第五章:劇薬の侵蝕

第五章:劇薬の侵蝕 01








 翌日、デボラがラベンダーのドライフラワーを差し出してきて、ヴィヴィアンは自分が肝心なものを買い忘れていたことに気付いた。


 どうやら、自分は思っていたよりも、気が動転していたらしい。

 ヴィヴィアンは他人事のように乾いた花束を見つめながら思った。

 デボラが何故、泣きそうな顔でラベンダーを差し出してくるのか解らなかったが、

 彼女のことだ、何かを早合点しているのかもしれないと、ヴィヴィアンはその表情について特に声をかけることはしなかった。



 刺繍は淑女の嗜み。ヴィヴィアンも当然のように刺すことができる。そして、意外なことにヴィヴィアンは刺繍が好きだった。


 模様は散々悩んだ挙句、結局自分が好きな薔薇を刺すことにした。

 王家の紋章を刺すことはもう癪だし、かといって公爵家の紋章を刺すのも、権威を翳すようで嫌だった。


 私、すっかり権威が嫌いになっているのね。


 金色の薔薇を刺しながら、ヴィヴィアンは自分の気持ちの変化にびっくりしていた。

 思えば、少し前ならサシェに目など向けず、サシェのどこが良いのかと言っていたに違いない。

 そして自分が好きな貴石の宝飾品に家の紋章を入れて、配っていたに違いない。



「きっと、ヴィーはクロムウェル公爵ではなくて、ヴィヴィアンを持っていて欲しいのさ」

 エムは、青いサテンの端切れで手遊びをしながら、なんでもないことのように言った。

「私を持つ……?」

「いつか分かる日がくるよ、きっとね」

 エムの言っていることは、わかるようで全くわからなかったが、ヴィヴィアンはエムがこの先もヴィヴィアンが生きている事を疑っていないことは、その言葉で理解した。


「エム、ありがとう」

「礼を言われる事、まだしてないけど。けどお礼僕の分のサシェでいいよ」

 これからする気はあるらしい。そしてお礼なのに先払いらしい。

 ヴィヴィアンは、その言葉に一つ笑って期待しているわ、と声をかけた。

 刺繍を再びさす作業に没頭した。得意とはいっても、それなりの数がある。次のお茶会までとなるとそんなに時間もない。


 彼女たちは、喜んでくれるかしら。


 ヴィヴィアンは、柄にもない事を思ったと、また一つ笑って薔薇を刺し続けた。




「ああ、ヴィヴィアンさん。こんな……大事にするわ、とても大事に」

 完成したサシェは、いつかヴィヴィアンが扇に付けていたような、騎士に貰ったような、とても小さいものだった。

 この間の噂を教えてくれたお礼にと、お茶会の全員に渡した。


 全員、ヴィヴィアンが自ら刺繍をしたというと、とてもびっくりして、同時にとても喜んでくれた。

 こんな気持ちになるのは初めてで、ヴィヴィアンはとても胸がむず痒いと思った。

 

 後ろを見れば、デボラが、当然ですという顔で胸を張っていた。


 特にコーネリアは、もらったサシェを至上の宝の様に両手で包み込むと、濡れた瞳でヴィヴィアンに何度もお礼を言った。


「そんな、大層なものではないわ。中身もラベンダーだし、日ごろの感謝の証でなの。 コーネリアさんはいつも、わたくしを気にかけて下さったし、わたくしのために怒ってくださったから」

 コーネリアの尋常ならざる様子にヴィヴィアンは大変困惑した。つい、いろんな言葉をのせてしまうくらいには動揺していた。

 それを聞いたコーネリアの群青の目からはいよいよ涙がボロボロと零れ落ちた。


「私、ヴィヴィアンさんと友人でいれることが、とても誇らしいわ」


 涙に濡れた声は、ヴィヴィアンの心の奥底に優しい雨として降り注いだ。




 コーネリアの慈雨は、彼女たちが去った後も降りやまなかった。

 ヴィヴィアンが何度も胸に手をやるので、デボラが病気かと医者を呼ぼうとしたくらいだ。ヴィヴィアンは行動力の高い彼女を慌てて止めた。デイジーはデボラよりヴィヴィアンの心がわかるのか、くすくすと静かに笑っていた。


 そんな二人に、ヴィヴィアンはおずおずと小さなそれを差し出した。

「実は、あなたたちにもあるのよ」


 袋にラベンダーを入れることは、デボラとデイジーの二人に任せていたので、二人にはぺしゃんこの小さな巾着という何とも不格好なものになってしまった。

ヴィヴィアンはそのことをちょっとみっとも無いと思っていたのだが、それを見た二人が目を丸くして固まっているのを見て、これで良かったとにやりと笑った。


「お、おおお嬢様…!」

 特に、使用人の癖にポーカーフェイスが下手なデボラの喜びように、ヴィヴィアンは本当に嬉しいと思った。

 デイジーも先ほどとは違う優しい笑みを浮かべて、ぺしゃんこの小さな巾着を見ている。

 

 いつかの、肩を縮こまらせていた使用人たちとは思えない。

 その言葉は、ヴィヴィアンが意識することもなく口から零れ出ていた。


「デボラ、デイジー。いつもありがとう」



 ああ、自分をあげるということは、自分を持ってもらうということは、こういう事なのか。

 こんなにも幸福で、泣きたくなるほどに嬉しい事なのか。





 その日の夜あまりの嬉しさに、ヴィヴィアンはエムを呼び出してその話をした。

 エムも枕元近くに腰掛けながら彼女のまるで幼子が母にかけるような言葉を、最後まで聞いていた。

 貰ったサシェがうれしかったのか、それともヴィヴィアンの様子が好ましかったのか、いつも意地の悪そうな上がり方をしているエムの口角が、今日ばかりは優しく微笑んでいる。



「ねえ、エム」

「なんだい、ヴィー」

「私、生きたい。生き残りたいけど、少しだけ、公爵令嬢でいられない事が悲しいわ」


 もっと早く、デボラたちの名前を覚えていれば。

 もっと早く、コーネリアたちのことを気にかけていれば。

 もっと早く、身の回りのことを知っていれば。

 自分には、自分の立場であれば、もっとできたことがあったかもしれないのに。


「……そう」

「ええ、賽は投げられているもの。しょうがないんだけどね」

 ちょっと残念に思ってしまうわ、という言葉は夢に溶けて、その口から出ることはなかった。


 規則正しい寝息を立てるヴィヴィアンの頭を、エムはそっと撫で、その髪にそっと唇を寄せた。

「……ヴィー、僕のかわいい、ヴィー」


 僕は、君の願いは今まですべて叶えてきた。そうだろう。

 これからだって、きっとそうだ。




* *



 その煙は、ある日突然現れた。



「聞きまして? クロムウェル公のご息女の噂」

「ええ、以前から人柄についての噂はございましたが……今回ばかりは、ねえ」

「公は否定されておりますがね……火の無い所に煙は立たぬと申します、火種くらいはあったのではなくて?」

「火種どころか炎かもしれぬぞ。何せ天下のクロムウェル公爵令嬢だ」

「ええ、権力を笠に着て、など十八番でしょう」

「あの美貌と若さなら、私もお相手願いたいものだ」

「きっと意地汚く強請ったのでしょう。あの方は仕方なくに決まっております」

「ええ、そうですとも。あのお見た目でしょう? 見栄っ張りのよくばり娘が放っておくわけないわ」

「全くです。彼女の業突く張りについては以前からお噂がありましたものね」



 貴族社会は細い糸のような繋がりで出来上がっている。

 その糸は赤い色をしていて、婚姻という儀式を経て強くなる。たとえ相手の事を蹴落としたいと、はらわたが煮えぐり返っていたとしても、家にとって利があれば血を繋ぐ。それが貴族という生き物で、それらが群集しているのが貴族社会なのだ。


 そんな血みどろの社会にとって、醜聞というのは何物にも代えがたい甘露である。


 おかしいのは、それが既婚者のものであれば笑いの種であり、未婚の者たちであれば家にとっての劇薬となりえる事である。

 だから、貴族という生き物は婚姻前の男女の醜聞を何よりも恐れ、忌み嫌うのだ。



 “ヴィヴィアン・クロムウェルは『爵位なし』のライアン・マクラウドと姦通している”



 一番の劇薬が、クロムウェル家を侵していた。




 ヴィヴィアンはその部屋へ、数年ぶりに足を踏み入れていた。

 その背の向こうから久方ぶりの太陽が部屋を明るく照らしていたが、ヴィヴィアンの目には新月の夜明け前の方がよっぽど明るいと思えるほどの暗さだった。

 肉親なのに、親なのに、という言葉はヴィヴィアンにとって前世も含めて縁遠い言葉だった。


 彼女にとって父親とは、血がつながっている家の長、それ以上の意味を持っていない。


「無実でございます」

「ほう。では、マクラウド将軍とは全くの面識がないと?」

「面識は、ございます。ですが、それは王領での庭園で、殿下がおられなかったときの代役の時です、それについての詫び状も殿下から頂いて……!」

 言い募るヴィヴィアンの言葉に、クロムウェル公爵は、コツ、と机を指で叩いた。

 裁判官の判決の木槌にも等しいソレに、ヴィヴィアンの肩がびくりと揺れる。


「殿下の庭園は、王都の宝飾店にもあるのか」

「……何の、ことでしょう」

「平民の格好をしたとてお前は公爵令嬢。一人で行かせると思っていたのか?」

 影。

 ヴィヴィアンは咄嗟に自分の影を見た。エムではない。なれば、きっと父の影だ。

 父親の大きな背の向こう、カーテンの側にその存在がちらりとだけ姿を現した。


 いつかの、布屋の店主の顔が、そこにはあった。


「お前が不義を犯しているか否か、それは問題ではない。そのような話があるという事態が、不義なのだ」

 公爵は軽く息を吐いて、俯いて拳を握るヴィヴィアンを黙って見下ろした。


「真偽はともかく、世間は全てお前のせいにするだろうな。人を苛め抜く業突く張りな令嬢が、誉の騎士に毒牙を向けた、とな」

「……申し訳、ございません」

 頭を下げるヴィヴィアンに、公爵は少しだけ目を見張った後、謝罪は要らないと無機質な声で淡々と言った。

「お前は、庭園で誉の騎士に一目ぼれをし、殿下を放って、かの騎士を追いかけ回したそうだぞ。……王家の中ではな」

「……」

「しばらく、部屋から出るな」

「……はい」

 ヴィヴィアンは深々と一礼をして、牢獄のような暗く重苦しい部屋から退室した。






「お嬢様、この度は申し訳ございません!」

 ヴィヴィアンが部屋に戻れば、デボラが床に膝をついて、頭を床に擦りつけていた。

 その後ろに、膝こそついていないが、デイジーが同じ程低頭してヴィヴィアンを迎えた。

「……無様ね」

「お、お嬢様この度の一件、全ての咎は私にございます! すべての責は私が負います、どうか、どうかデイジーまでは……!」

「わたくしは、お前にずっとわたくしがそう見えていたことが悲しいわ」

 ヴィヴィアンはデボラを見下ろしながらそう言うと、土下座をするデボラの横を通り過ぎた。低頭しているデイジーを無視し、鏡台に腰掛けた。


「随分前に、ギュンター夫人と約束したわ。使用人に手を上げない。私はそれをずっと守ってきた。お前たちもそれを承知して、心を許してくれていると。でも、お前たちには手を上げる主人に見えていたという事ね」

「お、お嬢様それは……」

「デボラ、貴女はこう言うべきだったわ『軽率な行動をして、申し訳ございません』そして頭を下げる。それだけでよかったのよ」

 もう、私にはそれだけの謝罪で十分だったのに。


 ヴィヴィアンの言葉に、デボラが思い切り体を起き上がらせたが、ヴィヴィアンは今彼女を視界に入れることが耐え切れなかった。

 ヴィヴィアンはとっさに、肘をついた手で、頭を抱える様にして、自身の視界塞いだ。

「デボラ、部屋を出て行って。 ……しばらく別の使用人を使います」

「お嬢様……」

「デイジー、貴女もよ。私が目を覆っている間に、早く」

「……申し訳ございません」

 何の謝罪か。

 ヴィヴィアンにはどちらの声かも判断したくなかった。ドアが閉まる音が、静かな昼下がりの部屋にひときわ大きく響いた。

 

 


「あ、あぁあ、ああああっ!」



 ヴィヴィアンは大きく吼えると、髪をまとめていたリボンと、髪飾りを大きく床に叩きつけた。その後、目につくあらゆるものをすべて叩きつける。

 化粧品、メイク道具、香水、小物類全てが割れ、壊れて部屋の絨毯の四方に転がっていく。借り物の部屋だとか、もらい物の宝飾品だとか、今のヴィヴィアンには全てどうでもよかった。

 目に見えるものをすべて床にたたきつけた後、肩で息をする醜い女が見えた。ヴィヴィアンは思わず拳を振り上げる。

 勢いをつけた拳は目の前の映し身を粉々に砕いてくれるはずだったのに、それは振り下ろされることはなかった。



「離して」

「それはダメだ、ヴィー。ケガをする」

「煩い、離せっ!」

 ヴィヴィアンはがむしゃらに体を動かした。エムは制止するためにヴィヴィアンの体を強く抱きしめたが、ヴィヴィアンはその細い体のどこにそんな力を持っていたのかというぐらいの力で、暴れ、声を張り上げた。


「私が!私が何をしたんだ!言ってみろ、私が何をした!私がっ、私が誰に入れあげたって!! あんな噂をっ、流されて! 私がどんなに、屈辱に、恐怖に! 耐えて、耐えて‼ どんな目に遭ってきたかも知らないくせに‼ ああ、あぁぁああああっ‼‼」


 心の底から燃える炎が身を焦がし、苦しくてたまらない。この思いは現世のものなのか前世のものなのかさえわからない。

 声を張り上げ、体をよじらないと、この炎に呑まれて死んでしまう。




 なぜ、なぜ、なぜ。

 こんな理不尽、どうして。




 悲鳴にも近い慟哭を上げて、上げて、声が枯れても、ヴィヴィアンの怨嗟の炎は彼女自身の身を焦がし続けた。

 


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