第53話 亜紀の魔法

 遊撃竜の事は既に知っていると思うが、亜紀にとっては未知の生物だった。虚構の世界にしか居ないであろう、凶暴かつ残忍な動物。それが自分の頭上を飛び回っている光景は、「驚き」よりも「恐怖」の方が勝っていた。あんな怪物に襲われたら、一溜まりもない。彼女の周りで様々な反応を見せている人間達も、一部の勇敢な人間達を除いては、今の場所から急いで逃げ出したり、我が子の身体を守るように抱き締めたり、泣きじゃくる子どもを必死にあやしたりしていた。


 ヘウスと話していた行商人も、周りの人間達程ではなかったが、一応の不安を見せて、持てるだけの名品、片付けられるだけの珍品を持っては、目の前の二人に「こんな所でくたばっちゃだめですぜ?」と言って、人々の間にすぐさま溶け込んで行った。行商人は未だに動こうとしない二人の方を何度か振り返り、二人の一方(おそらくは、ヘウスだろう)が僅かに動いた所を見て、自分の正面にまた向き直った。

 

 ヘウスは、亜紀の方に視線を移した。


「戦えるか?」


 亜紀は、その質問に目を見開いた。彼の言葉は分かっても、その意図がまったく分からなかったからである。


「戦えるって、私が?」


「そうだ。奴が俺達に狙いを定めた以上、そこから逃げるのはおそらく難しい。襲って来るのも、時間の問題だ」


 亜紀はその言葉に震えるあまり、地面の上にしゃがんでしまった。


「い、いや」


 無理だよ! と、彼女は言った。


「あんな怪物と戦うなんて、私」


「ここで逃げても、また次の敵が襲って来る。『お前が異世界で深澤栄介を捜す』と言う事は、『こう言う敵とも戦わなければならない』と言う事だ。元の世界で人捜しするのとは、違う。お前は現代社会の恩恵がほとんど受けられないこの世界で、自分の愛する人間を捜さなければならないんだ」


 亜紀は、その言葉に押し黙った。その言葉に「いや」と返そうとしても、それが喉の奥に詰まった所為で、最初の一言すら真面まともに言えない。ただ「う、ううう」と俯いては、両手の拳をきつく握るだけだった。両手の拳から力を抜き、右手で自分の涙を拭った動きからも、彼女の葛藤がひしひしと伝わって来る。

 

 彼女はその葛藤にしばらく苦しんだが、遊撃竜が町の人々に炎を吹き掛けようとする場面を見ると、その葛藤を僅かに忘れて、背中の杖を思わず掴んでしまった。


「そ、そうだ」


 脅えてなんかいられない。自分には、絶対に叶えたい願いがあるのだ。その願いを叶えるためだったら、どんな困難も乗り越えなければならない。あらゆる恐怖に打ち勝たなければならない。自分が自分の人生を捨て、それに関わる諸々と別れた以上は、こんなことにイチイチ脅えてはいられないのである。


 亜紀は自分の杖を持って、未知なる怪物に挑み掛かろうとした。……だが、「それ」をするのは、何も彼女だけではない。素人の彼女ですら、そうしようとするなら? 特殊騎士である彼らは、それ以上の意思を見せるだろう。彼女のように「う、ううう」と脅えたりはしない。怪物の咆哮に怯んで、「うわっ」と逃げ出したりもしない。彼らは、文字通りの特殊騎士なのだ。特殊騎士に最も必要な資質は、何事にも動じない精神力である。


 特殊騎士達は各々の鞘から剣を引き抜き、真面目な顔で上空の敵を見上げた。


「ったくよぉ、『たまには風呂も良いかな?』と思ったら」


 ガタハは、右手の剣をぶんぶんと振り回した。どうやら、かなりご不満なようだ。彼の乗っている馬はもちろん、その服もほとんど汚れていなかったが、水浴びだけの生活はやはり嫌だったらしく、ナウルに「うるさい」と言われるまで、自分の剣を無造作に踊らせていた。


 彼は、頭目の注意にムスッとした。


「ちゃぇ、なんだよ? お前だって、同じような事を言っていたじゃねぇか?」


 ナウルは馬の上に乗ったまま、無愛想な顔でその言葉に眉を寄せた。


「確かに言ったが、今はそんな事を言っている場合じゃない。俺達の敵は、すぐ目の前に居るんだ」


「そうです」と応えたのは、ナウルの左側に居たスールである。「今は、アイツを倒さないと。町にも被害が出るばかりです。見た所、遊撃竜に抗える冒険者も居ないようですし」


 スールは馬の上から降りて、上空の遊撃竜にまた視線を戻した。そのやや後ろについていたヘウセも、スール程に落ち着いてはいなかったが、立派な特殊騎士の一人らしく、彼に倣いながら上空の遊撃竜を見上げ始めた。二人は無言で、遊撃竜の動きをじっと見続けた。


 遊撃竜は少年達の動きをしばらく見下ろしていたが、その危険性を本能的に感じ取ると、凄まじい鳴き声を上げて、地面の方に勢いよく降りて行った。


 少年達は、その攻撃を巧みに躱した。ナウルは馬の上にやはり乗ったまま、ガタハは馬の上から降りた上で、その馬を素早く逃がしたが、元から降りているスールやヘウセ達は、ガハタよりも先んじて自分の馬を安全な場所に逃がすと、遊撃竜の攻撃に備えて、それぞれが攻めやすい場所まで移った。

 

 四人は、遊撃竜の四方を囲んだ。少数(あるいは、単数)の敵を倒す時は、包囲殲滅が最も効果的だからである。彼らは自分の得意とする魔法、ナウルは「風」、スールは「水」、ガタハは「火」、ヘウセは「土」を使い、その特性を上手に組み合わせて、遊撃竜の身体に与える痛みを最大まで引き上げた。

 

 遊撃竜は、その痛みに悶えた。最初に受けた火はそれ程でもなかったが、そこに風が加わった事で、火が刃のように鋭くなったからだ。それの後に追い掛けて来た水も、風の圧力も相まって、激流のような勢いになっている。それこそ、遊撃竜が「ぐぉ!」と怯んでしまう程に。すべてが勢いに溢れ、また、相乗効果の理に則っていた。最後の仕上げに襲い掛かった土も、地上の重力を味方につけて、その威力を何倍にも引き上げている感じだった。

 

 遊撃竜は土の重みに耐えられず、「ぐぉー! ぐぉー」と苦しむ中で、地面の上に勢いよく落ちてしまった。

 

 少年達は、その隙を決して見逃さなかった。馬の上に乗っていたナウルですら、今はその上から降りて、遊撃竜の方にサッと駆け出している。彼らは様々な方向から遊撃竜の頭、横腹、前足、後ろ足に剣を突き刺したり、斬り付けたり、振り落としたり、振り上げたりした。その光景は、文字通りのだった。男子達が楽しげにやっているゲームとはまるで違う、正真正銘の。遊撃竜の悲鳴すら聞き流す、容赦なしのに他ならなかった。


 亜紀は、その光景に胸を痛めた。あの怪物が悪い、「人間にとっては(おそらく)害獣だ」と分かっていても。その泣き叫ぶ声が、苦しげに悶える悲鳴が、彼女の「人間」を激しく揺さぶって、どうしても見ている事ができなかったのだ。最初は「あの怪物を倒さなきゃ」と思っていた気持ちも、今では一種の哀れみ、人間と怪物の戦いが生み出す、ある種の悲劇としか思えなくなっていた。


 こんな事を続けていたら、いつまで経っても平和にはならない。


?」

 

 命と命が激しくぶつかる世界に。その根幹が、こうも簡単に損なわれる世界に。彼は現代社会の安全性を捨ててまで、この危険極まりない世界に行きたかったのだろうか?

 

 亜紀は初めて感じる感情、幼馴染への憤りを感じてしまった。


「う、うう」


 ヘウスは、その声に眉を寄せた。どうやら、彼女の心を読み取ったらしい。


「お前の気持ちは、分かる。だが、絶対に同情はするなよ?」


 亜紀は、その言葉に目を見開いた。


「え?」


「倒す方にも、そして、倒される方にも。善なんて物は、一種の鏡だ。鏡の前に置く物体は変わらなくても、その鏡には反対の、見掛けの同じ正反対が写る。あそこで特殊部隊に刺されている怪物は、その立場こそ変われば、あらゆる事物を焼き払う悪そのモノになるんだ」


「『だから、同情しちゃいけない』って?」


「ああ、そうだ。同情してはいけない。それは、命の対する冒涜だからな。命は、常に中立でなければならない。その宿主が何者であれ、一定の敬意を払わなければならないんだ。多くの人間は、その理を忘れている。『勧善懲悪』の魔力に魅せられて」


「それでも、そうだとしても! やっぱり……悪い事は、悪い事だよ」


 ヘウスは、その言葉にしばらく何も応えなかった。


「だが…お前は、『それ』を求めた」


「え?」


「深澤栄介の中にあった物、内なる悪魔に『それ』を求めていた」


 今度は、亜紀が押し黙った。……そうだ。自分はそれを、幼馴染の中にあった内なる悪魔を求めていた。その悪魔が、自分にとっての救いだった。どんな優しさにも勝る、唯一無比の希望だった。自分が生きるための活力だった。


「私は、『それ』を取り戻しに来たんだ!」


 亜紀はまた、遊撃竜の方に視線を戻した。今度の顔は、冷静だった。心の奥から恐怖が消えたわけではなかったけれど。少なくても今は、目の前の光景を落ち着いて、その現実を受け入れる事ができた。あの行為は、善でも悪でもない。人間が自分を守るため、怪物が人間を襲うため、そうするためにやっている、ただの行為でしかない。生き物が息を吸うのと同じだ。自分の肺に空気を入れる、文字通りの生存行動。その行動を否めるのは……。


「私には、できない」


「そうだ。それは、誰にもできない。お前はもちろん、深澤栄介にも。生きとし生ける物すべてが、その鎖に繋がれているんだ」


 ヘウスは、彼女の肩に手を置いた。たぶん、「行け」と言う事なのだろう。彼自体は何も言わなかったが、彼女の目をじっと見る視線からは、その言葉がひしひしと伝わって来た。彼は亜紀の肩から手を退いて、視線の先にいる遊撃竜を指差した。


「まずは、自分の前に盾を出せ」


 亜紀は、その言葉に従った。


「うん」


「次は、その盾から魔法を放す。魔法は、盾の表面から光線を出すイメージだ」


 その言葉にも、従った。


「分かった」


 亜紀は頭の中で想像を膨らませ、盾の表面から光線を放った。光線は、まっすぐに進んで行った。空気の摩擦を物ともせず、光の法則すらも無視するような勢いで、怪物の身体にどんどん進んで行ったのである。


 亜紀は、怪物の身体を痛め付けている少年達に叫んだ。


「危ないから、避けて下さい!」


 少年達は、その声にハッとした。特にヘウセは、「まだ逃げていない人がいたの!」と驚いて、彼女の魔法が近づいているのも関わらず、「なにやっているんだ!」と叫んだガタハに自分の手を引っ張られるまで、彼女の身を必死に案じ続けていた。「こんな所に居ちゃいけない! 早く逃げないと」


 ヘウセは、地面の上に倒された。ガタハが後ろから彼の両腕を押さえて、地面の上に倒してしまったからである。


「くっ、うっ」


 ガタハはその声を無視して、地面の上から立ち上がった。仲間の体重から逃げたかった意味もあるが、今の光がどうしても気になってしまったらしい。彼は胸の動悸を何とか抑えつつも、ナウルやスール達がそうしていたように、不安な顔で怪物の身体に視線を戻した。


 怪物の身体は、綺麗さっぱり消え去っていた。その燃えカスらしき物は残っていても、それ以外の物はまったく残っていなかったのである。

 

 ガタハは、その光景に汗を浮かべた。それと合わせてナウルも目を細めたが、その原因を作った存在、遠くで杖を構えている少女の姿に気づくと、自分の右手に剣を握った状態で、それが立っている方にゆっくりと歩き出した。

 

 ナウルは、相手への警戒心を解かずに歩き続けた。

 

 亜紀は、その接近に戸惑った。相手の年齢が自分と同じくらいに見えたのはもちろん、その相手が無表情で自分の所に歩み寄って来る光景も、「ヘウスが自分の前に立ってくれたから」と言って、やはり怖がらずにはいられなかったからである。だから、相手に「あ、あの?」と言った時も、その顔が思う以上に強張ってしまった。


「い、今の魔法は」


「今の光は、魔法だったのか?」


 ナウルは亜紀の顔をしばらく見、それから彼女の着ている服を眺め始めた。


「魔術師」


「え?」


「その格好から推し測ると、お前は」


 ヘウスは、その続きを遮った。


「魔術師だから、『何だ』と言うんだ?」


 ナウルはその声を聞いて、ヘウスの顔に視線を移した。


「別に。ただ」


「なんだ?」


「『只者じゃない』と思っただけだ。たった一発の魔法で、遊撃竜を倒してしまうなんて。普通の冒険者では、有り得ない。お前達は、Aの冒険者か? 冒険者の最上位にあたる」


「いや、俺達は冒険者じゃない」


「なに?」


 ナウルは、ヘウスと亜紀の顔を交互に見た。『あんなに強い魔力を持った者が、『冒険者ではない』と言うのなら、こいつは一体何者だろう?」と。彼は訝しげな顔で、亜紀の顔にまた視線を戻した。


「だったら、お前達は?」


「私達はその、人を捜しているんです」


「人を捜している?」


「はい。私の世界から居なくなった人を、この世界に行ってしまった人を。私は彼……を借りて、その人を捜しに来たんです」


 ナウルは、その言葉に震えた。特に邪神、「神」の部分にはどうしても震えてしまうらしく、そこに女王から聞いた話が組み合わせって、一つの推測らしきモノが見えてしまったのだ。


「そいつの名前は?」


「『深澤フカザワ栄介エイスケ』と言います」

 

 ナウルは、その名前に絶句した。その名前は彼が仲間と共に都から発つ時、女王陛下から聞かされていた名前とである。

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