第6話「特別に、ヤースナって呼ぶのを許してあげる」
「本日、アウトバーンの起工式が実施されました。アウトバーンは、総統の推進する雇用対策と実益を兼ねたもので、休日に誰もが自動車に乗ってピクニックに行ける夢の時代に、また一歩近いたと言えましょう。さて、明日のお天気ですがーー」
乗合馬車のなかに、ラジオが響く。荷台の壁に吊るされていたラジオは、馬車の振動を拾って、左右に揺れた。
ニュースの内容に一切の関心をしめさないヤスミンカは、不必要な雑音だと断じて備品のラジオを止めてしまった。けれど、馬車に乗ってるのは彼女と先輩と自分だけだったので、ヴェルナーはなにも言わなかった。
馬車は煙突の並んだ郊外を抜け、拓けた原っぱへと進み出た。石畳がむき出しの地面にかわり、幾分ゆれがやわらぐ。文明の進歩も良いことばかりではなさそうだ、などと斜に構えたことをヴェルナーは考えた。
「ねえ」
ヤスミンカが甘えた声でヴェルナーをつつく。
「わたし、どこに連れて行ってもらえるのかしら。あなたの先輩はどうにも白状しないのよ」
頬を膨らませるヤスミンカは、年相応の女の子である。基地の屋根を吹き飛ばした狂気は鳴りを潜め、愛らしい女の子そのままにみえた。
三日前、当事者のヴェルナーとヤスミンカは、いかめしい顔つきの警察たちに署に連れていかれ、別々の部屋で詰問をうけた。
ヤスミンカが一目で分析しきったように、知識のある専門家が見れば一目瞭然の状況である。隠すつもりはなかったので、素直に答えるヴェルナーも、幾度となく同じ質問を繰り返されると、妙な気分になってくる。
事件の規模を考えれば、わずらわしいと考えてはいけないことは重々承知している。だが、一生に一度で十分な経験だな、というのが偽らざる感想である。
解放されたころには、すっかり陽が落ちていた。
待合室に顔を出すと、ヤスミンカがまっさきに駆け寄ってくる。彼女が言うには、ずいぶん早い段階で解放されていたらしい。
十にも満たない女の子が燃焼試験の真犯人だとして取り調べたがる輩がいれば、署内でまず問題になるだろう。
口裏を合わせるよういいふくめておいたのも、功を奏したようである。さすがに、大人たちに詰められる経験をさせるのは、もう少し大きくなってからで十分に違いない。
だが、ヴェルナーが解放されるまでのあいだ、ヤスミンカに気を揉ませていたのは事実だった。彼女は彼の手を抱えるように握りしめたまま、なかなか離れようとしなかった。
取り調べでほんの少し荒んだ心を彼女の温もりに慰めてもらいながら、ヴェルナーは待合室にいるもう一人の人物に深々と頭を下げた。
山小屋のオーナー、リガルドさんである。
いくつかの事業を手掛ける彼は、ヴェルナーが尊敬する大人のひとりである。事業家である彼は、街のお偉いさん方にも顔がきく。署内でこってり絞られるだけでおとがめなしになったのは、リガルドさんが裏で手を回してくれたからに他ならない。
まだまだ大人に守られているのだと、ヴェルナーはぼんやりと思った。
早く大人になりたい、と思わないでもない。一人前になって、独り立ちしてお金を稼げるようになったら、何者にも縛られないで済む。きっと、開発費に苦労することはなくなるだろう。試作を引き受けてくれる技師も、増えてくるかもしれない。
でも、大人になるということは、夢を諦めるということなのだ。
鬱屈した毎日を送り、勤め先と自宅を往復するだけの両親が、ロケットを開発できるかといえば、答えはノーである。大人になって社会の荒波に揉まれると、夢を見失ってしまうものらしかった。夢を失ったのならば、なんで生きているのかすらわからなくなってしまうように思える。
子どものまま、いろいろなしがらみに縛られてながら夢を追いかけるのと、大人になり自由に生きながら、目的もなく生きるのとどちらが幸せなのだろう。
嫌なことを考えて塞ぎ込みそうになっているヴェルナーに、リガルドさんはいう。
君らのロケットについては、また考えよう。
いまは、羽をのばしてこい、と。
そのような経緯があって、ヴェルナーは、乗合馬車に揺られながら、女の子に頬を突かれているのである。
向き合うように座るリンドバーグは、悪戯っぽい笑みをうかべていた。うらやましければ変わってやるぞ、とヴェルナーは心のなかで呪う。まだまだ、照れ臭さとプライドが邪魔をする年頃である。
「行けばわかるよ」
ヴェルナーは愛らしい指を摘みながらいった。
「ヴェルナーまでそんなことを言うんだ」
めいいっぱい膨れ上がるヤスミンカ。膨れる頬を突き返しながら、大人になりきれない青年は笑みを浮かべた。
「君から期待と不安と感動を奪うなんてまね、僕にはとてもとても」
「ヤースナ」
「うん?」
「君なんて他人行儀な呼び方はやめてよね。特別に、ヤースナって呼ぶのを許してあげる」
馬車は街をはずれ、草原を蛇のように伸びた、なだらかな坂をくだっていった。車窓からは茂った黒い森が、どんどん離れていく。ヤスミンカは西の空をみやり、青い空を横切る薄い雲の群れを見つめた。あるいは、東の空をみやり、日が昇るのを見つけて、今日も暑くなるわ、とこぼした。
一時間ばかりの馬車に揺られていると、地平線に変化がみられはじめた。空に侵されるように、地平線が青く染まっていった。それがなにを意味しているか気づいたヤスミンカは、いてもたってもいられず、馬車から身を乗り出した。
「海、海よ、ヴェルナー。すごい。わたし、はじめてみたわ。本当にひろいのねえ。湖が大きくなったってだけだって想像していたけれど、現実はわたしの想像を簡単に超越してくるものなのね。
今日は泳ぎに来たの?
わたし、まだ泳げないんだけれど、きっと今日のうちに泳げるようになって見せるわ」
興奮した口調でまくし立てるヤスミンカをみて、リンドバーグが笑う。
「いいね、お嬢さん。これだけでも、連れてきた甲斐があるってもんだ。用事が終わったら、泳いで帰るのも悪くない。けれど、俺らの目的地は、もうちょっと手前なんだよな。ほら、あの黒い建物が、それだ」
リンドバーグは、海のそばに見える黒い染みを指さした。
馬車が近づくにつれ、それが平屋だとわかった。更に馬車が近づくにつれ、そこは工房のような倉庫で、大きなガレージを持っていることがわかった。最終的には、その建物は工房の何倍も巨大な施設であることがわかった。まわりに何もないことをいいことに、贅沢に土地をつかい、めいいっぱい横に広がっている。直立した壁とややアーチ状の屋根をもった施設は、その巨体に似合う鉄の扉をもっている。馬車は、その扉の前に着けるようにとまった。
扉の両側には、垂直にロープがしかれ、その前にはいかつい銃を担いだ軍人がたって、立ち入りを制限している。立ち入りが許可された線ぎりぎりにまでカメラを構えた記者がはりこんでいる。なかには、撮影用の高価な射影機を設置している者もいる。
リンドバーグが降り、ヴェルナーがそれに続いた。ヴェルナーはヤスミンカの両脇に手を差し込み、担ぎおろす。ヤスミンカが降り立ったのを見計らったかのように、巨大な鉄の扉が、動きはじめた。
扉は横開きで、中央が縦一文字にわれ、左右に開いていく。
暗い施設に差し込む陽光。あかりを受けて黒光する、巨大な鉄の塊。
現れたのは、一対の金属で覆われた翼をもつ、巨大な航空機だった。
世界で最先端の航空機は、胴体だけでなく、翼にまでが鈍色に輝いている。翼にはそれぞれ対になるようにV型十二気筒エンジン二基とL型六気筒エンジン二基の合計四基が搭載されている。ドクツ航空省が威信をかけて購入したトトノ式厚翼型の機体である。
ヤスミンカは、普段は不敵にゆがむ口をあんぐりとあけ、声もだせずにたたずんでいた。ヴェルナーをみて、リンドバーグをみて、もう一度、機体を見た。そして今度こそ歓声をあげ、脱兎の如く駆け出した。青年二人は顔を見あわせ、互いに拳を軽く触れ合わせた。
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