第50話 欲を助ける者

 亜紀は、自分の家に帰った。町の空がすっかり暗くなっていた事もあったが、目の前に置かれた鞄をぼうっと眺めていると、何だか無性に疲れてしまって、それを拾い上げた時にはもう、自分の背中に鞄を背負い直して、今の場所から静かに歩き出していた。それからどう言う風に帰ったのか、家の母親にも「ただいま」と言ったのか、自分の部屋に着くとすぐ、床の上に鞄を放り投げ、ベッドの上にサッと寝そべって、部屋の天井を見上げた彼女には、まったく以て分からない。ただ自分の心臓、それの高鳴りが何度も、何度も耳を打ち付けているだけだった。

 

 彼女は自分の胸に手を置きつつ、複雑な顔で部屋の天井を見つめ続けた。


「私は」


 一体、どうすれば良いのだろう? 少年の事はまだ完全には信じられないし、仮に信じられたとしても、今の自分が消えてしまう事、自分の存在が無かった事( になるかもしれない)になってしまうのは、何とも言えない怖さがあった。栄介の事は、確かに取り戻したい。取り戻したいし、その首にもまた鎖を繋ぎ直したい。栄介は自分が好きになった、ただひとりの少年なのだ。彼の居ない世界は、それこそ死んでいる世界に等しい。


「でも」


 それでも、この葛藤は無くならない。依存の本能は彼を求めているのに、生存の本能が彼を拒んでいる。「今の生活を変えたくない」と思っているのだ。今の生活はお世辞にも良いモノではないが、「だから」と言って、衣食住に困っているわけでもなく、また、(男子を除く)学校での人間関係にも困っていない。多くの女子は(その内心は分からないが)、表面上は栄介が消える前と変わらないように見えるし、その態度もまた同じように見えていた。「彼女のオコボレを頂戴する」と言う点では、前よりも狡賢くはなっているけれど。それですら、今の彼女には許せる行為、充分に許容範囲だった。彼女達に自分のオコボレを与えている限りは、彼女達は自分には決して牙を向けない。時々、嫌みったらしい言葉は使って来るけれど。それも、充分に耐えられる内容である。


「はぁ……」


 亜紀はベッドの上で、苦しむように丸まった。


「すべてを捨てる覚悟、か」


 今の生活はおろか、その恩恵すらも捨て去る覚悟。そんな覚悟が、今の自分にあるのだろうか? たった14年しか生きていない自分に。心の奥では、普通の人生を求めている自分に。自分は栄介の悪こそ求めているものの、そこから生じる特別な人生を求めているわけではないのだ。彼にたとえ嫌われていたとしても、その体温を感じられる距離に居られればそれで良い。自分が求めるたったひとつの物は、彼と過ごす穏やかな人生だけなのだ。


「でも……」


 このままでは、その夢も叶わない。彼が居ない現実の中で、ただ悶々とした日々を過ごすしかないのだ。それがある意味では、最も幸運だとしても。多くの人に囲まれる中で、孤独な人生を生きつづけなければならないのである。そんなのは、絶対に嫌だ。誰かが決めた幸せの中で生きるなんて、死んでも御免である。自分は、崇拝の対象ではない。周りの人々が勝手に創り上げた、「頼長亜紀」と言う偶像ではないのだ。部屋の明りが煌々と光っているように、窓の外から様々な音が聞こえて来るように。自分もまた、その独立性を持った人間なのだ。周りの期待や、誰かの欲望のために生きているのではない。


「私は私、たったひとりの頼長亜紀なんだ」


 亜紀はそう自分に言い聞かせるも、その自信がやはり持てないらしく、先程はぼんやり聞こえた母親の「ごはん、出来たわよ?」に応えて、ベッドの上に起き上がり、普段なら既に着替えている筈の制服を着替えないまま、部屋の中から出て、家のダイニングに向かった。ダイニングの中では、母親がテーブルの上に夕食を運んでいた。彼女はテーブルの前に行き、自分の椅子を引いて、その上に座った。彼女の父親が帰って来たのは、それから十数分後の事。亜紀がダイニングのテレビを眺めて、その画面が午後六時二十八分を示した時だった。


 亜紀は、背広姿のままで「ただいま」と言って来た父親に「お帰り」と返した。


 父親は彼女の隣に座って、今夜の夕食を眺めた。今夜の夕食は、小洒落た感じのパエリアだった。


「おう、良いねぇ」


 妻は、その言葉に喜んだ。


「偶には、良いでしょう?」


 彼女は自分の椅子に座り、改めて自分の作った夕食を眺めた。


 亜紀は、その表情に暗くなった。その表情が嫌だったわけではないが、今の自分と照らし合わせると、それがどうしても憎たらしく、苛々せずにはいられなかったからである。父親が「んじゃ、頂きますか?」と言い、母親がそれに「ええ」と応えた時も、口では二人に合わせて「頂きます」と言っていたが、内心では「こんな物は、食べたくない。今は、一人にして欲しい」と思っていた。


 亜紀は自分の皿に程良い量を乗せて、それを黙々と食べ始めた。彼女の両親もそれに続いて食べ始めたが、ある程度食べ続けた所で、娘の表情が沈んでいる事に気づいたらしく、最初はその顔を眺めていただけだったものの、父親が彼女に「どうしたんだ?」と訊いた事で、母親の方も不安げに「何処か具合でも悪いの?」と訊き始めた。


?」

 

 亜紀は、その質問に凍り付いた。質問自体はあさっての方を向いていたが、それが胸の隙間を思いきり殴って来たからである。「嫌な事でもあったの?」なんて、そんな事訊かないでよ!


 彼女は心の動揺を必死に抑えて、両親には栄介お得意の作り笑いを浮かべた。


「な、何もないよ」


 ただ……、の一言が言えなかった。それを言ったら、自分の本心を曝け出す事になる。自分の両親には、自分の本心を極力知られたくない。


「本当に何もない」


「そう」と応える母親だったが、その顔にはまだ不安が残っていた。「なら、良いんだけど」


 母親は娘の顔をしばらく眺めて、自分の皿にまた視線を戻した。


 亜紀は、その様子にホッとした。自分の両親に余計な心配を抱かせるのは、どう考えても得策ではない。最悪は、今までの嘘が明らかになってしまう。周りの人々を騙し続けていた嘘が、自分の心を偽り続けていた嘘が、それによって守られていた立場が、一瞬の内に崩れ落ちてしまうのだ。


 それだけは、何があっても避けたい。周りの人々から「聖女」と呼ばれている(あるいは、思われている)彼女だったが、そこは生身の人間らしく、彼女にもまた、打算的な部分があったのだ。「自分に不利益が生じる事、若しくは、生じそうな事は出来るだけ避けたい」と、作り笑いの中に「それ」を偲ばせているのである。

 

 亜紀は何事もなかったように笑い、今日の夕食を何事もなかったように食べ終え、少しの食休みを挟んで、家の一番風呂に入り、そこの湯船に浸かって、お湯の温かさにややぼうっとしつつ、不満げな顔で浴室の天井を見上げた。浴室の天井には、いくつもの水滴が出来ている。それがお湯の水面や、彼女の頬に当たって、浴室の中に穏やかな空気を作っていた。

 

 亜紀は、その空気にどうしても苛々してしまった。その空気が、今の気持ちとあまりに離れていたから。今の気持ちを何故か逆撫でいたからだ。自分の頬に落ちる水滴自体は無言でも、それが言葉にならない罵倒を浴びせて、彼女の心にチクチクと刺さっていたからである。


「うるさい」


 彼女は、湯船の水面を叩いた。


「うるさい! うるさい! うるさい!」


 彼女は、湯船の水面を何度も叩き続けた。それで自分の顔が濡れても気にしない。それどころか寧ろ、濡れれば濡れる程、水面を叩く力が強くなった。「バシャン! バシャン!」と飛び散る水の音も激しくなった。


 彼女は自分の気持ちが落ち着くまで、浴槽のお湯を苦しめ続けた。……彼女の手が止まったのは、彼女の中に冷静さが戻って来た時だった。こんな事を続けても、栄介は決して戻って来ない。戻って来ない人に苛々しても仕方ないのだ。



 彼女は何度か深呼吸して、湯船の中から勢いよく出た。湯船の外も、温かかった。浴室の蒸気が程良く温められていた所為で、その中から出た後はもちろん、バスタオルで身体の水分を上から順にゆっくりと拭き取った時も、それ以外の感覚はほとんど覚えなかった。洗面所の鏡を見ながら、愛用のドライヤーで髪を乾かす時も、同じような感覚をずっと覚えていた。


「私は、ふうちゃんにもう一度会いたい」


 それが自分の答え、揺るぎない真実である。


「だから」


 そのためには……。


「たぶん」


 彼女は、ある決意を固めた。決して揺るがない決意を、そして、それが許されるための覚悟を。大好きな桃色のパジャマに着替えた後で、その覚悟に瞳を揺らしたのである。彼女は普段なら決して怠けない自主勉強をやらずに、そのままベッドの中に入って、自然な睡眠欲に身を任せた。それが覚めたのは当然、翌朝の事。彼女がいつも起きている午前六時五十分の事だ。


 彼女は制服の上着に腕を通すと、鞄の中に使えそうな物をぶち込んで、部屋の中から勢いよく出て行った。部屋の外はそれなりに五月蠅かったが、胸の高鳴りに心が向いていた彼女には、ダイニングの扉を開ける音はもちろん、その中で朝食を作っていた母親や、自分に「おはよう」と笑い掛けて来た父の声も、何処かはっきりとしない雑音のように感じられた。両親の挨拶に「おはよう」と返す声も、妙によそよろしく思えた。


 亜紀は昨日と同じ場所に座り、昨日と同じ調子で今日の朝食を食べ終えると、椅子の上から静かに立ち上がって、最初は真向かいの母、続いてその隣に座る父をじっと見始めた。


 二人は、彼女の視線に戸惑った。


「ど、どうしたんだ? 亜紀」


 亜紀は、父親の声を無視した。


「お父さん、お母さん」


「なに?」と応えたのは、父親よりも母親の方が速かった。「どうしたの?」


 母親は不安な顔で、娘の目を見返した。


 亜紀は、母親の視線に微笑んだ。


?」

 

 母親は、その質問にも驚いた。父親も、同じように「え?」と驚いた。二人は娘の顔をしばらく見続けたが、やがて示し合わせたように「クスッ」と笑い出した。


「それは、当然じゃない?」


?」


 亜紀は、その答えに喜んだ。これで、一つ目の覚悟が終わったからである。


「そう」


 彼女は「ニコッ」と笑って、二人の顔から視線を逸らした。


「ありがとう」


 彼女の両親は、その言葉に微笑んだ。どうやら、彼女の意図には気づかなかったらしい。二人は娘がダイニングの中から出て行った後も、穏やかな顔で「変な事を訊くな?」と笑い合っては、一方は食べかけだったご飯を、もう一方は飲みかけだった味噌汁をまた飲み始めた。


 亜紀は洗面所で自分の歯を磨き、前髪の乱れを少し直すと、家の玄関に行って、そこからダイニングの二人に「行って来ます」と言い、玄関の外に出て行った。玄関の外には、いつもの風景が広がっている。そこを歩いている人々も、その車道を走っている車も、それぞれに僅かな違いこそあるが、やっている事は昨日と大体同じ、各々の学校や職場などに向かっていた。その中に混じった亜紀も、歩く速さは変えぬままに自分の学校まで行き、学校のクラスメイト達に「おはよう」と言いつつ、普段と変わりない態度を装っては、会話と会話の微妙な隙間、相手の本心がちょっとだけ見える瞬間を見つけて、自分への印象をそれとなく訊いて回った。


 亜紀は、それらの答えに肩を落とした。自分への印象は様々だったが、その根幹的な答えがほぼ同じだったからだ「頼長亜紀は、誰からも愛されている聖女である」と、全員が口を揃えて言ったからである。これにはもう、ガッカリせざるを得ない。自分はやはり、彼らの偶像でしかないようだった。思春期の少年少女が憧れる、「美少女」と言う名の偶像。


 亜紀はその事実から、残りの覚悟をすっかり埋め終えた。これでもう、心残りは無い。。誰からも愛されていないのなら、こんな世界に漂っている理由も無い。自分が居るべき世界は、自分が愛する人の居る世界なのだ。


「うん!」


 彼女は口元の笑みを消して、周りのクラスメイト達に尤もらしい嘘を付いた。「体調が悪くなった」と言う嘘を。それを聞いた周りがすっかり騙され、担任の先生や、保健室の養護教諭すら「今日はもう、早退しなさい」と言ってしまうような嘘を。彼女は自分でも驚く程の演技力を見せて、周りの皆が自分を不安げに見つめている中、彼らに「大丈夫」と言って、校舎の中から素早く出て行った。


 ……それから彼女が何処に行ったのかは、察しがすぐに付くだろう。彼女は生まれてはじめての感覚、常識から来る罪悪感と、それすら勝る開放感を味わいながら、社会の目を上手く掻い潜って、例の廃墟へと向かった。廃墟の中では、少年が約束通りに待っていた。あの時と同じ服を、あの時と同じ清潔感を保ったまま、廃墟の壁に寄り掛って、彼女が来るのをじっと待っていたのである。


 亜紀は、その姿に胸が高鳴った。


 少年はその視線を無視して、壁の前から静かに離れた。


「心は、整ったのか?」


「うん。私は、ふうちゃんと同じ所に行く」


「そうか」


 少年は彼女の前に歩み寄り、その頭上にある空間を何度か撫でて、彼女の顔にまた視線を戻した。


「深澤栄介が行ったのは、。こことは、異なる世界だ。その世界では、普通の人間はまず生き残れない。だから、


「魔術師に変えた? 私を?」


「ああ、遠い世界にある魔法界。そこの大国に住む魔術師達とほとんど同じ。お前には、魔術の力を与えた」

 

 自分の前に盾を造ってみろ、と、少年は言った。


「目の前に盾を形作るイメージだ」


 亜紀はその言葉に従って、自分の目の前に盾を思い描いてみた。その結果は……「うわっ!」の声を聞いても分かるように成功。彼女の前には盾が、半透明の美しい盾が現れた。盾の表面には、魔方陣のような紋章も描かれている。


「これが、私の、魔術」


「ああ。深澤栄介の槍を防げる、唯一の盾だ。深澤栄介は俺の同族から与えられた武器、『三叉槍』と言う槍を使って、異世界の強敵達を次々と倒しているらしい」


「そう、なんだ」


 亜紀は、少年の方に視線を戻した。


「なら」


「ん?」


「私なら、ふうちゃんの事を止められるかも知れないね?」


「そのために力を与えた」


 少年は、廃墟の壁に通り道を作った。底の無い沼を思わせる、門の通路を。


「ここを通れば、異世界に行ける。お前に関する諸々の事は」


「消して、くれるんだよね?」


「その方が、お前も都合が良いだろう?」


 亜紀は、その質問に躊躇わず頷いた。


「うん、とても良い。これ以上に無いくらい」


 少年はその声には応えず、通路の中に向かって歩き出した。


 亜紀は、その背中を呼び止めた。


「待って」


「なんだ?」


「あなたの名前、まだ聞いていない」


 少年は、その声に振り返った。


「ヘウス。名前の意味は、『欲を助ける者』」

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