第3話「注目しない手はないでしょう?」

 ヴェルナーの朝ははやい。


 体力に自信のない彼は、もちろん夏の陽射しが照りつけるなか、基地までの坂道を登れる自信がない。小屋を紹介されて一度だけ陽射しの中で自転車を漕ぎ、ひどい目にあっていた。だから彼は、二度と同じ失敗はするまいと心に誓っている。


 自然と、薄暗いうちに目覚め、自転車にまたがり、陽が登りきるまえに基地にくるのが習慣になっていた。そして、シャッターをあけ、今日一日にやりたいことを考えるのである。最近では、力作のエンジンに種々油をさしたり清掃をするのが、ささやかな朝の楽しみであった。


 しかし、今日は勝手が違った。昨夜は妙に興奮してしまい、寝つきがわるく、一時間も寝坊をしてしまった。タイヤに穴を開けてしまっていたらしく、交換する手間がかかってしまい、さらに出発が遅れてしまった。おかげで、誓いは破られるし、坂道を上っている途中で汗だくになってしまっていた。


 基地についても、おかしな事が続く。シャッターが開いているのだ。


 先輩は朝が弱いはずなのに、と不思議に思いながら自転車をとめ、中をのぞき込んだヴェルナーは、いままでの不幸が単に前座でしかなかった事を悟った。


 ヴェルナーらが一年という青春の貴重な時間をかけて作りあげた自慢のエンジンが、みるも哀れな姿に変わり果てていたのだ。


 用途不明な機器が規格や形状を度外視して組み込まれていたり、くわえ込まされていたり、断熱材でぐるぐるまきにされている。新調したガソリン供給用ポンプはあろうことか取り外され、無用の長物とばかりに転がされていた。しかもそのかわりに、妙な黒色のパイプがはめ込まれており、その先端には子どもの背丈ほどもありそうな金属タンクに繋がれている。


 タンクには、危険物であることを知らせる模様が、でかでかと貼られており、内容物の名称が印字されている。


 内容物は、Liquid H2。


 イギリスの科学者ジェイムズ・デュワーが精製に成功した、重量あたりのエネルギー密度が最も高く、ロケット燃料として最高効率を誇るといわれている最高級に金のかかる燃料である。


 原子周期表で、一番はじめにくる、地球上でもっとも軽く、移り気がはげしく、扱いが難しい物質。


 わかりやすくいうところの、液体水素である。


 理論的な最高値を叩き出すが故に、空を目指す人間の誰もが利用を夢みて、早々に匙を投げる劇物であった。ヴェルナーらも早々に扱いを断念している。


 なにが危険か。

 そんなの簡単だ。よく反応し、よく燃え、よく爆発するのだ。


 だというのに、基地に立てかけている黒板には、悪筆でかなり読みづらいが、水素のHと酸素のOと、その他ヴェルナーには理解できない記号が書きなぐってあったりもする。


「運がいいわね。ちょうど燃焼試験を始めるところだったのよ」


 タンクの裏から、ヤスミンカが顔をのぞかせた。うっすらとかいた汗を拭いながら、ちょこちょことやってくる。肌着一枚のあられもない姿で、厚手の手袋をはめていた。

 とめどなく湧き上がってくる嫌な予感を必死になだめながら、ヴェルナーは尋ねた。


「なにをする気なんだい?」


「水素の燃焼試験よ」


 ヴェルナーはわかっていてもぎょっとする。

 だというのに、ヤスミンカはちっともなんでもないことのように話を続ける。


「水素が危険なのは、爆発するからでしょ。でも、爆発するのは水素と酸素が化学反応したときだけ。なぜ爆発するか考えれば、おのずと危険でないことは理解できるはずよ」


 ヤスミンカはビーカーを持ち出し、バルブの根本を覆うように固定するとバルブを一瞬だけ開いた。そして、つけっぱなしにしていたランプを近づける。

 ぽんという小さな破裂音がする。幼年学校でやるような、科学の実験をしてみせる。


「いや、理屈の上ではそうだけれども」


「水素は量が増えると手に負えなくなる。それは認めるわ。だから、まとまった量にならないように気を配ってる」


 手元に火種を置いてるのも、漏れ出した水素をちょっとずつ燃やすためだとヤスミンカはいう。


「でも、タンクまで準備してるってことは、まとまった水素があるわけで」


「だから、水素をエンジンの中に閉じ込める代わりに、酸素の量を調整するの。単に逆のことをするだけだから、簡単なことよ。それに、水素は金属を侵すから、実験系に水素を放置したままなのはよろしくないし、準備だって水素の充填中に空気が凍っちゃうから大変だったのよ」


 ヤスミンカは愛らしい表情で、ねえ、ジェニファー、とエンジンに呼びかけている。なんだか、ひとり遊びに慣れた女の子をみている気分だった。

 愛らしいけれど、とても大切なことを聞き逃しているのではなかろうか。


 充填?


 ガソリン用にしかシーリングしていない内燃機関に?


 ヴェルナーの培ってきた経験が、あるいは本能が、如実に危機を警告した。


「学校の実験じゃないんだよ、ヤスミンカちゃん。試験管からぽんと音がなる程度で済む話じゃないんだって」


「ロケット燃料として最大効率を誇る液体水素を用いた初めての実験よ。たった二グラムで、六十八カロリー、つまり百シーシ以上の水を蒸気に変えるだけのエネルギーよ。注目しない手はないでしょう?」


 ヴェルナーの忠告もむなしく、彼女は始動スイッチを押した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る