16.旦那さま降臨
光が消えると、空から何かが降りてきます。目が慣れずチカチカしていますが、凝らしてみると、旦那さまでした。
空と同じ色の目が、ギラリと、猛獣のような凶暴さを孕んで光っています。地面に降りてくるその一瞬一瞬を刻む時間が、速度を落としたような錯覚を覚えました。
初めて旦那さまの瞳を見た時のようです。
相手を圧倒する眼差し。ブランシュ嬢が息を呑む声が聞こえてきました。
「氷よ、影を捕えよ」
紡がれる呪文に応えて、指を向けた先から一気に影が凍っていきました。
辺り一面が氷漬けです。ブランシュ嬢の周りは氷柱のように尖った氷が彼女に向いており、包囲しています。
息をつく間もありませんでした。
私では払い除けることも出来なかった影はピクリとも動きません。肌に触れる氷が冷たくて皮膚がピリピリと痛くなりますが、助かりました。
「だ、旦那さまですか?」
「ああ、王と交代したんだ」
旦那さまが魔法で氷を砕いてくれて、身体が解放されました。自由です。
本当に旦那さまでした……。助かりました。まさに急死に一生です。
緊張が解けたせいか、涙が出てきます。目の前の旦那さまの目も口もわからないくらい滲んで見えちゃいます。
この歳で泣きべそなんて恥ずかしいです。涙よ止まれ。引っ込め。
「ブランシュ嬢、呪術を使用したように見受けられますが、うちの使用人が何か粗相したんでしょうか?」
「こ、この方がエルヴェさまに近づきすぎですので注意して差し上げたのですわ!」
呪術……やはり普通の魔法ではなかったんですね。しかも私、本気で消されかかってたんですね。
旦那さまが来てくれないとどうなってたことやら。
それにしても、呪術を使っていたとはいえ、女の子に氷の刃を向ける旦那さま、容赦ないです。
ブランシュ嬢の顔からは血の気がひいてしまっています。
「そんなつまらない理由で……私の大切な使用人に手を出さないでくれ」
地を這うような低い声に、ブランシュ嬢がビクリと身体を震わせて、たじろぎました。
私も、自分に向けられた言葉ではありませんが、足が竦んでしまいました。
「わ、わたくしは、エルヴェさまのことを想って彼女に忠告しましたの!」
「もう一度言う。彼女は私の使用人、他人のあなたが私たちのことに口を挟むなと言っている」
普段は穏やかに話す旦那さまが語気を荒げると、とても怖いです。
言葉に、声に、怒りが滲んでいます。
ブランシュ嬢が瞠目して旦那さまを見ました。
幼い頃から旦那さまを一途に想い続けてきたブランシュ嬢。親衛隊のリーダーも務めている彼女がどうしてこんなトラブルを起こすんでしょうか。ライバルとはいえ、ほかの令嬢を傷つけていたら旦那さまの心は離れていきますのに。
「申し訳……ございません」
「次はないと思え」
旦那さまがパチン、と指を鳴らすと、氷は影と一緒に消えました。
辺りが明るくなって、人の声が聞こえてきました。ブランシュ嬢が空間にかけた魔法が解かれたようです。
自在に氷を操り、一瞬にして創造も消滅もやってのけてしまう。相手の魔法も簡単に打ち消して。
これが宮廷魔道士団の魔法なんですね。
いつもデボラさんや先輩たちが使っている魔法とは別物。魔法に詳しくなくてもわかるくらい差があります。
ブランシュ嬢は唇を噛み締めると、何も言わずに去っていきました。
「使いなさい」
ハンカチを差し出されました。真っ白で、端にスーレイロル家の家紋が刺繍されたハンカチです。明らかに高級品。
こんな良いもの、使えません。
「い、いいです。たぶん鼻水とか出てるので汚すわけにはいきません!」
「返さなくていいから顔を拭きなさい」
鼻水は否定しないんですね。旦那さまの前で鼻水を見せてしまうとは、一生の不覚です。うわー。恥ずかしいです。穴があったら入りたいです本気で。
握らされたハンカチで涙やらもろもろを拭きながら立ち上がろうとすると、カクンと体が前のめりになりました。
脚に力が入りません。旦那さまが目をパチパチとさせて不思議そうにしています。
どうやら腰が抜けてしまったみたいです。リアル魔法バトルは無魔力には刺激が強すぎました。戦う旦那さまはかっこよかったですが、絶対に敵に回したくないと思いました。
さて、情けないことにまだ脚に力が入りません。
拒絶反応持ちの旦那さまに助け起こしてもらうわけにもいかないので、しばらく待ってもらいました。
つくづく手のかかる使用人で申し訳ありません。
「旦那さま、ありがとうございました。どうして私の場所がわかったんですか?」
「妖精王との契約の印があれば場所がわかる。あいつは今、捜索に力を使ったから休んでいるよ」
まさかのGPS機能付きでしたか。寄り道したらすぐにバレちゃいますね。
ウィルは私を探すのに、休まないといけないほどたくさんの力を使ってくれたなんて……次にお会いするときはいつもよりたくさんお菓子を作らないといけないですね。
「ウィル、ありがとうございました。お菓子をたくさん作るので待っててくださいね」
「ほどほどにしてくれ。あいつがよく食べるから体が重くなった気がする」
「旦那さまはむしろもっと食べた方が良いですよ!」
ほっそりしているんですもの。細いとどんな服も上品に着こなせるのはいいですけど、過酷な戦いに繰り出される旦那さまならガッチリしてないといつか倒れそうです。
王都から戻られた時も、前よりも痩せてしまったと、デボラさんが不安そうにしていました。
「ごはんが食べれない時は私がお菓子を作りましょうか?」
「子ども扱いしないでくれ」
「ウィルなら喜びますよ」
「あれは大きな子どもだ」
旦那さまの右腕が抗議するように動きました。相変わらず痛そうです。2人ともがそうやって右腕ばかり動かすから治りにくいんじゃないでしょうか。
「私に魔法が使えて旦那さまの怪我を治せたらいいですのに」
「ダメだ……!」
旦那さまは急に眉を潜めてしまいました。怒っているようにも、焦っているようにも見えます。何気なく言ったんですが、怪我を治す魔法は簡単に口にしてはいけなかったんでしょうか?
「も、申し訳ございません。魔法に詳しくなくて、軽率なことを言ってしまいました」
「いや、私の言葉が足りなかった。……けがの治療は、自然治癒に頼った方がいいんだ」
旦那さまは、コホンと咳払いしました。
「それにしても、我ながら迂闊だった。街は安全だと思っていたが、こんなことになるとは……これからは警備を見直さないといけないな」
傭兵団が魔物や盗賊から街を守ってくれているんですが、まさかうら若い乙女が呪術で襲ってくるとは誰も予想できなかったでしょう。私も驚きました。
もうすぐで妖精祭があるので、急いで防止魔法を敷くそうです。特定の呪術に反応して防いでくれる魔法があるんですって。魔法って奥が深いですね。
気がかりなのはブランシュ嬢ですが、旦那さまに注意されましたし、もう襲ってこないですよね。
「妖精祭は、私と一緒にいた方が良さそうだね」
「えっ?!」
一緒に見て回るんですか?
確かに旦那さまが隣にいたら安全なんですけど、それはそれで安全じゃなさそうです。観光客の令嬢たちから睨まれそうです。今度こそ確実に亡き者にされますよ。
「い、いえ。デボラさんと一緒にいます」
旦那さまが渋い顔をしていますが、命が大切なんで譲れません。
恋する乙女は魔獣より強いんですからね。
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