第61話 人殺し

 その答えは、言うまでもない。彼は二人の少女を連れて、例の山々をすっかり越えていた。山々の向こうには町が、それもつい最近まで生きていただろう廃墟が、真っ暗な背景と共に広がっている。廃墟の中には、無数の死体が(たぶん、その全員が男だろう)転がっていた。ある者は、自分の腹を貫かれて。またある者は、その身体を切り刻まれて。それぞれの命をすっかり失っていた。彼等の身体を貪っているはえうじ、それら以外の生物も揃ってうごいている。彼等は死者の身体を食べる事で、死者達の生きてきた証を食い散らかしていた。

 

 サフェリィーは、その光景に震え上がった。この世界に生きる彼女だったが、これは流石に衝撃だったらしい。最初は目の前の光景を呆然と眺めていたが、やがては栄介達に断りつつ、建物の物陰まで行き、そこで胃の食べ物をすべて吐きだしてしまった。彼女はそれが空っぽになった後も、胃の中から胃液を無理矢理に出して、地面の上に胃液を吐き続けた。

 

 栄介は、その音に目を潜めた。その音自体は不快ではなかったが、やはり気持ちいいモノではない。自分では「やめよう」と思っていても、それがどうしても露わになってしまう。腰の剣を少し抜き、鞘の中にまた戻す動きを繰り返したのも、それが今の気分を紛らわす行為、自分の理性を失わないための防波堤になっていたからだった。彼は右手の動きを落ちつかせて、隣の邪神に視線を移した。隣の邪神もまた、真面目な顔で目の前の光景を眺めている。



「ええ、本当に。これは、想像以上に酷いわ」


 ホヌスは一体の死体に近づいて、その前にゆっくりとかがんだ。どうやら、「死体の状態を調べよう」と思ったらしい。彼女は死体の形状や腐り具合、血液の渇き具合などを調べはじめた。


「血の色が、すっかり変わっている。これは、相当の時間が過ぎているわね。死体の中にはもう、骨になっている人もいるし。その手に握られている武器も、ほら? 大体が錆びている。武器の刀身や鋒が折れた状態でね。弓矢の弓も、そこら中の壁に刺さったままでいるし」


「う、うん、そのようだね。彼等はたぶん、怪物達の攻撃に抗おうとした。『自分達の町を守ろう』としてね、決して敵わない戦いを挑もうとしたんだ。青年よりも上の世代は真正面から、それよりも下の年代は後ろから、それぞれの武器を持ってね。だけど」


「怪物達にはやっぱり、敵わなかった。怪物達の力は、彼等よりもずっと上。おそらくは、小さな子どもが巨人に戦いを挑むような感じだったんでしょう。彼等は自分達の家族も守れないまま、怪物達にその命を奪われてしまった。彼等に自分の身体を切り刻まれてね」


「うん……」


 栄介はまた、周りの風景を見渡した。周りの風景は、やはり変わらない。廃れた町の残骸が、ただひたすらに広がっているだけである。


「女の人達はやっぱり、連れ去られちゃったのかな?」


「おそらく、いえ。確実に連れ去られたでしょう。彼等は液状生物達にとって、繁殖の贄だから。その命を奪う筈がない。彼等は、町の女性達を連れ去ると」


 そこから先を言わなかったのは、彼女なりの配慮だったのか? ホヌスはサフェリィーが自分の前に戻って来ると、優しげな顔でその背中を摩り始めた。


「落ち着いた?」


「は、はい、何とか。さっきよりは、マシに。でも」


「仕方ないわ、こんな光景を見せられちゃね。普通は、そうなってしまうわ」


「お、お二人は、大丈夫なんですか?」


 栄介は、その質問に目を細めた。


「大丈夫では、あるけど」


 ホヌスも、その言葉に続いた。


「気分の方はやっぱり、悪いわね。人間の死体を、しかも腐った死体を見るのは。邪神の私でも、あまり良いモノではないわ。死体の表面からは、腐臭も漂っているからね。それをずっと嗅いでいるのは、私でも辛い。私はこれでも、匂いには敏感だからね」


「そ、そうなんですか」


 サフェリィーは不安な顔で、栄介の顔に視線を移した。ここの頭目が(彼女の中では)栄介である以上、自分の意見を押し通すわけには行かない。自分の中で「こうしたい」と思った時は、頭目の彼に「どうしまよう?」と伺う必要がある。彼女はその時宜を窺いつつ、彼の前にそっと歩み寄って、彼に「あ、あの!」と話し掛けた。


「エイスケ様」


「ん?」


「わたし……その、ここにはあまり居たくないのですが?」


 栄介は、その言葉に微笑んだ。それが意味する所は、流石の彼にも分かる。彼女は邪神の少女と違って、ごく普通の女の子なのだ。ごく普通の女の子が、こんな空間に耐えられる筈がない。普通ならいつ倒れてもおかしくない状況だった。


 栄介は二人の少女に「ここで少し待っていて」と言い、彼女達の前からサッと歩き出して、町の中をゆっくりと進み始めた。町の中は、やはり不気味だった。「建物」と言う建物がほとんど壊れていて、無事な建物の壁にも黒くなった血がこびり付いている。それらが付いていない建物も、その中に入ってみれば、床の上には死体が倒れ、死体の近くには武器が転がり、ふと何気なく開けてみた扉の向こうにも、怪物からの攻撃はしのげたが、そこから出ようとする勇気が持てなくて、身体の飢えに耐えられなかった者や自分から自分の命を絶った者、発狂の果てに死んでしまった(と思われる)者などもいくつか横たわっていた。

 

 栄介は、それらの光景に目を細めた。死者の口から情報を聞き出す事は出来ない。「棄てられた町」の場所は大体分かっていたが、それでも正確な情報、より多くの情報は集めたかった。実際の現場で知り得た情報は、人伝で伝わった情報よりも役に立つ。今回の場合は「それ」が難しそうだったが、こう言う場所にせっかく辿り着いた以上は、何かしらの新情報は手に入れたかった。

 

 栄介は足下の瓦礫を避けつつ、死体の方もついで避けて、何かしらの新情報を探し続けた。新情報は、意外とすぐに見つかった。索敵の力をふと何気なく使ってみたら、町の生存者を偶然にも見つけてしまったのである。町の生存者は、どうやら動けないらしい。栄介の声に一応は「た、助かった」と返しはしたが、身体の痛みと飢えに苦しむあまり、建物の内壁に寄り掛っていなければ、その姿勢すらも保てないような状態だった。栄介は彼の前に駆け寄って、意識の中から水筒を取りだした。彼にその水を飲ませようとしたからである。


「飲めますか?」


 その返事は、小さかった。声と声の間に息が入って、「飲める」と聞き取るのに時間が掛かってしまった。栄介が彼の口に水筒を近づけようとした時も、「それ」を怪物の姿と見間違えたのか? 栄介の手を思わず叩き掛けてしまった。彼は自分の身体が疲れているにも関わらず、常人の「それ」を遙かに超えて、狂ったように「来るな! 消えろ! あっちに行け!」と叫び始めた。


「俺はまだ、死にたくない!」


 栄介は、その言葉に眉を潜めた。それはご尤もだが、今はそんな言葉を聞きたいのではない。栄介は彼の興奮を何とか落ち着かせて、彼の口に水をゆっくりと流し込んだ。


「汚れてはない筈なので、大丈夫です。ゆっくりと飲んで下さい」


 男性は、その言葉に従った。それに抗う力が無くなってしまった以上、その言葉にもただ従わざるを得ない。彼は口の水に咽せりながらも、苦しそうな顔でその水を何とか飲み終えた。


「ありが、とう」


 口調の方も大分、落ち着いた。両目の瞳にも、光が僅かに戻っている。


「きみのおかげ、で、命が、なんとか、つながった」


「いえ」


 そんな事は、ありません、と、栄介は言った。


「貴方に死なれては、困りますから。別に厚意でやったわけじゃありません」


「そう、だと、しても」


「黙って」


「え?」


「それ以上は、疲れるだけです。今は、敵の情報だけを教えて下さい」


「敵の?」


「はい」


「君は?」


「僕は冒険者です、魔王の軍団を打ち払うための」


「そう、か」


「はい」


「俺はたぶん、助からない。だから」


「だから?」


「敵の情報を話したら、俺の事を殺してくれないか?」


 息の止まった瞬間だった。頭の方も固まって、気づいた時にはもう、目の前の彼に「殺す?」と訊き返していた。「貴方の事、を?」


 男性は、その言葉に頷いた。呼吸の方はやはり乱れていたものの、表情の方はしっかりとして、彼の言葉に「ああ」と応えていたのである。


「あんな奴らに殺されるのは御免だが、同じ人間の君になら……君の手で殺されるのなら」


 栄介は、その言葉に戸惑った。言葉の意味が分からないわけではない。相手の気持ちが分からないでもない。彼は唯一残されていた良心、その防波堤に震え上がってしまった。それが破られればもう、自分は人間でなくなってしまう。人間の部分がすっかり抜けて、完全な悪魔になってしまう。「殺生」を「殺生」とも思わない悪魔に。そうなってしまえば、自分はもう……。


「それは」


「臆する、事はない」


「え?」


「こんなのは、日常茶飯事だ。善人が善人を殺し、悪人が悪人を生かす。君も冒険者なら、多くの敵を倒して来たんだろう? その腰に帯びている剣で」


「ええ、まあ」


 正確には、も含まれているけれど。


「そうです」


「なら、迷う事はない。怪我人を治すだけが、善行ではないんだ」


「そうですか。なら」


 良いだろう、本人がそう望むのなら。その命を奪ってやる。それがたとえ、善行であったとしても。善行は客観の善、誰が見ても「善い」と思える行為だ。人間が人間至らしめる行為。善が悪を押し潰す行為。それを善とするならば、これも立派な善行だろう。当の本人が認めているのだから、栄介にそれを否める権利はない。それをただ、「そうですか」と遣り遂げるだけだ。


 実際は善行の正反対、悪行そのモノではあるが。悪行は社会の秩序を乱す行為、他者の生命を脅かす行為である。生命の幹を切って、その大木を薙ぎ倒す行為。殺人は、それを代表する立派な悪行だった。そこにどんな理由を付けようとも、その真理からは決して逃げられないのである。

 

 栄介は、目の前の男から様々な情報を聞き出した。


「それは、かなりの数ですね」


「ああ、本当に凄い数だった。俺達も、必死に抗ったけれど」


 男は悲しげな顔で、建物の天井を見上げた。天井の表面には、大量の血がこびり付いている。


「悔しい」


「え?」


「自分の無力が悔しい。俺達の無力が悔しい。人間の無力が悔しい」


 栄介は、その言葉にしばらく押し黙った。彼の心情を察したからではないが、それが何となく不快だったからである。人間が無力な事など既に分かっている事ではないか? それを今更に悔やむなんて馬鹿げている。ここの人間は魔王が攻めて来た時点で、とっくに終わっているのだ。彼等の守っていた世界も、その中で輝いていた生命も。彼等は世界の悲劇を客観視出来なかったあまり、悲劇の正確な領域をすっかり見誤っていたのである。


 栄介は、その事実に思わず苛立ってしまった。


「でも、それが現実です。人間は、非力だ。『自分ではどんなに凄い』と思っても、それには上位者が必ず居る。今回の場合なら」


「魔王、か?」


「そうです。人間は、その魔王に苦しめられている。その理由がたとえ、どんなに下らない事であっても。『苦しめられている』と言う事実からは、逃れられない。僕達は」


「君も、それに苦しめられているのか?」


 栄介は、その質問を笑った。その質問は、あまりに愚問である。


「まさか。僕は、最高に楽しんでいますよ? この腐り切った世界をね? この世界は、僕にとって最高の世界だ」


 男は、その答えに震え上がった。その答えがあまりに異常だったからである。「最低の世界」ならまだ分かるが、それを「最高の世界」と言い替えるなんて。普通の人間ならば、まず出来ない。彼は常人の「それ」とはまったく違う、不思議な感覚を持った人間であるようだった。男は「それ」に震えながらも、表面上では変わらずに、でも何処か苦しそうに、目の前の少年に情報をまた伝え始めた。


「奴らは、あっちの」


 彼がそう言って指さした先には、建物の窓が付けられている。その窓からは、外の景色が見えていた。


「方から出ていった。その先にはたぶん、奴らの町があるんだろう。町の詳しい内容は、分からないが」


「大丈夫です。それについては、大体の事を聞いているので。たぶん、迷う事はないでしょう」


「そうか。なら、良かった」


 男は「ニコッ」と笑って、自分の上着を脱ぎ始めた。その上着も言わずもがな、ボロボロである。


「コイツは、妻の仕立てた物でね。形は悪いんだが、そこがとても可愛らしい。今では、コイツが唯一の形見だ」


 栄介は、その意図を察した。彼はどうやら、その人を余程に愛していたらしい。


「良いんですか?」


「ああ、ひと思いにやってくれ」


「分かりました」


 栄介は彼の服を持って、建物の窓から「それ」を放った。服は空気の流れにしばらく漂って、それから地面の上にゆっくりと落ちて行った。栄介は服の表面から視線を逸らし、建物の窓からも離れて、男性の前にまた戻った。


「届くと良いですね、アレが奥さんにも」


「ああ」


 男は「ニコッ」と笑って、自分の胸を指差した。「腰の剣でここを突き刺せ」と言う意思表示である。


「あまり痛くしないでくれよ?」


「勿論です、任せて下さい」


 栄介は腰の鞘から剣を抜き、一瞬の躊躇いを超えて、男の胸にそれを突き刺した。その感触は、生暖かかった。相手の命を奪っているのに、何処かホッとしてしまう感覚。自分の内側で何かが生まれるような感覚。それらが剣の刀身から伝わって、栄介の精神を一気にたぎらせてしまった。


 栄介はその感覚に震えつつも、真面目な顔で男の胸から剣を引き抜いた。


「ふうっ」


 男は、その声に応えなかった。その声自体は聞こえていたようだが、床の上に折れていた時にはもう、それに応えるだけの力が無かったようである。男は虚ろな目になって、目の前の少年に微笑んだ。


「ありがとう」


 そう言った彼だったが、栄介にはどうでも良い事だったらしい。栄介は右手の剣を何度か振り、そこに付いていた血を払うと、鞘の中に剣を戻して、建物の中から出て行った。建物の外は相変わらずだったが、そこにある種の空気、「」と言う意識が混じって、町の通りはより憂鬱に、周りの建物もより陰鬱に、死者の血飛沫もより暗鬱に感じられた。栄介はそれらの感覚を覚えつつ、何処か清々しい顔でホヌス達の所に戻った。


「ただいま」


 二人の少女は、その挨拶に微笑んだ。特にホヌスは彼の表情から何かを読み取ったらしく、彼がサフェリィーと話し終えた後も、楽しげな顔でその顔をじっと眺め続けていた。


「最後の殻を破ったのね?」


 栄介は、その質問に目を見開いた。


「殻?」


「そう、殻。貴方がずっと、その胸に抱えていた良心。それを見事に貫いた」


 栄介は、その言葉に苦笑した。彼女は、やはり邪神だ。人間の快楽を一番に喜ぶ邪神。倫理の聖域を簡単に破られる神。「それに見抜かれた」とあれば、不快よりも快感の方が強かった。栄介は鞘の表面を撫でて、邪神の顔にまた視線を戻した。


「目的地の場所は、大体分かった。ここから結構掛かるかも知れないけど」


「構わない。液状生物の討伐が、私達の目的だから」


「うん」


 栄介は「ニコッ」と笑って、少女達の足を促した。


「それじゃ、行こうか? ここにはもう、用はないからね」


 少女達は、その言葉に頷いた。ここが不快な場所である以上、それを否める気持ちはまったくなかったからである。少女達はサフェリィーを真ん中にして、栄介の後をまた歩き始めた。

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