第9話「それをこれから考えるのよ」
ヤスミンカは、喉の奥がかれていくのを感じた。はじめは、見咎められたことによる緊張だと思った。けれど、女性の面白がるような微笑をみて、ヤスミンカは気圧されてしまっている自分を自覚した。
「きれいにまとまってるわ、怖いくらい」
ヤスミンカは、努めて笑みを浮かべてみせた。
「エンジンに寄せきった思い切りの良い発想ね」
「話せるのね」
その女性は、白衣をひるがえしながら、機体から降り立った。
白衣の下に軍服を着ているが、階級は隠れていて見えなかった。もっともヤスミンカには、階級章がみえたところでさっぱり判断できないけれど。
機体から降り立った女性への印象は、背が高い、ということ。
歳は二十歳そこそこだが、背筋がぴんとしていて、見ていて気持ちがいい。肩のあたりで切りそろえられた黒髪はつややかで、全く癖がない。余談だが、彼女の最大の特徴は、ふくよかな胸元だった。
自己主張の激しいそれに目にしたヤスミンカは、無意識に拳を握りしめた。
「どう? なにか言いたいことはある?」
白衣の女性が問う。君はどこまで理解しているのかな、という心が垣間見えた。
ヤスミンカは、心から笑った。
相手は試しているのだ、このヤースナを。つまり、自由に戯れてもいい、というお墨付きをもらったようなものだ。遠慮はあるまい。
「エンジンが強力であれば、翼面積は小さくてもかまわない。すると揚力確保のために抵抗を増やしてまで二段翼にする必要だってないし、根本が金属だから強度増加のためのワイヤーもいらない。これで抵抗がどんと減る。
設計構想からして、持ちうる技術の最先端をよりあつめた意欲作ってところかしら。
わたしは、航空機設計にはうといから、わかるのはこのくらい。でも、渾身の一作で、一部の隙もないことは十分に理解できるつもり。芸術は細部に宿るもの」
「外見が、あまり美しくないことは気にしないでくれると嬉しいわ。鋲ごと叩き潰すほうが安上がりなのだそうよ。残念ながら、わたしの努力が及ぶところではないの」
ヤスミンカは沈頭鋲について語った。細部、という曖昧な言葉を用いて。ヤスミンカにとって驚いたことは、目の前で余裕の笑をたたえた女性は、ヤスミンカの言わんとしていることを正確なに捉えていたことだ。
ヤスミンカは、心がざわつくのを自覚した。
自分の意思が、考えが、瞬時に正しく理解され、望んでいたとおりの回答を得る経験。いつも周りから距離を感じていたヤスミンカにとって、めったにない経験だった。
「うらやましいわ。好きなだけお金が使える環境があるだなんて」
「そうね。うちの子は世界一の贅沢ものよ、きっと」
女性が微笑した。
「これなら、空を自由に飛び回れるのかしら?」
ヤスミンカは尋ねた。
「当然。わたしがマネジメントしたプロジェクトなのだから」
女性は清々しい口調でいった。それから、若干の陰りのある声で付け加えた。
「設計仕様の範疇でなら、だけど」
「プロペラじゃ音の壁は突破できなものね。原理的に」
「そのとおり。既存技術で、出来る限りの機体をと厳命されてしまったからね」
含むところのある口調でいう。
「いま出来ることを限界まで引き出したのが、この機体だってことは、すごく伝わってくるわよ」
「ありがとう」
白衣の女性が笑みを浮かべた。長年出会うことのなかった旧友にむけるような、優しい笑だった。
ヤスミンカも、自然と笑みが浮かぶのを自覚した。長い年月、彼女の心を硬く凍りつかせていた孤独という概念が、溶けてなくなってしまうような、馴染みのない感覚がした。いままで、不鮮明で、どこかぼやけて、うつろだった世界が、色づいてみえた。いままで、科学以外の全てがモノクロだった世界に、突如として、色の光が流れ込んでくるかのようだった。
この感覚ばかりは、理屈っぽいヤスミンカをもってしても、普段使っている言葉で誰かに説明できる類のものではない。
けれど、目の前の相手になら、通じているという確信があった。
目の前の女性は、結果から逆算して物事を考える人間だ。きっと、恐ろしいほど具体的に、物事のあるべき姿が見えてしまうのだ。自分と同じように。
ならば、これからの技術が進む先についても共感できるだろう。十年後、二十年後の技術の在り方や、発展について。
ああ、なんて答えてくれるだろうか。
ヤスミンカは、甘えた声でいった。
「ロケットエンジンの時代がくるのね」
そして、笑顔を浮かべ、ヤスミンカは返事を待っていた。女性はまた微笑を浮かべてたしなめた。
「違う。ガスタービンエンジンの時代よ」
お互いに、静かに見つめあった。予定調和に見えた世界の色が、奔走を始めた。
そして二人して天を仰ぎ、目元を強くおさえこみ、うめき声をあげた。
「燃料を抱えて飛ぶだなんて、正気かしら?すぐにでも、空気中の飛翔体について、燃料効率の概算したほうがよろしいのではなくって?」
先制したのは、白衣の女性だった。ヤスミンカも黙ってはいなかった。
「あなたこそ何をいっているの?
連続燃焼で熱膨張した高温噴流をプロペラに吹きつけ続けるなんて、自分で推進力を生み出す構造そのものを壊しにいってるようなものじゃない」
「タービンの耐熱合金の開発も、熱膨張によるタービンブレードの疲労破壊も材料の問題よ。工法が確立すれば実用化も量産まで障害なく漕ぎ付けられるの。でも、ロケットエンジンは燃費が悪魔的にすぎるわ。総重量の八割九割が燃料だなんて、どんなに控えめに見積もっても狂っているわよ。あなたの理想を批判することは心苦しいのだけれど」
「燃料を抱えて飛ばないと、好き勝手に飛び回れないじゃない」
「大量に抱えて、それを刹那的に燃やし尽くすことに特化することでしか速度をえられないだなんてナンセンスだと指摘しているの」
「一点に特化して、死力を尽くしてこそ、大気圏を突破できるのよ。空気の壁がなくなれば、そのあとは、思うがままじゃない。
ロケットには、地球を一周するだけの速度を生み出せる可能性があるのよ?
第一宇宙速度をご存じ?
秒速七・九キロよ?
大気圏内だと、決死の覚悟で音速を超えたとしても、たった秒速三百四十メートル。
単位からして違うじゃない。空気密度濃い場所を飛び回るという発想がまず持って誤りなのだと、どうして気づかないのかしら」
汚い言葉の応酬だった。広い格納庫のなかに、女二人の声はよく響いた。
騒ぎを聞きつけ、近くのひとが二人を取り囲む。
彼らは、飛行機にあつくなりすぎる悪癖を知っている女性の同僚であり、二人の罵り合いを面白がる整備士である。
歳がひとまわりは離れていそうな二人の科学者が、公衆の面前で口汚く罵りあっているのだ。白衣の女性は大人げなく、ススだらけで真っ黒の少女は年上への敬意を一切払っていない。
めったに見られない珍事である。
これで盛り上がらないほうがおかしい。
いいぞいいぞ、もっとやれ。
普段から無理難題を吹っかけてくる技術主任なんて言いくるめてしまえ。
そんな野次が飛ぶ。
ますます騒ぎが大きくなり、外から軍関係者が走ってきた。
だが、二人は周りの様子に気づいたようすもなく、最後まで罵倒しあっていた。
「これだから現場をしらない科学者はだめなのよ。夢を語るばかりで、地に足がついてないとなぜ気づかないのかしら」
女性が皮肉を言えば、ヤスミンカが矢継ぎばや悪言を飛ばす。
「あなたみたいな科学者のなり損ないがいるから、民間にくだった人間は夢を諦めたって後ろ指をさされるのよ。自覚してしかるべきね」
「トトノ重工の経営理念に目を通してきなさい。机上の空論ばかりをかたる学者とは違って、私たちは世の中に貢献すべく心身を捧げているのよ」
「貢献じゃ世の中は変わらない。風穴をこじ開け、新しい時代を築いてこその、学問であり、『科学者』よ。みてなさい、このわたし、ヤスミンカ・ベオラヴィッチこそが風穴をこさえてやるんだから」
ヤスミンカが、叩きつけるようにいった。女性は、極上の微笑を浮かべた。
「ヨーコよ。ヨーコ・カミナギ。あなたを叩きのめす女の名前よ、ヤスミンカちゃん」
「ヤースナでいいわ。特別に許してあげる」
「大人を舐めない方がいい。でないと痛い目をみるわよ、ヤースナちゃん」
二人の大変に心のあたたまる自己紹介だった。両者ともに、満面の笑みを浮かべている。にもかかわらず、二人の間には、誰の目にも明らかな深い溝が存在した。
「すごかったね。これからは航空機の時代かもしれない」
「何がすごいって、人類に空が開放されてから、せいぜい二十年しか経ってないところだぜ。ありゃ、人類を変える発明だ。人生を掛けるに足る乗り物だ」
ヴェルナーとリンドバーグの抱いた感想は、自分の国が航空機を手に入れたことに対する感銘であり、鉄の塊が見事に空を飛んだことに対する感動だった。
そんな二人に、駆け寄ってくる人影がいた。ヤスミンカだ。彼女は勢いに任せてヴェルナーに体当たりする。
「どこに行っていたんだ、ヤースナ」
ぎりぎりのところで押し倒されずにすんだヴェルナーは、抗議の声を上げた。けれどヤスミンカの怒気をはらんだ声にかき消された。
「帰るわよ、いますぐに」
「お嬢、海は?」
「そんなものより、いまはロケットよ」
ヤスミンカはあっさりという。
「わたしの方が、凄いものをつくれるんだから。ヨーコより早く速く飛べるようにしてやるんだから。あたしのロケットは空気のないところでだってお手のものなんだから」
一息にいうと、ヤスミンカは埃にまみれたスカートの裾をにぎりしめた。ふかく息を吸い、ゆっくりとはいた。それから。胸のまえで、両の手を握りしめた。
拳が、ぽきぽきと音をたてた。
「やるわよ」
「なにを」
ヴェルナーが問う。
「わたしたちは、ロケットを作る。あんな羽だけの乗り物に負けてなるものですか」
「羽だけ?」
リンドバーグはくらくらした。
つい先ほど、人生を掛けるに足ると断言した航空機が、羽だけだって?
「これから?」
なんとかその一言だけ絞り出した。
ヤスミンカは力強く頷いていった。
「十年でやる。いや、五年よ。わたしはすでに、必要な理論を握っている。だからひたすら、実践する」
「だとして、僕たちはいま、なんにももってないんだよ?お金はないし、エンジンは吹っ飛んだし、工房だって使わせてもらえるかどうか」
ヤスミンカに汚れをべっとりつけられたことも相まって、ヴェルナーは情けない声を上げる。
「ヴェルナー」
真剣な口調で、ヤスミンカは青年を呼んだ。鮮やかな空色の双眸が、青年をまっすぐに射止めている。青年は思わず、生唾を飲んだ。
ヤスミンカは、大いなる秘密を告白するかのように、重々しい口調でいった。
「それをこれから考えるのよ」
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