第47話 霧に住む者

 霧は、ますます濃くなった。最初は周りの風景を淡くしただけだったが、今は景色そのモノを変えている。今までは晴れていた頭上の空も、今は深い霧にすっかり覆われている。その中を歩いていたサフェリィーが、足下の石に思わずつまづき掛けた程に。列の最後尾を歩いていたホヌスも、普段よりも周りの風景を注意深く眺めていた。彼女達は周りの景色から視線を逸らしたり、自分の体勢を直したりすると、不安な顔で栄介の背中に視線を移した。


 ホヌスは、彼の背中を見つめた。


「栄介君」


「なに?」と応える栄介だったが、彼女の方には振り向かなかった。彼もまた、周りの霧に意識を向けていたようである。「どうしたの?」


 栄介は意識の中から剣を取り出して、自分の腰に「それ」をとりあえず帯びて置いた。


 ホヌスは、その様子に目を細めた。


「この霧、何となく不気味じゃない?」


「そうだね。僕も、さっき思ったけど。この霧は、普通の霧とは」


 違う気がする。それがどんな風に違うのかは分からないが、山道の草花をすっかり覆い隠し、彼らの視界をほぼ奪っている霧からは、表面上では普通の霧に見えても、その裏に、そんな雰囲気が微かに感じられた。山の東側(と思われる)から吹いて来た風に霧が流れた時も、その動き自体に異変らしきモノは見られなかったが、その風が止んでからすぐ、周りの霧がまた落ち着いた後には、先程の感覚が再び戻ってしまった。

 

 この霧にはたぶん……魔王の力は関わっていないだろうが、自然の障壁らしき物が設けられているのかも知れない。確たる証拠は何も無かったが、索敵の力を使っても尚、その大本を見抜けなかった点も考えれば、こいつが「とても恐ろしい物」と言う事だけは分かった。現に今も、霧は彼らの視界を奪っている。視界の先に広がっているだろう、美しい風景も。その大いなる力を使って、三人の進行を見事に阻んでいた。

 

 栄介は、腰の鞘から剣を抜いた。このままでは、埒が明かない。この霧を吹き飛ばす有効な手段、あるいは、便利な機械でもあれば別だが、ここにはそんな物は無いので、かなり原始的な方法に頼らざるを得なかった。右手の剣を一振りし、その風圧を使って、周りの霧を吹き飛ばす。それを地道に繰り返しながら、目の前の霧を少しずつ取り払うしかなかった。


「手間が掛かるね、本当」


 それには、後ろの二人も頷いた。これは、本当に面倒な作業である。自然の障壁を相手にするのは、魔王の怪物と戦うよりもずっと疲れた。


 栄介は剣の風圧を上手く使って、目の前の霧をちょっとずつ削ぎ落して行った。


 少女達は、その光景をじっと眺め続けた。「何か手伝える事はないか?」と、そう言いたげな二人だったが、ホヌスがその言葉を飲み込み、目の前のサフェリィーを制した事で、それが発せられる事はなかった。霧の事は、彼に任せよう。実際にそう言ったわけではなかったが、互いの顔から視線を逸らし合った二人には、それを感じさせる雰囲気が漂っていた。


 二人は黙って、彼の後ろを歩き続けた。


 栄介は、進行の邪魔者を払い続けた。ある時は、とても荒々しく。またある時は、やや落ち着いて。山道の曲がり角らしき所を曲がった時は、流石に飽きて来たのか? 剣の風圧で霧を吹き飛ばす作業自体は止めなかったものの、その表情には疲れらしきモノが窺えた。そこの曲がり角を曲がった後も、つまらなさそうな顔で右手の剣をブンブンと振り回していた。


 栄介は、自分の行為に溜め息をついた。


「なにやっているのかな、僕」


 本当に何をやっているのだろう? 魔王が放った怪物と戦うのならまだしも、こんな自然の産物に苦しめられるなんて。「溜め息をつくな」と言う方が、無理な話だった。頭上の空を思わず見上げてしまったのも、その精神的な疲れから来たものだろう。頭上の空はまだ、霧の占領下に置かれている。本当なら見えている筈の物が、すっかり隠されている。その支配から辛うじて逃れているのは、不透明な膜を擦り抜けて来た太陽の光だけだ。太陽の光だけは(霧の遮光板に遮られていたものの)栄介達の視界を助けている。彼らが大きな間違いを犯さないように、山道の上から決して逸れないように、その道を微かに光らせていた。


 栄介は、その光にホッとした。「その光さえあれば、自分達は決して迷わないだろう」と。山歩きについては素人同然の彼ではあったが、その光を見ていると、そう言う感情が何故か沸き上がって来た。太陽はたぶん……いや最後まで、自分達の味方であるに違いない。剣の風圧でまた霧を吹き飛ばした動きからは、その感情がヒシヒシと伝わって来た。


 栄介は口元の笑みを抑えつつ、霧に包まれた山道の上を歩き続けた。……それに変化が現れたのは、ある意味で必然だったのかも知れない。彼は道の真ん中辺りで立ち止まると、それまで動かしていた右の剣を止めて、自分の後ろをサッと振り返った。彼の後ろには、突然立ち止まった彼に驚く二人の少女が立っている。


「ねぇ?」


「なに?」と応えたのは、サフェリィーの後ろに立っていたホヌスである。「どうしたの?」


 ホヌスは不思議そうな顔で、彼の顔を見つめた。


 栄介は、その顔を見つめ返した。


?」


「何も」


 ねぇ? の対象は、サフェリィーである。彼女もまた、栄介の質問に「はい」と答えた。


「何も喋っていません」


 サフェリィーは後ろの邪神に振り返り、そしてまた、正面の少年に向き直った。


 栄介は、二人の視線に眉を寄せた。


「そ、そう。じゃあ、今の声は」


 空耳? そう思ったのは一瞬だったが、すぐに「それは、間違いだった」と思い直した。ここは、怪物達の住まう異世界。異常な事が、正常に起こっている世界だ。普通が、普通を止めている世界だ。そんな世界にあって、今の空耳が空耳である筈がない。必ず異常な物が潜んでいる。栄介がふと覚えた感覚からは、彼の命を脅かす危険信号が発せられていた。


「なんだ?」


 栄介は、自分の周りを見渡した。彼の周りは霧に包まれていたが、それをしばらく眺めていると……アレは一体、何だろう? 不思議な影が見られた。影は霧の中をすいすいと泳ぎ回り、時折ひょいっと止まっては、またその中をすいすいと泳ぎ出した。


 栄介は、後ろの二人に掌を向けた。どうやら、「動くな」と言う合図らしい。



 それに脅えたのはもちろん、彼の後ろに居たサフェリィーである。彼女は栄介の背中をしばらく見ていたが、後ろのホヌスに「下がって」と言われると、その言葉に従って、彼女の方に素早く下がった。「う、ううう」


 ホヌスは、彼女の肩に手を置いた。


「大丈夫、大丈夫」


 サフェリィーは、その言葉に小さく頷いた。


「はい」


 少女達は真面目な顔で、自分達の頭目に目をやった。


 栄介は自分の後ろを振り返らず、霧の中をぐるりと見渡した。霧の中には、奴の姿は見られない。自分の左右はもちろん、残りの四方八方を見渡しても。彼の視界に入って来るのは、濃霧の障壁だけだった。


「くっ」


 栄介は、自分の剣を構えた。


「何処に行った?」


 ……ここだよ。


「なっ!」


 栄介は、自分の足下に目をやった。彼の足下には、怪物の姿があった。人間の形を真似て、そこに黒い布切れを被せたような怪物。怪物は彼の隙を突いて、その身体にすぐさま襲い掛かろうとしていた。


 栄介は本能的な嫌悪から、その胴体を思わず蹴飛ばしてしまった。


 怪物は、彼の蹴りに吹き飛ばされた。それがあまりに意外だったのか? 最初は身体の痛みに驚いていただけだったようだが、彼の方に向き直った後は、何処か楽しげに「ニタニタ」と笑い出した。


「驚いたな。まさか、


 栄介は、その言葉に目を細めた。その言葉で、大体の事が分かったからである。相手はどうやら、物理攻撃が効かない怪物らしい。


「なるほど。それは、結構面倒な相手かも知れない」


 だが、「それがどうした?」と言うのだ。普通の攻撃が通じない相手であろうと、自分にはまだ切り札がある。「三叉槍」と言う悪魔の最強武器がある。それを上手く使いさえすれば、あんな相手などすぐに倒せてしまうだろう。悪魔は、怪物よりもずっと格上なのだ。


 栄介は意識の中に剣を仕舞って、代わりに最強武器である三叉槍を取り出した。


 怪物は、その光景に思わず驚いた。


「初めて見る術だな」


「そうかい」


 なら、と、栄介は言った。


「これが最後になるね」


 栄介は両手で三叉層の柄を持ちつつ、黒い怪物に三叉槍を振り下ろした。


 怪物はその速さに目を見開いたが、ほんの僅かな隙を見つけて、彼の武器を何とか躱す事が出来た。


「なんて速さだ」


 それが、怪物の率直な感想。


「とても人間業とは思えない。俺が攻撃を躱すのに精一杯なんて」


 怪物は言いようのない恐怖を覚えたようで、彼との実力差にすっかり震え上がってしまった。


「お前は、一体」


「何者であろうと、別に良いじゃないか?」


「なに?」


「君も、魔王に放たれた怪物の一体なんでしょう?」


「くっ、なら! お前は、『それ』を狩る冒険者か?」


 無言の返事。だが怪物には、その返事だけで分かったようだ。


「飽きない連中だな」


「何に?」


「俺達を倒す事に、だよ」


「それは、君達が人間を襲うからじゃないか?」


 怪物は、その言葉に苛立ったようである。


「それが俺達の本能だからな。本能には、逆らえない。お前らにだって、本能はあるんだろう?」


「確かにあるよ、本能は。でも、それと同じくらい」


 栄介はあえて、その続きを言わなかった。その続きを言えば、自分で自分の行いを否める事になる。


「この霧は、君が仕掛けた物?」


「まさか」


 怪物は、楽しげに笑った。


「俺には、そんな力は無い。俺はただ、。霧の中を動き回って、そこに掛かった獲物を狩る。世界を歩き回るよりは、ずっと簡単な方法だろう?」


「確かに。でも、僕だったら耐えられないな。霧の中に迷い込んだ獲物をひたすら待つなんて。余程の暇人にしか出来ない事だよ」


「余程の暇人……」


 怪物の口調が強くなったのは、今の言葉に「カチン」と来たからだろう。怪物は態度にこそ見せなかったが、栄介の事を今まで以上に睨み付けた。


「お前は、『俺が暇人だ』って言うのか?」


「違うの?」


 怪物は、その言葉に飛び上がった。最早、我慢の限界だったらしい。


「死ね」


 栄介は、怪物の攻撃を受けなかった。霧の中しか動けないのなら、その霧を消してしまえば良い。彼は怪物が自分に攻撃を仕掛ける瞬間、その間にある霧を吹き飛ばして、相手の攻撃を見事に防いでしまった。


「ふふっ」


「くっ」


 怪物は慌てて、自分の腕を引っ込めた。言葉を話せるくらいなのだから、今の状況も充分に分かっているのだろう。「腕」と「槍」とでは、腕の方がどう考えても不利。それに加えて、相手には霧を払う手段がある。移動の範囲を削がれては、流石の怪物もお手上げだ。


 怪物は霧の流れを必死に読みつつ、目の前の獲物に何とか襲い掛かろうとした。……だが、それは、「甘い」と言うもの。普通ではない栄介を獲物に選んだ、怪物の明らかな間違いだった。怪物は栄介の背後から襲い掛かろうとした瞬間、殺気だけで自分の位置を読み取った栄介に振り返られ、自分の喉元に槍先を突き刺されてしまった。


「う、ぐっ」


 怪物は自分の喉元に槍を突き刺されたまま、地面の上に叩き落とされてしまった。


 栄介は嬉しそうな顔で、その姿を見下ろした。相手の姿は、ボロボロだ。喉元から溢れる血は痛々しいし、その身体も(落下の衝撃で)傷だらけになっている。それを遠目から眺めていたサフェリィーが思わず震え上がってしまう程に、あらゆる場所が血で埋め尽くされていた。


「油断したね」


 怪物はその言葉に言い返そうとしたが、喉の声帯が潰されていた所為で、自分の声を上手く発する事が出来なかった。「くわっ、はっ、うっ」の声からも、その苦しさが伝わって来る。怪物は薄れ行く意識の中、本能の痕跡を何とか残そうと、彼の身体に攻撃を加えようとした。だがもちろん、そんな攻撃は当たらない。と言うか、動く事すら出来なかった。怪物がやっていたのは、ただ自分の腕をプルプルと上げ続ける事だけ。そしてその腕も、やがては地面の上に戻ってしまった。


「う、ううう」


 栄介はその声を無視して、怪物の胸に三叉槍を突き刺した。


 ホヌスは、彼の背中に話し掛けた。


「楽にしてやったの?」


 栄介は、その言葉に振り返らなかった。地面の上に横たわっていた怪物が、結晶体に変わる光景を眺めていたからである。


「本能から解き放ってあげただけさ」


「……そう」


 ホヌスは彼の背中をしばらく眺めていたが、やがて周りの風景に視線を移してしまった。


「霧が晴れて来たわね?」


「うん。お陰で、周りの景色が良く見える」


 周りの景色は、本当に美しかった。霧の壁に遮られていた空も、今は見事な晴天を描いている。


「行こうか?」


「そうね」と頷くホヌスに続いて、サフェリィーも「は、はい」と頷いた。


 二人は、少年の指示に従った。


 栄介は二人の少女を引き連れて、晴れ渡る空の下を歩き始めた。

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