なんだって?」


「署に呼ばれたときにね。だから、この工房も、この丘一帯も私有地よ。よそ様に迷惑をかけ続けなければ本当にやりたい放題よ」


「お嬢は本当にお嬢だったのか」


 リンドバーグは頭をかきながら聞く。


「それじゃあ、運転資金のほうも?」


「取り急ぎ、家一軒が買えるくらいなら」


「さっすが」


 リンドバーグがぼやいた。

 ヤスミンカは頬を膨らませて、横を向いていう。


「わたしだって、責任くらい感じるわよ」


 そういって、いじける様子は子どもそのもの。


「しょうがない。一緒に開発してやってもいいんだが。エンジンを爆発させた前科があるからなあ。どうしたらいいだろう、ヴェルナー」


 彼の目配せにあわせて、ヴェルナーはいう。


「そうだね。ヤスミンカがどうしてもって言ってくれたら、仲間にいれてあげてもいいかな」

ヤスミンカは、やっと笑みを浮かべた。顔の前で、拝むように手を合わせていった。


「どうしてもっ」


 不敵な表情はいつものヤスミンカだったが、リンドバーグの軽口を受けて、一瞬ではあるが苦しそうな表情を浮かべたことをヴェルナーは見逃さなかった。

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