第55話 最強に抗い、免罪に立ち向かう

 それに「そうです」と返すのが(本当なら)正しいのだろうが、彼女にはそれを返すだけの余裕が無い……と言うよりも、その思考自体が浮かばなかった。王室の中で、国の案件に目を通していた所までは良い。そこから侍女に「お茶を頂戴」と言って、自分の好きなお茶を頼んだ時も、穏やかな気持ちで椅子の上に座っていた。「今日もまた、平和な一日が遅れますように」と、そう内心で思っていたのである。だが……そんな気持ちは、すぐに壊されてしまった。

 

 自分の目の前に突然現れた、謎の物体。物体には個体のような部分が無く、液体のような流動性も無く、気体のような感触も無かったが、それが物体である事には変わりないようで、彼女がその物体に思わず触れると、それに合わせて、物体の一部が切れてしまった。

 

 彼女は、その光景に目を見開いた。彼女の手が引き裂いた部分が、スッと治って行く光景にも。また、「一応の身嗜みは整えた」とは言え、その相手が「それ」をまったく咎めなかった事にも。気持ちの不安や恐怖を超えて、「なっ!」と驚かずにはいられなかったのである。

 

 彼女は呆然したまま、相手の「初めまして」にしばらく応えられなかった。


「はじ」


 め、の部分が、変に裏返ってしまった。


「まして。私は……」


 そこから続く自己紹介もまた、かなりぎこちないモノだったが……。そこは彼女の気持ちを汲んで、この文章には表さない事としよう。とにかく「自分の事を話したのだ」と分かってくれれば良い。彼女自身もまた、それ以上の事は望んでいないようだった。


 彼女は相手に自分の事を話し終えると、不安な目でその目をじっと見始めた。


 相手は、その視線に微笑んだ。その微笑みでどうやら、彼女の不安を和らげようとしたらしい。


「お気持ちは分かりますが、心配なさらないで下さい。私は、貴女の敵ではありません」


 そんな事、すぐには信じられない。そう叫ぼうとした女王だったが、この物体に対する適切な対抗手段が見つからなかったので、王室の中に侍女こそ入れたが、その侍女(彼女もまた、目の前の物体にかなり驚いたようだ)に「何かあったら、これを構わず壊しなさい」と命じるのが精一杯だった。「?」


 女王はあえて、謎の相手にそれを伝えた。それが相手に通じるかは分からないが、「一応の警告にはなる」と思ったようである。


「もしもの時は、それを使いなさい」


 口調の方も、いつもより厳しめだ。


「良いですね?」


 女王は侍女の頷きを見て、それからまた、後ろの物体に向き直った。物体の様子は変わらぬまま、その向こう側に立つ少女を映し続けている。


「貴女も」


 少女……ここはもう、「頼長亜紀」と言った方が良いだろう。頼長亜紀は「ニコッ」と笑って、その言葉に「はい」と頷いた。


「構いません。自分の無礼は、充分に分かっていますから。それでも」


「なんです?」


「お話ししなければならない事があります。貴方達が抱えている問題の正体を」


「問題の正体? それは」


 ナウルが話してくれた。ナウルは亜紀の後ろに立っていたが、「ここは、自分が話した方が良いだろう」と思ったらしく、彼女の肩に手を置き、自分の後ろに亜紀を引かせて、映像の前にサッと立った。


「俺が話す」


「ナウル、どうして?」


「それも含めて、だ」


 ナウルは、女王にこれまでの経緯を話した。自分達が国の都を出てから、この町に辿り着くまでの経緯を。任務の経過報告も含めて、彼女に一つ一つ話して行ったのである。


「コイツらと出会ったのは、本当に偶然だったが。俺はコイツらの話を、『取り敢えずは信じよう』と思う」


「なっ!」


 女王は、彼の顔をマジマジと見た。彼女の知る限り、彼は聡明な少年である。無愛想な所は確かにあるが、それも彼なりの個性、『その聡明さを引き立てる要素』と考えていた。そんな彼が、こんな話を信じるなんて。仰天以外の何ものでもない。彼女は彼の顔をしばらく見ていたが、亜紀の顔にまた視線を戻して、その顔をじっと見つめ始めた。


「貴女が余所の世界から人間、つまりは『異邦人だ』として」


「はい」


 女王は、その言葉にしばらく黙ってしまった。頭の理解が追い着かなかった事もそうだが、その理由が何より許せなかったからだ。「自分はこんなにも頑張っている、日々の暮らしにも神経を使って、魔王への対策を考えている」と言うのに。それを、「くっ!」


 女王は悔しげな顔で、両手の拳を握り締めた。


「最低、ですね」


 相手は、その言葉に応えなかった。おそらくは、その言葉に何も言い返せなかったからだろう。彼女の願いはまだマジだが、栄介の方は「本当に最低」なのだから。言い返せないのも、無理はない。ただ、「そうですね」と頷くのが精一杯だったようだ。「本当に最低です。貴女達からすれば、自分達の世界を遊び場にされたのですから。私が同じ立場でも怒ります。私達の世界は……こう言う言い方は失礼かも知れませんが、この世界よりも文明が進んでいる分、その社会体制もかなり整っているので」


 亜紀は一旦、言葉の続きを切った。


「それを壊された時の恨みも大きい。たぶん、暴動が起こるでしょう。それも至る所で」


「それは、私達の世界も同じです。魔王が現れた当初は、全員が一致団結して魔王を倒そうとしました。『自分達の世界は、自分達の手で守る』と、しかし」


「それは、叶わなかった?」


 それに対する沈黙は、悔しさの表れである。「悲痛」と「哀愁」とに溢れた憤怒である。それらの重々しい空気が、女王の涙を誘っていたのだ。女王は両目の涙を浮かべたまま、尚も亜紀の顔を見つめて、自分の感情を隠す事なく表し続けた。


「私達は、卑怯です。危ない仕事は、冒険者に任せて。肝心な軍隊は、くっ! だから本当は、貴女達の事は言えない。私もまた、安全な所から世界を眺めているだけの」


「それは、違います!」


「え?」


 亜紀はその声を無視して、女王の目を見つめ返した。


「貴女のやっている事は、私とはぜんぜん違います! 貴女は国のために、そこに生きるすべての人達のために、自分の心を磨り減らしている。それは、なかなかできる事ではありません」


「で、でも」


「なら?」


「なんです?」


?」


 女王は、その言葉に押し黙った。特に「見返り」の部分には、無意識にも驚かずにはいられなかった。言われてみれば、確かにそうかも知れない。自分は今まで、国のために働いて来た。絶望が渦巻く世界で、自分のやれる事をやって来た。それらがたとえ、無意味に終わったとしても。世界の中に少しでも希望を見つけようとしたのである。「絶望ばかりある世界は、やっぱり悲しいから」と。だから、「天秤は」

 

 その傾きは、彼女にとって唯一の希望だった。それが人間の側に傾いてさえいれば、今の世界にも希望がきっと降りて来る。これまで覆っていた世界の闇を取り払って、その隙間から明るい光を引っ張ってくれる。フカザワ・エイスケには「それ」を引っ張るだけの可能性、文字通りの救いを感じていたが、亜紀から驚愕の真実を聞かされた瞬間、その救いも何処か虚ろな存在、人間が縋ってはいけない、それこそ、悪魔のように感じてしまった。

 

 

 

 


「そんな者に頼ってしまったら?」

 

 たぶん、とんでもない事になるだろう。今は人間の皮を被っている(と思う)が、それもいつ剥がれるか分からない。ふとした瞬間に「やっぱり止めた」と言って、人間の残滓をすっかり棄ててしまったら? 人が人たる礎を壊してしまったら? そうなればもう、おしまいだ。魔王はもちろんの事、あらゆる者がすっかり葬られてしまう。「光」も無ければ、「闇」も無い世界が訪れてしまう。すべてが彼中心に回り、彼の自由意志だけが尊ばれる世界。そんな世界が訪れれば、今以上の地獄が作られるだろう。魔王すらも敵わない最強の相手が、世界のすべてを配するのだから。そこには、一切の希望がない。「それに抗おう」とする気概も起こらない。ただ、無限にも等しい闇が続くだけである。


「そんな闇は」


 そう……。


「作ってはいけない、絶対に!」


 女王は、ナウルの顔に視線を移した。


 ナウルは、その視線に頷いた。どうから、彼も同じ気持ちだったらしい。


「だからこそ、コイツらの処遇を考えるべきだ。このまま野放しにして置くか? それとも、悪魔に続く危険分子として殺してしまうか? コイツらには、悪魔と対等に戦える程の力があるらしい」


「らしい?」


 ナウルは、ヘウスの顔に視線を移した。


「コイツの話では、な。コイツは天秤の連れと同じ、邪なる神らしい」


 女王もその言葉を聞いて、彼の顔に視線を移した。


「邪なる神?」


 彼女は、その顔をじっと眺めた。


「お名前は?」


「ヘウス」


「ヘウスさん、ですか。ヘウスさんは……いや、貴方達邪神はどうして、人間の願いを叶えるのですか? それで傷付く人や世界があるかも知れないのに?」


 ヘウスはその質問にしばらく黙ったが、やがて「それは」と答え始めた。


「人間が息を吸うのと同じだ。それに良いも、悪いもない。俺達は……お前達も、生きるために自然の恩恵を頂いているだろう? 無抵抗の木々に斧を当てて、その木材を使っている。木材の悲鳴も聞かぬままに、な。俺達は、『あらゆるモノの願いを叶える点』においては、お前達が無意識に損なっている森羅万象の事象、その諸々とまったく同じなんだ。そう言う意味で」


「だとしても!」


「なんだ?」


「素直には、頷けません。私達も、ある意味では確かに加害者かも知れませんが。でも、『だから』と言って、魔王の侵略に無抵抗ではいられない。フカザワ・エイスケの欲望に付き合ってもいられない。私達は、私達の世界を取り戻さなければならないんです」


「だが」


 ヘウスは、彼女の目から少しだけ視線を逸らした。


「お前達にそれを叶えるだけの力は無い。ここに居る連中は、その中でも少しはマシなようだが。それでも、魔王を倒すには程遠い。ましてや、その魔王よりも強い悪魔を倒すなど。お前達は」


「なら!」


 女王の声が荒くなったのは、今の言葉が余程に悔しかったからだろう。彼女は普段の慎ましさを忘れて、年相応の憤怒を見せてしまった。


「『どうしろ』って言うんですか!」


 ヘウスは、その怒声に目を細めた。相手の怒りに触れないのが、彼流のなだめ方らしい。


「最善の策は」


「最善の策は?」


「魔王の戦力を削ぎつつも、彼女の願い、頼長亜紀の欲望を叶える。亜紀の欲望は、元の世界に深澤栄介を連れ戻す事だ。そいつが元に世界に戻れば、人間への脅威は完全に無くなる。魔王の始末は、その深澤栄介にやらせれば良い。それが深澤栄介の願いでもあるからな。『最強』と『免罪』の力を使って」


「免罪の力」


 女王は、その力に目を見開いた。


「そうか」


「どうした?」


「疑問の答えが分かったんです。彼の事を疑うと何故、罪悪感を抱いてしまうのか。彼には自分の悪を正当化する力、その罪から免れる力があって、大抵の人は『それ』に抗えず、それに多少は抗える人も、言いようのない罪悪感を覚えてしまう。彼の事を教えてくれた領主も、同じ事を言っていました。フカザワ・エイスケの行動に邪魔、うっ」


 女王はまた、その罪悪感に襲われてしまった。


「とんでもない力です」


「ああ。でも、俺達には通じない。邪神である俺と、俺から力を授かった亜紀には」


「な、なるほど。それじゃ、つまり」


「そうだ。察しの通り、深澤栄介の事を何とか出来るのは俺達しか居ない」


 女王はその言葉に黙って、何やら色々と考え始めた。


「ナウル」


「なんだ?」


「都に帰って来て」


 ナウルはその命令に目を細めただけだったが、残りの三人は「え?」と驚いていた。特にガタハは不満たらたららしく、女王に「冗談じゃないぜ!」と言っては、彼女の顔を思いきり睨んでいた。


「せっかくここまで来たのさ! 『何もしないで帰れ』って言うのかよ?」


「そうです。天秤の正体が分かった以上、それに手を出すのは」


「くっ!」


 ガタハは地面の上を踏み付けたが、ナウルの方はやはり冷静だった。


 ナウルは彼の怒りをなだめて、女王の顔に視線をまた戻した。


「監視の任務は、どうするんだ?」


「それも中止です」


「賢い判断だな」と言ったのは、二人の会話に割り込んで来たヘウスである。「お前達の力では、監視以前の問題だ。気づかれた時点で殺される。それがほんの目の前だろうと、あるいは、数百メートル前だろうと。深澤栄介にはおそらく、強力な索敵能力が授けられている筈だ」


 ヘウスは、女王の顔に視線を移した。


「イルバ女王」


「なんでしょう?」


「俺達にこの世界を乱す意思はない」


「それはたぶん、本当だと思いますが。それでも、危険な存在である事には変わりません」


「だったら、どうする?」


「俺達が見張る」と言ったのは、彼の隣に立ったナウルである。「コイツらはたぶん、そのフカザワ・エイスケよりは危険でない。もし、何かあっても」


 ナウルはまた、ヘウスの横顔に視線を戻した。


「不満は?」


「別に無い、わけじゃないが。それをされる利点は?」


「騎士団の影響力は、強い。おおやけの施設を使う時も、特に怪しまれずに済む」


「そうか。なら、不満は無い。亜紀は?」


「え?」


「この騎士達はに戦えるし、その力も色々な意味で役に立つ。男ばかりの集団に不満が無いなら」

 

 亜紀はその言葉に迷ったが、しばらく考えた末に「良いよ」と頷いた。


「その方が、ふうちゃんも捜しやすいから」


「分かった」


 ヘウスは、女王の目を見つめた。女王も、彼の目を見つめ返した。二人は互いのしばらく見つめ合ったが、女王の方がそれに折れてしまって、最後には「分かりました」と頷いてしまった。


 女王は、物体の向こう側をじっと見つめ続けた。


「4人は、お二人の監視を。旅の段取りは、貴方達に任せます」


 騎士団達は、その命令に「分かりました」と頷いた。

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