05.シフォンケーキとふわっとした懐柔作戦
「ユーリィ、これを旦那さまのところに持って行ってね」
「承知しました」
シェフに渡されたおやつのシフォンケーキと紅茶のセットをワゴンに乗せて調理場を後にします。
あの日以来、私はデボラさんの補佐として旦那さまのお世話をすることになりました。先輩たちの中では、どうしてあの無魔力が、と眉を顰める人もいますが、今の悩みはもっぱら記憶のことです。
毎日、記憶を思い出すきっかけになりそうなことを調べては実践しているのですが上手くいかず、手がかりさえも思い出せないのです。もちろん、藁に縋る思いで妖精王さまが冗談で仰った逆立ちもしましたとも。
このまま妖精祭を迎えてしまうんじゃ……それどころか、5年後10年後になっても思い出せなかったらどうしましょう……。
不安は尽きません。
悩み事を抱え過ぎてはいけませんね。気持ちが滅入っちゃうばかりです。ひとまず今日のおやつのことでも考えておきましょう。こんな時こそ甘い物です。
今日のおやつはシフォンケーキ。とろりとかけられたアイシングの上にはたっぷりとナッツが乗っていて美味しそうです。見たこともないナッツもありますが、どんな味がするんでしょうかねぇ。このお仕事が終わったらまかないで食べられるので楽しみです。
これまでの旦那さまは甘い物はあまり召し上がらないのに、最近はよく食べてくださるから嬉しいとシェフは喜んでいます。お出ししたものすべて食べてくださるから作り甲斐を感じているとのことです。別人が入っていますだなんて言えませんので複雑な気持ちでシェフの話を聞いてしまいました。
旦那さまのことは、頭を打って違う人格が出たと使用人たちに説明されています。なので本当の事情を知らない使用人たちは今、距離を測りかねているところです。
そんなこんなですが、妖精王さまが甘いもの好きのおかげでこのところ気合が入ったまかないおやつを食べられて私も嬉しいです。
昨日は採れたてのベリの実をふんだんに使ったタルトでした。季節の食材を使ったおやつって素敵ですね。丁寧な暮らしってやつです。
ここでは毎日、午前と午後に2回ずつシェフが使用人たちの休憩時間用におやつを用意してくれます。旦那さまや大奥さまが滞在されるときはまかないおやつとなり、いつもより豪華なので私たち使用人は喜んでおります。
休憩時間になるとみんなで集まってお菓子とお茶をいただきながらお話するんです。
たまに
ナタンさんが淹れる紅茶は口の中に入れるとふわっと香りが広がりますし、少しも苦みが無いんです。休憩時間に彼がポットを手に取るとワクワクしちゃいます。
そんな楽しい憩いの時間は、”休息も大切な仕事として歴代の旦那さまたちがくださっているんです。このお屋敷では仲間たちとの会話も大切とされているので休憩時間はみなさんゆったりとお話されています。
前世では息をつく暇もなく仕事に追われていたので最初はこのゆったりする時間に慣れませんでしたが、今では楽しみになっています。ご褒美タイムですね。
執務室についてドアをノックすると、ナタンさんが扉を開けてくれました。私が部屋に入ると、彼はそのまま出て行ってしまいました。
「思い出せたか?」
「うぐっ……」
執務室に入るなりすぐに妖精王さまが進捗を聞いてきます。楽し気に目を細めているその表情は妖精王さまというより、魔王のように思えてしまいます。目を合わすたびに聞いてくるので本っっっっ当に意地が悪いです。
いつも結わえている髪は、妖精王さまが入ってからは下ろしたままです。首を傾げる動きに合わせてサラリと動くその髪は指通り良さそうです。髪を下ろしているとちょっと気だるげな雰囲気があってまた良いと先輩たちが言っていました。
しかもこの
なんと気ままに生きているのでしょう。さすがに呆れてしまいます。元の世界の伝説とかでも神様や妖精が人間の女性を口説いていたりしましたが、どこの世界でも共通で女性が好きなのかもしれませんねぇ。
ただ、おかげで良い発見もありました。妖精王さまが身体を乗っ取ると女性に触れても拒絶反応が出ないようです。病は気からと言いますし、拒絶反応が出るとは旦那さまの精神的な働きかけが要因ということでしょうか?
何はともあれ、旦那さまとは正反対の性格をされている妖精王さまを野放しにするわけにもいきません。あれからデボラさんとナタンさんが交代で見張っている状態です。ちょうど今は2人とも別の仕事をしています。事情を知っている私が交代要員を任せられたのです。
「慈悲深い妖精王さま、取引の条件をもう少し優しくしていただけませんか? 何でもしますから!」
シフォンケーキを頬張ってご機嫌の妖精王さまにそれとなく切り出してみると、彼はフォークを動かす手を止めて思案顔になりました。ダメもとで言ってみましたが、もしかして難易度を下げていただけるかもしれません。
レッツ交渉タイム~!
不意に妖精王さまが立ち上がって目の前に来ました。近くで見ると本当に髪サラッサラですね。羨ましいです。
髪に気を取られていたので気づけば頬に手を添えられてました。絹のような漆黒の髪が顔に当たって……って、顔、近くないですか?
「言っておくが妖精は女神じゃないから慈悲はないぞ? でも、俺を惚れさせてみたら返してやらなくもない――いてっ! エルヴェ! 何するんだよ!」
妖精王さまの空いている方の手、つまり負傷している方の手がビュンっと不思議な方向に動いて身体を引っ張ると私から離れました。
一瞬の出来事でしたが、見るからに痛そうです。関節とか大変なことになってそうなんですけど。怪我が悪化してないといいんですが。まるで腕だけが意思を持ったかのような動きです。
「もしかして、旦那さまが抗っていらっしゃるんでしょうか?」
「そーそー、よっぽど女性に触れるのが嫌のようだ」
まさかの拒絶反応。
こうもあからさまに嫌がられるとなんだか自分がアレルゲン物質になったような気分です。漆やハウスダストもさぞこんな悲しい気持ちなんでしょうねぇ。
興が削がれたのか、どっかりと椅子に腰かけシフォンケーキの続きを食べ始めた妖精王さま。パクパクと気持ちの良いほどの喰いっぷりです。ワゴンに乗せているケーキを切り分けていると、おかわりを要求されました。
妖精王さまの話によると、どうやら旦那さまは身体を通して見聞きしていることを共有しているようです。妖精王さまとは心の中で会話しているのだとか。今は妖精王さまにお説教をしているそうです。ちょっと聞いてみたいですね。
お説教されているものの、妖精王さまはなんだか楽しそうです。一体どんな会話をされているのやら。
以前は旦那さまがどうなろうと知ったこっちゃないって言ってたんで仲悪いと思っていたのですが、そうでもなさそうですね。
妖精王さまは暇潰しで旦那さまを乗っ取っていますし、もしかしてお喋りの相手になる人間が欲しかっただけなのでしょうか?
スーレイロル家との約束は当時の領主さまとの交流から生まれたものですので、もしかして私が暇つぶしになる人間になれば返してくれたり――しますかね?
「妖精王さま、私はもっと妖精王さまとお話したいです。よろしければ毎日おやつを持ってヴィオニフの森にお邪魔したいのですが、いかがでしょうか? そうすれば、わざわざ旦那さまの身体を借りなくても暇つぶしができますよ? 一緒におやつ食べたりお話ししたりチェスで遊んだりして過ごしてみませんか?」
「――お前さんが作って持って来てくれるのか?」
「はいっ! 心を込めて作りますっ!」
「じゃあ――俺が気に入るものが作れるか試してやるから明日持って来い。モノによっては考えてやらなくもない」
よしっ、なんかふわっとしてますけどちょっぴり難易度が下がりました。
しかし啖呵を切ったものの、これまであまりお菓子を作ったことがありません。前世でバレンタインに友チョコ作ったのが最後くらいです。デボラさんたちに相談してシェフにお菓子作りを教えてもらうことにしましょうかねぇ……。
問題はありますが、妖精王さまが嬉しそうにしているのを見ると私も作るのが楽しみになってきました。
必ずや満足させてみせますので、心してお待ちくださいませ!
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