第八章:命の選択 03
朝に活動することは、存外1日の時間を長引かせる。
ヴィヴィアンの心の充実に対し、芸術品のような窓枠から部屋に差し込む陽は高い。
もっとも、今の気持ちは充実というよりは、ストレスと言ったほうが、ヴィヴィアンの心の状態を表すには適切かもしれない。
カクテル・ハットと手袋を美術作品のようなテーブルに置くと、ヴィヴィアンは軽くため息を吐いた。
――名は体を表すのではなく、縛るのかもしれませんよ。
プレヴェールに庭園を案内される間中、ヴィヴィアンの頭の中ではその言葉がずっとちらついていた。
事実ヴィヴィアンは『リリスの花道』に縛られている。
サミュエルとリリスの出会いはティンダルの王城の庭園で成り、真実はどうあれ外から見れば、ヴィヴィアンはリリスをいじめていた公爵令嬢になっていた。
リリスは誘拐こそされなかったが、結果としてヴィヴィアンは醜聞によって貴族社会からはじき出された。公爵令嬢としては死刑宣言に近い。
ある意味、断罪されたと言っても過言ではないだろう。
あとはクロムウェル公爵家が2年後に没落するか否か。それだけだ。
本来の知っている形と違えど、物語は確実にヴィヴィアンを縛っていた。
――もし、もし同じことがエムにも起こっていたら。
ヴィヴィアンは目を閉じた。
万が一、仮に、エムがそうだとしたら。プレヴェールの言う様に、地上の王国と湖底の王国、その2つの争いと、その後自分に起こる身の破滅を避ける為に、エムがこの第三国に来たとしたら。ヴィヴィアンに選択肢を与えることで、自分から離れることで、エム自身も自らを縛る物語から逃げ出したいのだとすれば。
「まさか……いえ、そんな」
ヴィヴィアンは思いついた一つの考えに、胸が苦しくなる思いがした。
脳裏によぎる考えを消したくて、ヴィヴィアンは思わず頭を左右に振る。
否定したいが、否定できる程の根拠を今のヴィヴィアンは持っていないから、湧き上がる疑念に体を揺さぶることでしか抵抗できないのが悔しい。
ヴィヴィアンが見えない敵と戦っていると、突如、部屋のドアがノックされた。
静かだった分、いやにその音が部屋に響いた。
「お嬢様? 開けてもよろしいでしょうか」
その声はエムだった。彼がヴィーと呼ばないという事は、誰かが共にいるということだろうか。
とにかく、今は気持ちを切り替えなくてはならない。ヴィヴィアンは背筋を伸ばし、大きく息を吸い込む。
ヴィヴィアンはもう一度部屋に響いたノックに、努めて冷静な声を返した。
「――ええ。入って頂戴」
「失礼いたします」
重厚な音が響いて、ヴィヴィアンの部屋のドアが開いた。この宮殿はどこも観音開きで、途端、エムの心配した顔が一番にヴィヴィアンの視界に飛び込んできて思わずドキリとしてしまう。
もちろんときめきではなく、自分の考えを見透かされないかという不安からだ。
しかし、そんな不安も次の瞬間吹き飛んだ。
エムの後ろにいた来客は、予想外過ぎる人物だったからである。思考停止とも言ってよい程だ。そのくらいの衝撃があった。
「貴方、なんで――」
その人物は、本来の正装こそしていなかったが、この宮殿に入るに当たり最もふさわしい格好をしていた。――ティンダルの貴婦人たちなら、華の貴公子とでも言って、皆扇で口を隠すに違いない。
「お久しぶりです。ヴィヴィアン嬢。私のことはどうか――ウセディグとでもお呼びください」
本来、此処に居てはいけない身の上ですので。
ライアン・マクラウドはそう言うと、その美しい顔に笑みを浮かべて、騎士の所作で、ヴィヴィアンに一礼した。
* *
居候の身の上でとは思ったが、お茶の一つも出さない事こそマナー違反だろう。ヴィヴィアンは呼び鈴でメイドを呼び出し、お茶と菓子の用意をお願いした。
「どういうことです――突然の来訪はマナー違反でなくて?」
「一応先触れは彼に出していたのですが……お聞きにはなっていなかったようですね」
マクラウドが座ったのち、早速ヴィヴィアンは彼に文句を言った。マクラウドは少しばつが悪そうな顔で、申し訳ない、と口にした。
思わずヴィヴィアンが傍に立つエムを見れば、彼は素知らぬ顔をしていた。
「お嬢様には昨日、重要な事がございましたので伏せておりました」
「せめて、今日の朝には伝えられたでしょう」
「その時には既にお部屋におられませんでしたので」
「……まあもう過ぎたことはいいわ。 それで、マ……ウセディグ様はどのようなご用件でこちらへ?」
プレヴェール伯爵が私と庭園に行っていいか、許可を聞きに行ったろう。その時に指輪の件と一緒に伝えればよかったじゃないか。と、ヴィヴィアンは思ったが、今はそれを詰問する場ではないだろう。すっかり、どこかの貴公子か上級商人のような装いの目の前の人物に、ヴィヴィアンは努めて冷静に声をかけた。
マクラウドは、紅茶を一口飲むと、そうですね、と口を開いた。
「単刀直入に申しますと、貴女に結婚を申し込みに参りました」
「――は?」
「ですから、私の妻になって頂きたいと提案しにきたのです」
本当に意味が解らない。ヴィヴィアンは思わず頭を抱えた。客人を前に、と思ったが、そもそも本来の彼はティンダル王国で謹慎中の身の上で、目の前の人物はウセディグという謎の人物だから、マナー違反の1つくらい許されるだろう。
とにかく、もっと話を聞かないといけない事だけはわかった。
「――エム」
「はい」
「まず、貴方に質問があります。なぜ彼と知り合いなのかしら」
「お嬢様の衣装を取りにティンダル王国に戻った折、彼に私から連絡を取りました」
「なぜそんなことしたの」
「お嬢様の選択肢を増やしたかったからです」
「……ウセディグ様」
「なんでしょうか」
「貴方も私と本気で結婚できるとお思いなのですか」
「それは、勿論。――ただし、貴女が、私の側室という立場と、ご生家の没落を是とするなら、ですが」
「――私を。この私を、側室扱いなさるつもり?」
どのような状況になってもヴィヴィアンの根っこは公爵令嬢である。そんな自分へ、2番目になれというのは、ヴィヴィアンのプライドが許さなかった。
「名目上だけです。貴女の矜持を傷つける気はございません――話を続けても?」
マクラウドもヴィヴィアンのその反応は想定内だったのだろう、笑みを浮かべたままヴィヴィアンのきつい視線を受け止めていた。
「……ええ」
はらわたは煮えくり返っているが、話はまだちゃんと聞いていない。ヴィヴィアンは不機嫌をそのままに、マクラウドの提案を承諾した。
「有難うございます。 ――まずご存じの通り、私は貴女を愛しております。仮にあなたがこの話をお受けになられたら、一生涯貴女しか妻を持たない事を神に誓いましょう。そして、あなたの身柄は私が保証いたします――身分こそ平民になりますが、私の愛する妻として、一生涯を共に過ごしていただけませんか」
「信用成りません。――第一、貴方は王家側の人間でしょう、私の身をどうやって保証するつもりなの」
愛の言葉は今は置いておいてよいだろう。その言葉に釣られない事は、あの馬車でヴィヴィアンは証明済みだ。
マクラウドもそんなヴィヴィアンの態度に全く気にした風は無く口を開いた。
「王家がなぜ今、公爵家を没せんとしていると思いますか? 私ですよ。私がいるから勝機があると思っているんです。多少のやっかみでは、私の身は落とせません」
「――大層な自信ね」
「事実ですよ――あなたの言葉を胸に、死にもの狂いで実力と王家の信を勝ち取った私のね」
マクラウドは言外に、今の醜聞によって国王とサミュエルからの信頼は落ちておらず、また従う騎士たちの意志も同じだと伝えてきた。
彼にとってあの醜聞は、声こそ大きかったものの、ただの戯言と同様だったという事だ。
つまり傷を負ったのはヴィヴィアンのみ。なんとも世知辛い話だ。
また、騎士にとって美しい姫との恋物語の種は、ただの武勇伝でもあるのも大きだろう。
マクラウドは、ヴィヴィアンの生家の公爵家を打ち負かしたことを前提にして、さらに話を続ける。
「私が勝利を収めた暁には私に褒美を上げなければならない。褒賞を出してこそ、王ないし為政者でありますから。とはいえ、褒賞は利になるものが少ない方が良い。王家にとって、私の陞爵における領土の貸与と、没落した貴族の娘1人。どちらを好むかは、火を見るより明らかです。 まあ、私には後者が何よりの褒美なのですがね」
「王家としては、没落貴族の娘を――私を処刑したほうが良いのではなくて? 反乱の旗頭になる種は消してしかるべきよ」
「悪かったのは公爵本人のみ。修道院にいる彼女の命までとることはないだろう、なんて声明を聞くと、まるでとても慈悲深い王に見えませんか? とはいえ、貴女の監視はしておきたいのが現実です。そこで、私という王家の忠犬の側室にすることで反乱の種を芽吹かせず、鎖を繋ぐことも出来る。少ない損失で大きな利益です」
つまり、公爵令嬢を生かすことは王のイメージアップ戦略にも有用な手段となりえる、とマクラウドは主張する。
ヴィヴィアンは口をつぐんだ。沈黙は肯定だ。マクラウドはさらに言葉を重ねた。
「悪い条件ではないでしょう。貴女は故郷で一生を終えることができる。そして私は、貴女を慕い11年が経ちました。士爵は一代限りですし、私の血を継ぐ子はむしろ私の生家との問題をややこしくします――貴女さえ良ければ、私は貴女を一生の方として迎えたい」
「……正直、貴方のわたくしへの執着は怖いです」
「手厳しいな。ですが、浮気性の男よりは良いのではないですか」
ヴィヴィアンは思わず眉をひそめた。
多くの女と関係を持つことが勲章だと思っている殿方が多い事も知っている。確かにそんな下衆は唾棄すべき対象だ。
だが、それと比べて良いからと言って、マクラウドの言葉に、はい、いいですよ、とは言いたくない。
「――犠牲が出ることを、貴方はどうお考えなのですか」
彼の結婚話は、ヴィヴィアンの生家・クロムウェル家が攻め落とされることが前提だ。攻め落とすということは、騎士が褒美を取るということは――血が流れる。
王家も公爵家も。少ない血で済めばいいが、実力が拮抗している2つの勢力だ。そんな簡単にはいかないだろう。
「必要な犠牲だと思います。その業は、背負う覚悟です。これまでもそうしてきました。これからも、そのつもりです」
マクラウドの真摯な目を見た後、ヴィヴィアンは目を伏せた。
「貴方の意見は、わかりました。ですが、私もこの宮殿にいる以上、さる方から全く別の、提案もいただいております。回答は、暫しお待ちください」
ヴィヴィアンが、全く別、を強調したのは貰っている提案は婚姻話ではないということを言いたかったからだ。
彼女の言葉に、マクラウドは、勿論です、と言って紅茶を飲み干した。そして、早々に席を立ち上がる。
「私もお忍びで来ておりますので――本日はこれで」
思っていたよりもあっさりと引き下がるマクラウドに、ヴィヴィアンは声をかけた。
「一つだけ教えて頂きたいの。 ウセディグ様」
「私に答えられることでしたら」
「シートン子爵令嬢の名前は、ご存知かしら?」
「――ええ。近々、公になると思います。私はこの件について、まるで安価な路上演劇のような話だと思っておりますが」
「そうですか。お答えいただき、有難うございます。――エム、案内を。そのあと必ず、こちらの部屋に来なさい」
「かしこまりました、お嬢様」
エムは一礼すると、いつかの白い脚の従僕の様に、マクラウドの前を歩き始めた。
彼らが部屋を出た直後、ヴィヴィアンはすぐ呼び鈴でメイドを呼び出して、茶器を片づけてもらう。
再び1人になった部屋で椅子に腰かけながら、ヴィヴィアンは深く息を吐いた。
やはり、サミュエル殿下はリリス嬢とくっついたのね。
ヴィヴィアンは、自分の処刑を回避するため、リリス嬢ともっと関わると思っていたが、結局彼女と関わることもなかった。
見たのも新緑祭の初日だけだった。いまや、ヴィヴィアンは彼女の顔すら思い出せない。1か月しか経ってないというのに。
まだ1月だなんて、信じられない。
あまりに多くのことを経験しすぎた。頭痛がするのも、ため息をこんなについてしまうのも道理だとヴィヴィアンは妙に納得した。
「ヴィー」
「――貴方は本当、音もなく現れるわね」
閉じていた目を開ければ、誰もいなかった部屋に、鮮やかな赤と緑を持った使用人姿の男がそこにいた。
「貴方が私を殺そうとしてもきっと気づかないわ」
エムが今、ナイフを持って立っていたとしても、ヴィヴィアンはきっと気づかないだろう。彼女自身それを容易に想像できてしまい、思わず苦笑した。
「――それは冗談でも、二度と、言わないでくれ」
何かを耐えるような表情をしたエムに、ヴィヴィアンは思わず閉口した。
同時に、胸につかえていた不快感が、何故だかすっと消えていくのをヴィヴィアンは感じた。
「……悪かったわ」
「うん――僕も悪かったよ。 突然アイツを連れてきて」
「それは全くだわ。貴方、私があの人を怖がっている事、知っているでしょう」
ヴィヴィアンの言葉にエムは少しバツの悪そうな顔で頷いた。
「それでも、あいつの君への想いと、献身は本物だ。選んだとしても、悪い事にはならない」
「ダンスの時も言ってたわね。マクラウド将軍が踊ったのは不幸中の幸いだって――あの方の想いに気付いていて?」
つまり、彼はあの時点で既にマクラウド将軍の想いを知っていたということになる。
ヴィヴィアンが問いかければ、エムは黙った。沈黙は、肯定だ。
「ヴィー、僕はただ、君に――」
「わかってるわ、私に1つでも多く、選択肢を与えたかったのね」
エムはそれに黙って頷いた。
ヴィヴィアンはエムの顔をじっと見る。
彼はどうやら忘れているらしいが、ヴィヴィアンはマクラウドと踊ったのは不幸中の幸い。
そして、その次の言葉に彼が言った言葉を覚えている。
エムは怪訝そうな顔でじっとヴィヴィアンを見つめた。
彼の顔には、なぜこんなにも見られているか、わからないと大きく書かれていた。
ヴィヴィアンはうっすらと笑って、口を開く。
「今日、マクラウド将軍が提案しに来たことは、皇帝陛下もご存知なのよね?」
「プレヴェール伯爵は知っている。だから、ご存知だろうね」
エムの言葉を聞いて、ヴィヴィアンは、意を決して口を開いた。
「プレヴェール伯爵に伝言を。 わたくしは何を選ぶか決めたので、皇帝に取り合ってほしい、と」
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