第49話 運命への葛藤
亜紀は彼の目をしばらく見続けたが、先程の言葉を「ハッ」と思い出して、その目から視線を思わず逸らしてしまった。彼は人間の欲望を愛する邪神、らしい。その見掛けや年齢は栄介とほとんど変わらなくても、彼が見抜いた自分の心、その内容は間違いなく真実だった。
自分は、栄介の悪を確かに愛している。それを心の支えにしている。周りの人達から知られている自分は(自分で言うのも何だが)確かに聖女かも知れないが、それはあくまで仮の姿であり、本当は誰よりも悪を欲している、あらゆる快楽を求めている、文字通りの魔女だった。魔女は悪魔と並び立つ者、その首に鎖を繋げる存在。
亜紀は栄介の首に鎖を繋げる事で、彼が内に隠している悪魔、禍禍しき存在を独り占めしていた。幼い頃、彼の悪魔を見抜いてからずっと。彼女は自分の力を最大限に活かしつつ、彼に言い寄ろうとする(彼自体は無自覚だったが、彼は異性から結構好かれていたらしい)有象無象を追い払っては、自分だけの救済地を作っていた。
自分は、その周りから「良い子」と思われなければならない。中流階級の上部、上流階級の下流あたりに生まれてしまった彼女は、「名家」と呼ばれる家よりは緩やかであるものの、普通よりは幾分厳しい躾を受けて来た所為で、通常なら許される筈の悪、「これくらいなら大丈夫だろう」と思われる遊びが許されず、常に良い子を演じ続けていた。そうしなければ、誰も自分を愛してくれない。「頼長亜紀」を「頼長亜紀」として認めてくれない。頼長亜紀は、誰からも好かれる人間でなければならないのだ。
亜紀はその押し付けが、苦しくて堪らなかった。自分は「善」と「悪」とを併せ持つ、普通の人間なのに。その悪を力一杯に踏み付けて、一方の善だけを引き下げようとする。自分達が勝手に創り上げた偶像、それに彼女を重ね合わせようとしたのだ。「彼女のような美少女は、聖女のように崇められなければならない」と、綺麗に切り抜いた雛形を作って、そこに彼女を当てはめようとしたのである。亜紀ちゃんは、とても可愛い女の子なんだから。彼らは彼女の事を蝶よ花よと可愛がり、自分達が求める理想の偶像を崇め続けた。
亜紀は、その空気に押し潰された。大人達の傲慢に、子供達の身勝手さに、心をズタボロにされてしまった。本来あった彼女をバラバラにされて……だから、栄介の存在は救いだった。彼だけは、自分の事を嫌ってくれたから。二人で帰った学校の帰り道、不機嫌な顔で自分の隣を歩いてくれたから。いつもの分かれ道で、「じゃあね、アキちゃん」と素っ気なく別れてくれたから。彼は自分の求めているモノ、「嫌悪」を与えてくれる唯一の存在だった。
亜紀は、その嫌悪がとても嬉しかった。普通の人間にとっては「苦しい」と思うそれも、彼女にとっては文字通りの喜びだった。嫌悪は、認識の一部。その対象が「そこに居る」という、立派な客観的事実だった。客観的な事実が無ければ、人間はそこに居られない。あるいはたとえ居られたとしても、それは虚ろな存在になってしまう。夕暮れのスクランブル交差点を歩く、無数の影になってしまう。その存在は感じられるのに、相手の意識には決して止まらない人間。栄介は自分を嫌悪の対象にする事で、自分が決して虚ろな人間ではない、ある人には「好意」を、またある人には「嫌悪」を抱かれる、普通の人間である事を認めてくれていたのだ。
亜紀は、その意識が無性に嬉しかった。彼だけは、自分の事を嫌ってくれる。それはしかも、この先も決して変わる事はないだろう。彼女が今の中学に上がった頃、栄介の手をふと握ろうとした時、栄介が明らかに嫌そうな顔を見せたのは、それを物語る確かな証拠だった。彼の悪魔を縛り続ければ、その隣に立ちさえ続ければ、彼はいつまでも自分の心を満たしてくれる。年頃の少女がすべてそうだとは言えないだろうが、彼を理想の相手にして、自分を慰めた事も何度もあった。
でも、やはり何処か満たされない。自分の手は何処までも自分の手で、自分の指は何処までも自分の指だ。彼の代りには決して、成り得ない。
自分には、その覚悟が出来ている。それで、最悪の事態が起きてしまっても。彼には、何の責任も負わせない。いや、責任自体を作らない。世の中には変な人が大勢居るから、そこら辺の変質者に責任を押し付ければ良いのだ。「気持ちの悪いおじさんに襲われた」とか言って、責任の所在を有耶無耶にすれば良いのである。……なのに。そこまで思っていたのに、彼は自分の前から居なくなってしまった。まるで世界の繋がりを断ち切ったかのように、あらゆる人の記憶から綺麗さっぱり消えてしまったのである。自分以外の記憶だけを残して……。
「それは」
少年は、亜紀の思考を遮った。何を思ったのかは知らないが、彼女の表情に不快感を覚えたらしい。
「
「私への」
復讐? と、亜紀は言った。
「なんの」
少年は、その言葉に目を細めた。
「自分の事を縛って来た。深澤栄介を実際に見たわけではないが、お前の記憶から察する限り、その動機から来た復讐は充分に考えられる。
亜紀は、その言葉に凍り付いた。彼が自分の記憶(と言うか、思考)を読んだ事はもちろん、栄介の諸々をすっかり推し測ってしまった事にも、完全に脅え切ってしまったのである。彼女は身体の震えを何とか抑えつつも、頭の中で武器になりそうな物を探しては、彼から逃げる際の防具として、「それをどうにか使えないか?」と考え続けた。
少年はまた、目の前の少女に目を細めた。
「そんな物は、俺には通じない」
「え?」
「人間の道具程度では、この俺は倒せない」
「なっ!」
そんなわけがない! そう刹那に思った亜紀は、根拠のない確信を抱いていた。「目の前の少年がどんなに異常だって、堅い物をぶつければ、それなりの痛みはあるだろう」と。実際、彼に自分の鞄を思いきりぶつけた時は、高ぶる気持ちを抑えられないでいた。
「どうだ!」
亜紀は普段の自分をすっかり忘れて、まるで栄介のように「フフフ」と笑っていた。だが……相手はやはり、普通の人間ではないらしい。鞄は確かに当たったが、鞄が当たった筈の場所は無傷同然、その顔にも打撲跡はおろか、擦り傷一つ付いていなかった。地面の上に落ちた鞄を拾い上げる時も、ステンレス製のキーホルダーに目をやりはしたが、その角が僅かに尖っているのを確かめた事以外、まったくの無反応だった。
亜紀は、その光景に唯々震え上がった。
少年は、彼女の方に視線を戻した。
「荷物の入った鞄は危ない。当たり方によっては、身体の骨が折れる事もある」
「う、ううう」
ごめんなさい、と謝るべきか? 亜紀には、その判断が出来なかった。
「それなら、そう言う事をやらせなきゃ良いんだよ! 相手の警戒心を煽るなんて」
「別に煽ってはいない。お前が勝手に脅えているだけだ」
亜紀は、その言葉に苛立った。初対面の相手をそんなに嫌う事はないが、彼の場合は例外だ。それも、例外中の例外。文字通りの大例外である。彼は(実際にあるのかは分からないが)その不可思議な力を使って、相手の思考を読み、記憶を辿り、感情を察し、そこから「最も使える」と思う言葉、効果的な文句を使って、相手の心を不安にさせてしまうのだ。
「くっ、うっ」
亜紀は地面の鞄に目をやり、そしてまた、目の前の少年に視線を戻した。目の前の少年は、無表情のままである。自分がその顔を睨み付けても、まったく睨み返そうとしない。感情の読めない表情でただ、彼女の目をじっと見つめ返しているだけだった。
亜紀は、その場から走り出そうとした。学校の鞄は諦めるとして、そこからすぐに逃げようとしたからである。彼女は彼の顔から視線を逸らし、その場からサッと走り出した。……そんな彼女の足が止まったのは、走り出してから数秒後の事。後ろの彼から「深澤栄介に会いたくないか?」と呼び止められた時だった。
亜紀はその声に立ち止まり、彼の方にまた振り返った。
「え?」
少年は彼女の声を無視して、その前にそっと歩み寄った。
「俺には、それを叶える力がある」
「それを叶える、力」
亜紀は、その場にしばらく動けなかった。今の言葉に「心が揺るがなかった」と言えば、嘘になる。彼にまた会える手段があるのなら、その手段を是非とも使いたい。その手段を使って、彼の首にまた鎖を繋げたい。もう二度と、自分の手から離れないように。彼の分身を受け入れて、その本体を今度こそ掴み続けたかった。でも、それには様々な問題がある。例えば……。
「私も、みんなの記憶から消えちゃうの?」
ふうちゃんと同じように? と、亜紀は言った。
「ある日突然、見えない糸が切れるみたいさ?」
少年は、その質問に首を振った。
「それは、お前次第だ」
「私次第?」
「そうだ、お前次第。深澤栄介はおそらく、あえて自分の存在を消したんだろう。ごく普通の人間が突然居なくなったら、文字通りのパニックになるからな。今のお前の比ではない。深澤栄介に関わる人間のすべてが、慌てふためく筈だ。この国の司法機関も動くだろう。報道機関や、その他情報機関も黙っていない。ネットの世界では、
「ふうちゃんは『それ』を恐れて、自分の存在を消した?」
「あるいは、それを単に選んだだけも知れない」
「え?」
「縛られるのを嫌う人間が、自分の居た痕跡を残したら? それは、『完全な自由』とは言えない。『今の世界から、解き放たれた』とは言わない。深澤栄介が求めているのは、何者にも縛られない、自分の自由意志だけが尊ばれる世界だ。それには、どんな痕跡も許されない」
「なら?」
「ん?」
「どうして、私だけは別なの? 私だけが、ふうちゃんの事を覚えているの?」
「それが、お前への復讐だからだ。自分の最も嫌いな人間だけが、自分の事を覚えている世界。そいつがどんなに叫んでも、誰も自分の事を思い出せない世界。深澤栄介はそこにお前を置いて行く事で、お前を孤独地獄に堕とそうとしたんだ」
亜紀は、その言葉に呆然とした。気持ちのネジをどんなに回そうとしても、それが変な具合に回って、それに対する言葉はおろか、思考すらも回らなくなってしまったからである。彼からそう言われた瞬間に息が止まり掛けた事も、それを示す確かな意思表示だった。
亜紀は暗い顔で、悲しげに俯いてしまった。
「酷い」
ひどい……。
「非道いよ、ふうちゃん」
私だけを置いて行くなんて。
「私はずっと、ふうちゃんの隣を歩いていたのに」
亜紀は両目の涙を何とか止めようとしたが、自分の右手で何度拭っても、その涙は決して止まろうとしなかった。まるで彼女の心を表すかのように、そして、それが「心の叫び」と言わんばかりに。彼女の頬を伝い、顎の先から落ちて行く涙は、その思いを溶け込ませた、哀しい液体のように思えた。
「う、ううう」
亜紀は少年の見ている前で、幼子のように「ワンワン」と泣き続けた。
少年は、その光景から視線を逸らした。
「お前の気持ちは、分かる」
「分かるわけない! 好きな人に置いて行かれた気持ちなんか!」
「それでも、想像は出来る。相手の心を推し測る事は。俺には、相手の心を読む力がある」
亜紀は、その言葉を否まなかった。否む気力も無かったし、今までの会話を振り返る限りでは、その言葉が嘘のように思えなくなっていたからだ。彼が洞察力に富んだ人間だとしても、ここまで相手の事は推し測れないだろう。彼の言っている事はたぶん、本当だ。本当だから、とりあえずは信じる事にする。そうでなければ……。
亜紀は左の鼻水をみっともなく啜り、改めて少年の方に視線を戻した。
「あなたの力を使ったら、ふうちゃんを取り戻せる?」
「それも、お前次第だ。お前にすべてを捨てる覚悟があるか? その相手がすべてを捨ててまで取り戻す価値のある人間か? 俺は人間の欲望こそ愛しているが、その強制にはあまり肯けない。人間の欲望は、その幸せとほとんど同意義だからな」
亜紀は、その言葉に俯いた。今度は、その言葉に心を揺さぶられたらしい。
「願いは、今すぐじゃなきゃダメ?」
少年は、その質問に首を振った。
「お前の心が整ったら。大事な決断は、じっくり考えた方が良い。その答えが見つかったら、またここに来い。俺は、いつでも待っている」
彼は亜紀の鞄を拾い、彼女の前にそれを置いて、その前から居なくなった。
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