第70話 盤上の駒

 人間の王室は普通でも、魔王の王室は不気味だった。王室の中には玉座こそあるが、それ以外は不穏な空気。そこに居るだけでも、とんでもない重圧を感じてしまった。自分の精神が壊れるようなそれを、精神の底が腐るようなそれを、その不可解な空気と共に感じてしまうのである。それがまるで、「魔王の呪い」と言わんばかりに。下級の魔物を葬る程…だが、それも邪神には無意味。寧ろ、「心地良い」とさえ思っていた。

 

 邪なる力は、我が活力。それが生み出す欲望こそが、彼の餌である。その意味では、ここは彼にとって理想郷かも知れない。ふとした気紛れで訪れただけだった世界だったが、そこには最高の環境、彼の求める桃源郷が広がっていた。彼の前に見えている少女、魔王もまたその一人である。彼女は玉座の上に座って、邪神の顔を見ていた。邪神の顔は言わずもがな、嬉しそうに「ニコッ」と笑っている。


「楽しそうだな? ラビス」


「そりゃあね? こんなに面白いチェスを見せられちゃ、どうしたってワクワクする。それがどんな理由であれ、『戦い』と言うのは楽しんだよ。特にこの世界は……この異世界は、本当に盤上、『白』と『黒』とを並べた至高のチェス盤だ。『黒』が『白』を押し潰している盤上、『白』がそれに抗っている盤上。白側にも一応、強い駒は有るけどね? 一騎当千の強さを誇る駒が」


「しかし、それも」


「分かっている、過去の話だ。彼がまだ、最強でいられた頃の話。彼と並ぶ者がまだ、居なかった頃の話。彼は邪神の力にこそ守られているが、『それ』に抗おうとする者は必ず現われる。現に今も」


「あたし達が?」


「それだけじゃない。僕達の対局に立っている勢力も。即ち」


 人間達も。人間達の王たる、イルバ女王も。彼女は王宮の廊下を進んで、いつもの議会場に向かった。議会場の中にはもちろん、彼女の貴族達が入っている。彼等は定例の議会に備えて、それぞれの場所に腰を降ろしていた。「お早う御座います、女王陛下」


 イルバ女王は、その言葉に頭を下げた。それが彼女の挨拶であり、また貴族への敬意でもあったからだ。彼女は自分の頭を上げて、議会場の上座に腰を降ろした。


「お早う御座います、皆さん」

 

 貴族達は真面目な顔で、彼女の目を見つめた。彼女の目はいつもと同じ、その強さを見せている。今の状況に「決して落ち込むまい」と意気込む強さを。貴族達は「それ」に気付いていたが、表面上では「それ」を見せなかった。それを見せるのは、彼等としても苛立つモノがあるらしい。


「早速ですが」


 それに「分かっています」と答える、女王。女王もどうやら、彼等の気持ちを察しているらしい。彼女は貴族達の顔を見渡して、床の上に目を落とした。


「『彼』の件ですね?」


「そうです。敵の要塞が一つ、落ちたのは良いのですが。一番の問題は、それではない。フカザワ・エイスケの動きです。彼は一体、何処に居て、何をしているのか? 彼の動きは、我々の」


 運命に関わる。それは何も、彼等だけではない。彼と戦った魔物の子ども達、フィルド達も同じだった。彼等は自分達の中にガルダを入れた後も、真っ直ぐな顔で例の旅を続けていた。傷付いた自分の仲間を救う為に。そして、あの少年に勝つ為に。


 彼等は「草原」と言う「草原」、「森」と言う森を越えて、その旅を続けていたのである。フィルドとの旅を決めたガルダも、「フッ」と笑ってその旅を楽しんでいた。ガルダは、フィルドの背中に話し掛けた。


「それにしても」


「うん?」


「暇だね? 道の途中で見付ける敵は、どれも弱いし。君達も、傷らしい傷を負わない。これじゃ、僕のついて来た意味が無いね?」


「ふん! 仲間の誰かが傷付くよりは、良いだろう? 瀕死の傷を負うよりは」


 ずっと良い。そう言ったのは、例の要塞落としに加わっていたモンドだった。モンドは身体の痛みに耐えながらも、自分の仲間達に支えられる形で、アムアの後ろを歩いていた。


「戦いは、生きてこそやれるからな。死んでしまったら、どうにもならない」


 アムアは、その言葉に頷いた。その言葉に様々な思いを抱いて。


「ああ。でも、その犠牲は大きかった。自分の仲間達を何とか守られたけど……」


「仕方、ありません」と応えたのは、彼の隣を歩いていたカティである。「それも覚悟で、あの要塞を落としたんですから。要塞落としは、それだけ大変な事なんです」


 カティは沈鬱な顔で、自分の足下に目を落とした。彼女の足下には、誰かの血が残っている。


「わたし達は、最善を」


 それはある意味で、亜紀達も同じだった。亜紀達は女王との連絡が終わった後も、変わらぬ姿勢で自分達の旅を続けていた。


「尽くしているが」と呟いたのは、騎士団の先頭を歩いていたナウルである。「それが果たして、最善であるか?」


 ナウルは馬の手綱を操って、その速度を少し落とした。彼の後ろについていた亜紀が、暗い顔で溜め息をついたからである。彼は真面目な顔で、彼女の方を振り返った。


「休むか?」


「え?」


「あれからずっと歩いているし、お前も疲れただろう? 『馬の上に乗っている』とは言え」


「だ、大丈夫! 私はまだ」


「頑張るのは良いが、休息も同じくらいに大切だ。もしもの事態が起こって」


「そ、それでも! 私は、絶対に止まれないから。止まっちゃいけないから。ふうちゃんを取り戻す為にも」


「……そうか。まあ」


 無理は、しないでよ? そんな風に言うのはもちろん、亜紀の前を進んでいたナウルではない。サフェリィーの前を歩いていた栄介だった。栄介は三人の一番後ろにホヌスを置いて、異世界の冒険を思いきり楽しんでいた。


「さっきの敵は、しつこかったし。サフェリィーの所にも」


「ア、アレは、たまたまで。それよりも!」


「うん?」


「本当にやるんですか? 一人で要塞落としを?」


「やるよ? その積もりでいるし、それを変える積もりもない。僕は……この世界では、最強の悪魔だからね? 最強の悪魔なら一人でも」


 確かに落せるかも知れない。そう言ったのは、魔王の少女と話していたラビスだった。ラビスは彼女に「座れ」とすすめられた椅子を引いて、その上にゆっくりと腰掛けた。


「だか、それも」


「うん?」


「所詮は、遊びだ。十四歳の糞餓鬼が、自身の欲望に溺れたお遊び。飯事の延長線上でしかない。彼は言わば、盤上の駒でしかないからね? 『あらゆる駒に取られない』と思っている、ただの王様でしかない。相手に王様が取られれば、そのゲームも即終わってしまう」


「確かにそうだ。王が取られれば、その遊びも終了。あらゆる者が、然るべき所に収まるだろう。人間は人間に、そして、魔族は魔族に。問題は、その王をどう取るかだ?」


「別に捕らえなくても良いよ? 彼はどうせ、ここに来るだろうし。君が態々動く事はない。君はそこに座って、彼の事を待っていれば良いんだ。君の力を知らない、何も知らない彼の事を。彼は僕から言わせれば、周りの人間達と変わらないからね? 僕の同類から偶然、その力を与えられただけの。悪く言えば、勘違い。良く言えば、自覚のある馬鹿か? 邪神の加護を受けたって、自身の過去が消える訳でもないのに。その意味では、彼も哀れな人間だよ」


 魔王は、その言葉に頬を緩めた。その言葉がどうやら、相当に面白かったらしい。特に「哀れな人間」と言う部分には、耐えきれずに吹きだしてしまったようだ。


「酷い言い様だな。それではまるで、あたしも彼等と」


「同じ、ではないさ。だが、ある意味では同じかも知れない。『邪神の力に魅せられた』と言う部分では、君も彼等と同じだよ。僕とこうして、話している事もね? 普通ならこんな事」


 有り得ないでしょう? そう言ったのは、王国の貴族達だった。貴族達は議会の席で苛立っていたが、女王の前では(様々な思惑からか)不満を表していた。


「唯でさえ、『魔王との戦いが厳しい』と言うのに。彼は……うっ、ううう。陛下のお気持ちは、分かります。我々の側にもう一体、『それが居る』と言うのなら。彼等に解決を任せるのが正解でしょう。元々は、少年少女の痴話喧嘩から」


「痴話喧嘩じゃありません! 彼女は本気で、好きな相手を取り戻そうと」


「その結果がこれだ! ヨリナガ・アキが、向こうの世界に悪魔を封じていれば……こんな事など、こんな面倒な事など起こらなかったのに! 我々は今や、魔王以上の脅威に晒されている。いつ傾くかも知れない、天秤の脅威に。我々は……」


 限界かも知れない。そう言ったのは、樹木の表面に寄り掛ったガルダだった。ガルダは楽しげな顔で、仲間達の顔を見渡した。仲間達の顔は疲れこそないが、どこか憂鬱な感じになっている。


「それはまあ、その全員が考えているんだろうけど。彼は言わば、世界の武器庫だね? 皆の言うような天秤ではなく、本当はいつ壊れるかも知れない武器庫。最強の槍を備えた、超人。彼は何らかの力によって、その欲望を満たそうとしている。自己の欲するすべてを」


 フィルドは、その言葉に苛立った。それは言われなくても何となく分かるが、それでもそう言われると悔しい。自分の腸が煮え繰りかえそうになる。彼はガルダ程に落ち着いてはいないが、スキャラ程には苛立ってはいなかった。


「そんな勝手な理屈、流石に許されないだろう? アイツは、確かに強いかも知れない。だがそれで、自分の欲望を満たすのは」


「筋が通らないのは、分かる。だがそれが、『人間』と言う物。更に言えば、『魔物』と言う事だ。僕達は、自分達が思っている以上に快楽主義。この腐り切った世界ですらも、その考えは広がっている。快楽を求めない人間は」


 それに続いたのは、冒険者のアムアだった。アムアは自分の考えに苛立っているようで、モンドの「どうした?」にも応えようとしなかった。「ある意味で、異常かも知れない」


 モンドは、その言葉に眉を寄せた。その言葉にどうやら、妙な違和感を覚えたらしい。モンドは訝しげな顔で、アムアの顔を見返した。


「異常?」


「そうだ? 自分の欲望に蓋をして、善なる自分を装う事は。自然の法則に反した異常行為なのかも知れない」


「お前はその、異常な奴に成りたいのか?」


「……まさか、そんなのは絶対に有り得ない。人間はどんなに辛くても、その理性を失っちゃいけないんだ。自分が自分である為に。自身の欲望に忠実な人間は」


 それに重なる、ヘウスの声。ヘウスは亜紀の隣に並んでいたが、亜紀が何やら険しい表情を浮かべていたので、その彼女に「別におかしくないだろう?」と話し掛けた。


「欲の無い人間は居ない。問題は、それがどんな人間であるあるかだ? 周りに幸せをもたらす人間ならまだしも、不幸せを振りまく人間なら論外。その意味では」


「ふうちゃんは、最低じゃないよ?」


「だが、最悪ではある。関わりのない世界に不幸を振り向いた。奴は所詮、神の力に溺れた餓鬼だよ」

「それでも!」


 亜紀は悲しげな顔で、両手の拳を握り締めた。それが自分の、気持ちの怒りを表すかのように。


「私にとっては、大事な人です。それがたとえ、周りの人達から『悪魔』と呼ばれるような人でも。彼は、私の支えだった。私の悪を満たしてくれた人だった。常に良いでなければならなかった、私の。私は、自分が恨まれても構わない。それで大事な人を取り戻せるなら! 私はたとえ、周りの人達から疎まれても」


 それを魔王が嘲笑ったのは、本当にただの偶然か? 魔王は王室の天井を見上げて、その装飾に「ニヤリ」と笑った。


「自分の我を通す。ううん、実に人間らしい考えだ。周りの意見などどうでも良い。『大事なのは、今の自分がどうしたいのか?』と言う。考えの方向としては悪くないが、それでも迷惑な事に変わりはない。秩序が秩序として働く意味ではね? その意味では、彼等は本当に優秀だ。本当に優秀な、私達の贄。魔族の秩序たる生け贄だ。しかし」


「その悪魔は、そうは行かない?」


 魔王の顔が曇ったのは、邪心の言葉に苛立ったからだろう。彼女は不機嫌でこそないが、少し苛立った顔で、王室の中をゆっくりと歩き出した。


「奴は、透明だ」


「透明?」


「ああ、白に見せ掛けた透明。自分の気分次第で、白にも黒にも成れる駒だ。正に『自由』とも言える存在。そいつはね? あたし達と同じ盤上に立ちながら、全く違う遊戯に耽っているんだよ。自分だけが特別な決まりで生きている、『特別な駒』としてね? 奴は、あたしの指では摘まめない。だからこそ、待つ。お前の言う通りに待つ。奴がここに来るのを」


「そうして返り討ちにしてやる、か?」


「それ以外に何がある? あたしは、王だ。女王の役も兼ねた王。あらゆるマスに動けながらも、敢えて動かない王。奴はここに来なければならないが、あたしの方はじっと待つだけで良いんだ。その意味では、『あたしの方が数倍も上』と言える」


「確かにね? だがそれでは、君の部下達はどうなる? 君自身は、それで良いとしても。彼等は、紛う事なき捨て駒だ。君が惹かれたあの子はもちろん、それに従った少年達も同じような立場。君が世界のあちこちに置いた要塞も、いずれは悪魔に滅ぼされるだろう。その卑怯たる力を以て。君は、自分の部下がやられるのに苦しくないのか?」


 魔王は、その言葉に「ニヤリ」と笑った。その言葉がまるで、「戯れ言」と言わんばかりに。彼女は玉座の上にもう一度座って、自分の足をゆっくりと組んだ。


「それはもちろん、ある程度は苦しいよ? 彼等は、あたしの手下だからね? 手下の命が奪われるのは、苦しい。だが」


「うん?」


「それはたぶん、奴も同じだろう? 奴がこの世界を『盤上』と見做すなら、その駒を取られないのはやはり詰まらない。あたしでも、すぐに止めたくなる。『遊び』と言うのは、その攻防があってこそ楽しいのだ。いつまでも変わらない遊びでは、どんな差し手も、飽きるだろう。あたしはね?」


 それと重なったのは、深澤栄介の声だった。栄介は自分の後ろを振り返って、その仲間達を見渡した。仲間達も、彼の視線に応えている。


「この興奮をずっと楽しみたい。どんな道順でも、最後は絶対に勝てるゲーム。僕は、この世界を思いきり楽しみたいんだ」


 仲間達は、その言葉に微笑んだ。特にホヌスは「それ」が相当に面白かったらしく、今の位置を変える事はなかったが、先頭の彼にも届くような声で「素敵ね」と笑い掛けた。「そう言う考えは、大好物だわ。自分の快楽を第一にする考え、すべての享楽を至上とする考え。私は、そう言う考えに触れると」


 栄介は、その言葉に眉を上げた。その言葉に妙な感覚を覚えたからである。


「叫びたい?」


「かもね? でも、それ以上に」


「うん?」


「『少しの寄り道も良いかな?』と思ったわ。あそこに見える、ほら? ちょっと不気味な町が見えるでしょう? 魔物の要塞には見えないけど、何だか嫌な感じはする。あそこはきっと、魔物が住み着いている町だわ」


 ホヌスは「ニヤリ」と笑って、自分達からずっと先にある町を指差した。町の様子は……遠目からでは分かり辛いが、確かに不気味である。


「ねえ?」


 栄介も、その言葉に笑った。栄介は要塞落としに加えて、「あの町にも行ってみようかな」と思い始めた。そこで待って居るであろう、未知なる快楽を求めて。


「そうだね。うん、悪くない。要塞なんて何時でも落とせるし。ちょっとの寄り道も良いかも知れない」


 栄介は「クスッ」と笑って、腰の剣を撫でた。

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