第48話 邪神の少年

 晴れ渡る空はいつ見ても美しいが、亜紀の心はちっとも晴れていなかった。自分の机に座って、その上に教科書を開いている時も、教科書の文字や、先生の声には意識が向くが、それがどう言う意味を持って、今後の生活にどう活かされるのかは、まったく分からない。すべてが自分とは関わりのない事象、知識と現実の世界を結び付ける、脆い導線のように思えていた。


 放課後の部活動に勤しんでいる時も、それに意識を向いていない時は、をどうしても考えずにはいられなかった。「彼はどうして、自分の前から居なくなってしまったのだろう?」と、道の真ん中で時折止まっては、それを思わずにはいられなかったのである。

 

 亜紀は自分の鞄を背負うと、周りの友達に「バイバイ」と言って、教室の中から出て行こうとしたが……これも、彼が居なくなった影響かも知れない。彼が居る時はほとんどなかったが、クラスの男子達が、それも周りから「格好いい」、「イケメン」と言われている男子達が、自分の後をついて来て、「一緒に帰ろう」と言ってくるようになった。

 

 彼女は、その誘いに困った。彼らの事は嫌いではないが、彼女にも好みはある。「ずっと一緒に居たい」と思う相手は居る。彼らはその外見や性格、学校での地位や影響力は申し分なかったが、彼女の好みから言えば、「友達」としては良いが、「恋人」としては少々物足りなかった。。彼らが見せる爽やかな下心は、彼の悪魔よりもずっと劣っていた。

 

 彼女は当たり障りのない文句を考えて、男子達の誘いを丁重に断り続けた。

 

 男子達は、その「ごめんなさい」に肩を落とした。自分の容姿に自信があるのかは分からないが、心の何処かでは「自分は、絶対に断られない」と思っていたのかも知れない。それがこうも呆気なく断られてしまえば、その自信とやらも簡単に砕かれてしまうのだろう。彼らは最初こそ自信満々だったが、彼女に「ごめんなさい」と断られた後の数日間は、まるでこの世の終わりとばかりに「う、うううっ」と俯き続けた。

 

 女子達はその光景に同情、なんてするのはごく一部だろう。男子達が「学校一の美少女に振られた」となれば、彼らが求める次の目標は自分達になるわけだから。この好機を逃す筈がない。絶対王者のオコボレを頂戴の出来るのは、今しかないのである。


 彼女達は傷心状態の男子達に上手く近づいては、ある者は優しげな態度で、またある者は強気な態度で、少女マンガの恋敵達も真っ青な方法を使いつつ、自分の想い人を次々と落として行った。

 

 亜紀は、それらの光景にまったく無関心だった。誰が誰と付き合おうと、自分には全然関係ない。文字通りの他人事である。自分が自分の幸せを掴まなければ、周りの幸せなど単なる風景でしかないからだ。風景の美しさに胸を打たれる事はあっても、それに自分を重ね合わせる事はない。風景と自分は同じ空間にこそ居るが、その両者は「世界を彩る背景」と「その中で動く役者」でしかないからである。自分は大事な人を失った、単なる役者でしかない。

 

 亜紀は「それ」を意識に感じつつ、ほとんど死んだような顔で、学校の廊下を歩き、廊下の先にある階段を降りて、そこからクラスの下駄箱に行き、自分の靴に履き替えて、昇降口の中から出て行った。


「はぁ」


 溜め息。


「はあ」


 また、溜め息。


「はあ……」


 亜紀は四度目の溜め息をつき掛けた所で、その溜め息を飲み込み、いつもの通学路を歩き始めた。いつもの通学路は、淋しかった。通学路の周りに広がっている風景はいつもと同じだったが、そこに空の夕陽が当たっている事や、それが建物や電柱の片側に影を作っている事も関わって、彼らの事をふっと思い出してしまったからだ。


 彼は自分に対してよそよそしくはあったものの、自分達の周りに誰も居ない、あるいは、誰も見ていない時は、その声を出来るだけ抑えて、自分の事を「アキちゃん」と呼んでくれたからである。学校では「頼長さん」と呼んでいるそれを、昔のように「アキちゃん」と言ってくれたからだ。「学校での態度は、彼らなりの配慮である」と、精一杯の愛情を見せてくれてからである。


「なのに……」


 亜紀は、両目の涙を拭った。


「どうして?」


 の続きが止まったのは、頭が痛くなったから。頭の中が真っ白になって、その想いが散り散りになってしまったかだ。だから「う、ううう」と漏れた声も、「そこに残った残滓」と言うよりは、彼女の叫びに近かった。決して届かない彼女の叫び、混乱と悲哀とが入り交じった苦悶。


 彼女はその苦悶を感じながら、フラつく足で今日も栄介の家に向かった。そこに微かな望みを、「」と言う希望を、「帰っていなくても、」と言う期待を込めて。

 

 ……だが、そんなものは無意味。現実はやはり、無慈悲である。玄関のインターフォンから返って来た声は、「また、あなたですか?」と言う苛立ちの声だった。「何度言ったら分かるんです? うちには、そんな子は居ません。これ以上、こんな事を続けるなら」

 

 警察を呼びますよ? 最強の一言だった。「学校」と言う教育機関を越えて、司法の守り手達に助けを求めようとしている。亜紀は、その脅しに俯いた。そう言われたらもう、お手上げた。「いくら恋に憧れるお年頃」と言っても、司法の力はやはり怖い。自分が更生施設の中に入られる光景は、周りの人達から「犯罪者」と指差される光景は、自分の親から縁を切られる光景は、中学生の彼女にとっては、恐怖意外の何ものでもなかった。


「ご、ごめんなさい。もう、ここには来ません」


 亜紀は暗い顔で、深澤家の敷地から出て行った。敷地の外には、町の道路を通っている。道路の両端には住宅街が広がっているが、一人で歩道の内側を歩いていると、それらが感情のない化け物、無機質な生き物のように感じられた。彼らはそこに建っているだけで、彼女の心を陰鬱とさせてしまう。少女の抱えているものをより深い所に落としてしまう。彼女が町の彼方へと沈み行く夕陽を背にしながら思った事は、「彼らはたぶん、これから先も栄介の事を思い出す事はない」と言う憶測を超えた、「それが変えようない現実だ」と言う想像だった。


 。「自分の精神が狂っている」とは思わないが、今まで見て来た不可思議な現象を振り返ってみても、その結論にどうしても行き着いてしまう。そうでなければ、今の現実を受け入れられない。「彼が消えた」と思われるあの日の放課後、自分は学校の隅々まで探し、その生徒達にも「ふうちゃんが何処に行ったか知っている?」と訊いて回ったが、誰一人として「それ」に答えられず、挙げ句は「ふうちゃんって誰?」と訊き返し、彼女の事(特に精神面)を案じて、周りの生徒達はおろか、担任の先生や、彼女の親すらも「大丈夫か?」と言い、一時は町の県立病院に彼女を行かせて、彼女に精密検査を受けさせた程だった。

 

 彼女は、その検査に愕然とした。周りの気遣いが嫌だったわけではないが、病院の看護師から問診票を渡されると、自分がまるで異常者のように思えてしまい、検査の結果が「異常なし」と分かった後も、周りの「良かったね」に反して、どうしても素直に喜べず、それどころか、今の状況により深い不信感を抱いてしまったのだ。自分が(「検査の結果が正しい」と仮定すれば)もし、正常であるならば、「おかしいのは周り」と言う事になる。深澤栄介の存在を忘れている周りが、その存在自体が無かった事になっている世界が。彼女一人だけを残して、すっかり歪んでしまった事になるのだ。先程の光景を思い返してみても……彼は実の親にすら、「自分を生んでいない」と思われているのである。


「そんな事」


 有り得ない。それがまともな感覚だろう。この世には「忘却」や「喪失」を軸とする作品は多くあるが、それが現実に起こるのはほとんどない。そう言う物は、作り物の世界だ。人間の創った創作物、その中で使われる小道具に過ぎない。小道具は確かに便利だが、それは創作だから良いのであって、現実に「それ」を求めるのはナイセンスだ。今の現実から逃げるための口実だ。夢と現実の区別が付いていない子どもだ。彼女はそこまで、子どもではない。当然、彼も。彼は現実の何に苛立っていたようだが、その理を壊すような力、不可思議極まりない力は持っていない筈だ。普通の人間が、普通以上の事を出来る筈がない。


 亜紀はそんな事を考えつつ、いつもの道を歩き続けたが……ある人物にふと目が留まると、今までの思考を忘れて、歩道の真ん中でスッと止まり、その人物をまじまじと眺め始めた。


 黒を基調とした不思議な服装。服装の趣味自体はとても良かったが、夕陽の残滓が服に当たっている所為で、そこに生まれる明暗の凹凸が、奇妙な感覚を生み出していた。「あの人はたぶん、普通の人ではない」と。あくまで本能的な直感だが、思わず見惚れてしまう程の美しい顔や、スッと伸びた身長や、無駄なく引き締まった体付きや、その存在から醸し出される不思議な雰囲気からは、それを無意識に覚えさせる空気が漂っている。栄介と同じくらい、おそらくは14歳くらいの年齢も、その感覚をより敏感に覚えさせていた。


 亜紀は、通学路の反対側に立っていた少年をしばらく眺め続けた。


 少年は、亜紀の方に視線を移した。どうやら、彼女の視線に気付いたらしい。彼は冷静な顔で、亜紀の顔をじっと見返した。


 亜紀は、その目から視線を思わず逸らしてしまった。


「う、ううう」


 少年はその反応を無視して、彼女の顔から視線を逸らし、今まで歩いていたのであろう道をまた歩き始めた。


 亜紀はまた、少年の方に視線を戻した。彼の足音が聞こえた事もあったが、その彼がどうも気になってしまったらしく、最初は彼と並ぶ形で今の通学路を歩いていたが、横断歩道の信号が青になると、そこをすぐに渡って、彼の後ろを黙々と歩き始めた。


 少年は、その動きを無視した。彼女の方を振り返ろうともしなければ、彼女自体を追い払おうともしない。ただ、彼女の間に適格な距離を取り続けるだけだった。

 

 彼は道の曲がり角を曲がった後も、変わらない歩調で町の歩道を歩き続けた。亜紀も、彼の後を追い続けた。彼がまた道の曲がり角を曲がった後も、そして、工事中のマンションに入って行った時も。その動きに倣って、進入禁止のロープを跨ぎ、マンションの中に入って行った。

 

 亜紀は廃墟の香りに顔を強張らせながらも、足下の瓦礫を踏まないように注意深く歩き続けた。そんな彼女が立ち止まったのは、少年が通路の奥で突然立ち止まり、自分の方にサッと振り返った時だった。彼女は、その光景に思わず固まってしまった。

 

 少年は、亜紀の表情に目を細めた。


「どうして、ついて来る?」


「え?」と驚いたのは、一瞬だ。次の瞬間には、何故か「あなたの事が……その、気になってしまって」と答えられていた。「ごめんなさい」


 亜紀は、遠くの彼に頭を下げた。


 少年は、その態度に首を傾げた。


「どうして、謝る?」


「え?」


「別に謝る必要はないだろう? お前は、俺の命を害したわけではないんだから」


「そ、そうですか?」


 不思議な人だな、と、亜紀は思った。見ず知らずの人について来られたら、普通は嫌がるのに。この人はやはり、普通の人とは違うようだ。


「でも、やっぱりごめんなさい」


 少年は、その謝罪に応えなかった。どうやら既に違う事を考えているらしく、彼女が「あ、あの?」と話し掛けて来た時には、その目を見開いて、彼女の前にそっと歩み寄った。「お前……」


 少年は、彼女の顔をまじまじと見た。


「大事な奴が居なくなったのか?」


「え?」


 亜紀は、目眩を感じた。彼が何故? どうして? 今までの人は、誰もそんな事は言わなかったのに。彼は名前も知らない相手の悩みを、見事に言い当ててしまったのだ。


「くっ、うっ」


 亜紀は、目の前の少年に震え上がった。


「あなたは」


 一体? そう言い掛けるよりも前に走り出したが、彼に「待て、逃げなくて良い」と呼び止められてしまった所為で、逃げる機会をすっかり失ってしまった。


 亜紀は、彼の方を振り返った。


 彼は、優しげに笑っていた。


「俺は、お前に危害を加えない」


「そんなの!」


 信じられない! と、彼女は叫んだ。危険なものを「危険」と感じるのは、自然の本能である。


「あなたは、普通じゃない!」


「普通じゃなかったら、逃げるのか?」


「え?」


「お前は普通じゃないものを、自分の悪を満たしていた」


 少年は、亜紀の顔を睨んだ。


?」


 この言葉で完全に固まってしまった。もう、彼に逆らう事も出来ない。ただ、マンションの窓から差し込む夕日に身を強張らせるだけだった。


 亜紀は、その震えを何とか耐え続けた。


「あなたは、何者?」


 少年は、その質問に眉を寄せた。


「俺は、邪神だ。人間の欲望を愛する」


「邪神? 人間の欲望を愛する?」


 二人は、互いの顔をじっと見合い始めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る