第四章:嘘と真実と 02
とても長く、長くヴィヴィアンは息を吐いて、ベッドに腰掛けた。
精神の疲れに反して体が思ったより疲弊していないのは、締め付けのきついコルセットや、華美すぎて重い首飾りやイヤリングなどの装飾品をつけていないためだろうか。
陽が傾き、赤く染まる窓を見ながら、ヴィヴィアンは疲れた頭でそんなことを思った。
「お嬢様、湯の準備が出来ましてございます」
デボラの声に合わせて、両開きのドアがどちらも開かれて、猫脚のバスタブと湯が部屋に運ばれてくる。
リネンの絨毯が敷かれ、その上にバスタブが置かれた。使用人たちが運ぶ湯が次から次へとバスタブの中に投下されていく。いつもよりも多い湯量は、デボラが気を利かせたのだと、ヴィヴィアンにはわかった。
湯気の向こうの鏡に映る自分は思った以上に憔悴していた。
湯を持ってきた使用人が下がり、デイジーが窓の厚いカーテンを引き、デボラがヴィヴィアンから簡素な服を脱がす。やはり普段よりずっと短い時間で脱げたそれを腕にしまい込むと、デイジーがヴィヴィアンの髪を解いた。
「ではお嬢様、ご用ができましたら呼び鈴でお知らせください」
「ええ、わかったわ」
デボラとデイジーは頭を下げて部屋を後にした。
湯気がもうもうと部屋に充満していき、全ての境界を曖昧にしていく。ヴィヴィアンは白む天井を見ながら、口を開けた。
「エム、まだいるんでしょう?」
「……今、君の前に姿を現そうか迷っているよ」
エムは声こそしたが、姿は現さない。声はまるで天井から降ってきている様でもあるし、窓の側から聞こえているようでもある。ヴィヴィアンは目を閉じながら口を開いた。
「そのまま隠れていて。こっちを見たら万死よ」
影の存在は、気配を感じさせない。だから主人と影の間には今侍っていることがわかる様な合図が存在している。ヴィヴィアンとエムの場合、それが天井に存在する。天井であれば、使用人もデボラもデイジーも、四隅でない限りあまり気にかけないからだ。
「それで、僕をあえて留め置いて、一体何があったの、ヴィー」
クロムウェルの人間は基本的に1人になることはない。着替えの際や風呂は必ず専属のメイドが担当し、それ以外の時間を影が交代で見守るからだ。メイドが部屋から出てしまった今、エムは部屋にいないといけなかったのだ。
「マクラウド将軍と今日会ったわ」
「ああ、そうらしいね」
他の影から既に聞いていたのか、デボラたちの話を盗み聞きしたのか、エムはさして驚かずヴィヴィアンの言葉に頷いた。
「どうせ知っていたんでしょう」
「何を?」
「マクラウド将軍のことよ」
「まあ、影だからね」
チャプ、と水の音が部屋に響く。姿の見えないものと会話しているのに、水音の方がずっと大きく部屋に響いた。
「それで? 吟遊詩人の作った物語の主人公になった気分は」
「よく、喚き散らさないでいられたと、自分を褒めたいくらいよ」
「……どういうこと?」
これはエムも予想外の返答だったのか、先ほどまでの飄々とした声が一転、困惑したものに変わった。
「それも踏まえて、今晩エムに話したい事があるの。絶対に、どこかに行ってはダメよ? あなた、最近どこかに出かけがちだから」
ヴィヴィアンはエムの返答も聞かず、チリリン、と呼び鈴を鳴らした。
* *
マクラウド、曰く。
あれは私がまだ武功らしい武功も立てておらず『爵位なし』と言われていた頃です。殿下の護衛係に選ばれた時だったので、周囲からのやっかみも多く、簡単に言えばやさぐれていました。
そんな折、貴女と出会ったのです。
殿下の婚約者候補として訪れていた貴女は、ひょんな折に侍女と逸れて庭園に一人おり、バラの花をそれは熱心に見ていたのです。そしてその目を私へ向けて言いました。
「このバラのような髪と目をしているのね、きれいだわ」
幼子の言葉だと分かりながらも、私は愚痴をこぼさずにいられませんでした。
「この髪と目の意味を知らないというのは、残酷ですね」
今思っても、大人げない話です。
でも、貴女はその時こうおっしゃったのです。
「あなたは、騎士でしょう? ならば髪の意味も目の意味も、その力でねじ伏せればいいのよ。その為には、あなたが一番あなたを馬鹿にしないことね」
正直5つの幼子の言葉とは思えませんでした。
それ以来、私は貴女の言葉を胸に、殿下の信頼を勝ち得、その後の南方遠征で武功を上げることができたのです。
その時より、私は貴女の信奉者で、貴女を愛しているのです。
マクラウドの話は、まるで長詩を朗々と吟じているようにヴィヴィアンには聞こえた。
「申し訳ないけど、わたくし、その出来事を覚えてないわ。それは本当にわたくしなのでしょうか」
素直な感想だった。言葉も含めて自分の様だとは思えなかったのだ。扇があれば口を隠せたが、ヴィヴィアンは口をへの字に曲げて、不信感を顔に露わにした。
「信じられないでしょうが、事実なのです。その子供は金糸のような艶やかな髪にスカイブルーの目を持ち、のちに探しに来た侍女が『ヴィヴィアンお嬢様』と言っていたのを覚えています。貴女は5つでも、私は当時19ですから」
「……そうですか」
5つの記憶と19歳の記憶。どちらが正確かはヴィヴィアンでもわかる。吟遊詩人の作った物語のような話を、ヴィヴィアンは事実として認めることにした。
改めて、ヴィヴィアンはマクラウドを見る。庶民の乗る簡素な馬車で、簡素な格好をしているが、数々のご夫人やご令嬢の目を奪う、素晴らしい美貌がそこにある。5つの私が薔薇に例えてしまうのも頷ける。
そんな男が、蜂蜜のような視線をヴィヴィアンに向けて、巷の噂が嘘であることを知っており、今後私の潔白を信じるという。その根拠に長年の愛の告白をしてきたのだ。
「マクラウド将軍。貴方はわたくしが好きで、だからこそ今回の件の潔白を信じてくださっているのですね」
「そうです、ヴィヴィアン嬢」
「そして貴方は、これまでずっとわたくしへの思いを持ちながら接してくださり、これからも、その思いを胸に抱きつつ、わたくしに剣を向けるのですね……王家の犬として」
「まあ、そうなります。私は殿下の、ひいては陛下の忠実なる僕ですからね」
マクラウドは曖昧に笑いながらヴィヴィアンの言葉を肯定した。
ヴィヴィアンは、強く自身の手を握りしめた。右手の小指にある指輪を感じながら、大きく息を吸う。
「話がようやく理解できました。 マクラウド将軍、わたくしは立場上、貴方の思いに応えるつもりも、受け止めるつもりもございません」
一つは、婚約をしている身の上として。もう一つは王家と敵対している公爵令嬢という立場として。ヴィヴィアンはマクラウドを拒絶した。
ヴィヴィアンの言葉をマクラウドも想定済みだったのだろう、勿論です、と言って静かに首肯した。
そして次の瞬間、少しの期待を込めた目でヴィヴィアンを見つめて口を開いた。
「立場を抜きにしたら?」
その言葉に、ヴィヴィアンは曖昧な笑みだけを浮かべた。
ヴィヴィアンを見たマクラウドは少しだけ瞳を見張って、言った。
「そのように笑って、くださるのですか」
* *
「本当は、笑って等いなかったわ。喚き散らしたいほどの恐怖心を、目の前の男から走って逃出したい衝動を、どうにか押さえ込んで、それが笑っている様にみえただけよ」
陽もすっかり落ち、月明かりばかりが部屋を照らしていた。満月が近いのか、窓から差し込む月の光は存外明るい。
だから、蝋燭を灯さずとも、ヴィヴィアンには、自分を案じているエムの顔がよく見えた。顔はいつも通り下半分しか見えないが、口元に浮かぶ表情は、初めて見る表情をしていた。
「……悪いけど。僕には今の話で君が怖がるのがわからないんだ」
エムはそう言うと、ヴィヴィアンの震える手に自分の手を重ねた。
ヴィヴィアンの手は雪のようで、血の通っていないモノのような冷たさだった。
「そうでしょうね、その恐怖心の理由を語るには、私の前世を話す必要があるんだもの」
だから夜にしたのよ、と言うヴィヴィアンは、エムにベッドサイドの椅子をすすめた。
「長い話になるわ」
* *
ヴィヴィアンの前世。それは地球という星の、日本という国に生まれた一人の女性だった。
天内舞香。それがヴィヴィアンの前世の名前だ。
舞香は、ヴィヴィアン同様金銭面では苦慮していなかった。ヴィヴィアンと同じく上流の出と言っても差し支えないだろう。
彼女の父は医者で、彼女の母は弁護士として身を立て、兄は投資家としていくつもの会社という大きな組織の経営に関与し、姉は医者として世界を飛び回っていた。
舞香の世界では、ヴィヴィアンたちとは決定的に違うことがあった。男女が平等で、職業が自由に選択出来ることだ。
しかし、この自由という代物、実はとても扱いが難しい。
自己を認めたり、能力がある者に対して、自由であることに問題は起きない。むしろ良い面ばかり享受できるだろう。
反面、自己を認められない者や、能力がないと思っている者にとって、自由は砂漠の上に放置されるようなものだ。
そして彼女、舞香は悲しい事に後者だった。
原因は様々あった。
元々引っ込み思案な性格だった舞香は自己主張が上手くできず、両親から姉や兄と比べられることについて、ひたすら感情や気持ちを溜め込んでしまった。
自分は、出来ない子なんだ。
そんな思いがますます舞香の引っ込み思案を増長させた。
小学・中学・高校と、舞香は兄弟と同様の学校にいたが、その12年間ずっといじめられた。両親に訴える事も出来ず、ひたすら耐えてしまった。当然綻びはそれだけでは終わらない。心の傷は様々な所に弊害を及ぼした。最もわかりやすかったのは成績だった。一定以上の成績があれば自動的に同じ名前の大学という高等教育機関に行けたにもかかわらず、彼女はその機会を逃した。
家は世間体を気にして大学を出ない事は是とされず、彼女は別の大学を受験した。
彼女の引っ込み思案は12年のいじめと、親からの失望のため輪をかけて酷くなり、彼女の働く場を得るための活動、就職活動は難航した。
なんとか受かった会社でも彼女は孤立した。それでもここで生きていくしかないと、精神をすり減らしながら耐え、部署を転々としていた。もうここがダメなら退職してもらうほかない、と言われた異動先の上司からセクハラ被害に遭った。
また、ただの会社員である彼女を家族は認めなかった。
就職と同時に家から閉め出し、冠婚葬祭など、必要最低限以外での彼女との関わりを拒絶したのだ。
一人暮らしは舞香にとって最初こそ気を楽にしたものの、しばらくすると差出人不明な手紙や贈り物、隠し撮りした大量の写真が次第に家に届くようになった。
とても粘着質なストーカーだった。
彼女にとって家は、安寧をもたらすものではなくなっていった。
黙りつづけたせいで上司のセクハラがエスカレートし、粘着質なストーカーはその上司を恋人だと思い込み、舞香を裏切り者と罵って、彼女を刺したのである。
天内舞香という女性は、自分を愛せず、家族に愛されず、友にも恵まれず。
救いと安寧は本の中だけ、それも泡沫のような儚い夢だ。
彼女はそんな人生を悔やみ、様々なことに痛み苦しみながら、意識を手放したのだ。
* *
「それで、おしまい。ただ、彼女の上司が、丁度30歳ぐらいだったのよ。周りから評判のいい人でね。その裏で彼女を散々……だから敵側にいるのに私を好きだというマクラウド将軍が、私にはその人と重なって怖くなったのよ」
ヴィヴィアンにとって『天内舞香』は他人のようで他人でなく、自分のようで自分でない不思議な存在だった。
私というにはあまりに遠く、他人というにはあまりに近すぎた。
前者は世界や立場や考え方であり、後者は記憶と心情である。
この感覚はきっとヴィヴィアンにしかわからない。だから、あくまで伝記の様に、物語の様にヴィヴィアンは彼女の生涯を口にした。
ヴィヴィアンが話し終えると、重なっていた筈の手がすっかり冷えていた。見ればエムが椅子に座って、首を垂れていた。
「ヴィー、正直に言って」
「エム?」
「僕は、君の影でいいの? ……年齢こそ違うが、僕は男で、君の丁度4つ上だ。僕の不手際にすれば、変える事だって出来る」
エムは、まるで祈る様に手を組んで、ヴィヴィアンの言葉を待っていた。
ヴィヴィアンは、エムの前に向き直った。布の擦れる音で、月明かりの影で、解っているはずなのに、エムは動かない。
まるで首を差し出しているかのような体勢だ。ヴィヴィアンはその差し出された項を指の先で撫でた後、エムの頬に触れた。
「ばかね」
その声は、夜のしじまに、僅かな月明かりに溶けてしまいそうなほど、落ち着いた音だった。
触れ合ったところが熱を生んで、ほのかな温かさが互いの肌に灯る。
ヴィヴィアンだって家庭環境は良くない。頭だって利発とは言えないし、王家からも公爵からも駒と見られている今の環境だって、彼女に負けず劣らず悪いはずだ。
でも、ヴィヴィアンには影がいた。
この存在がヴィヴィアンと共にあり、ヴィヴィアンを認め、諭した。
天内舞香とヴィヴィアンの最大の違いは、この温もりだった。
今だって話を聞いて自分の身を引こうとする、この存在が、ヴィヴィアンから彼女を遠ざけた。
「私、癇癪持ちなの、知ってるでしょう? ……少しでも嫌なものは、傍に置かないわ」
エムは顔をあげて、見下ろすヴィヴィアンをしっかりと見た。そして、頬に触れるヴィヴィアンの手に自身のソレを重ねて、やさしく握りしめた。
雪のように冷えたヴィヴィアンの指先は、エムのおかげですっかり温かくなっていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます