第46話 悪い夢
これはたぶん、夢だろう。そうでなければ、彼女が目の前に居るわけがない。憎い少女が「ニコッ」と笑って、その笑顔を輝かせているわけが。彼女はあの日、栄介があの世界から別れた時に着ていた制服を着て、周りの光景に脅える事もなく、彼に「ふうちゃん」と微笑んでは、木々の間を上手く擦り抜けて、地面の上に落ちている小さな枝をパキパキと踏みつつ、彼の前に一歩、また一歩と近づいていた。
栄介は、その光景に震え上がった。「彼女がなぜ、ここに居るのか?」もそうだが、彼女の周りに広がっている風景……おそらくは夜の闇だろうが? それも相まって、その笑顔がとても不気味に感じられたからである。「クスクス」と笑う声も、恐ろしい。まるで栄介の事を嘲笑うかのようだった。地面の上をゆっくりと歩く様子にも、ある種の圧力が感じられる。彼女は栄介が「う、ううう」と唸る一方で、尚も地面の上を歩き続けた。
栄介は、意識の中から三叉槍を取り出そうとした。「それを取り出しさえすれば、この状況からも何とか逃げ出す……いや、打ち開けるだろう」と、無意識の内に「そうしよう」としたのである。自分の周りにはなぜか、ホヌス達の姿も見られない。彼女達は闇の中に隠れてしまったらしく、自分の周りをどんなに見渡しても、彼女達の声はおろか、その気配すらも感じられなかった。視界の中に入ってくるのは、ただ闇夜に覆われた山の風景だけ。その中に混じった、自分と彼女の姿だけである。
栄介はその光景に苛立ちつつも、不安な顔で意識の中から三叉槍を取り出したが、その三叉槍がすぐに使えなくなってしまった。自分の右手に三叉槍を出そうとした所までは普通、何の異変も無かったものの、亜紀が自分の指を「パチン」と鳴らした瞬間、その三叉槍が粉々に砕けてしまったからだ。
栄介は、今までにない程の喪失感を覚えた。
「そ、そんな! あの槍は」
心の拠り所とまでは行かないが、一種の安らぎを与えてくれていたのに。それをこうも簡単に壊されてしまうなんて。悔しい以外の何ものでもない。彼女は栄介が栄介である証明、悪魔が悪魔である証を壊してしまったのだ。
「くっ!」
栄介は、意識の中から剣を取り出した。最強の武器は壊されても、自分にはまだ予備の武器がある。切れ味抜群の剣が、この世界ではそれなりに高級な品が。最強の武器に代わって、彼女を切ってくれるだろう。「武器を壊れるから」と言って、「武器の威力自体」を防げるとは限らない。彼女は「武器破壊」に重点を置いた、能力者なだけかも知れないのだ。そう言う能力者なら、たとえ普通の武器でも、倒せない事はないだろう。
栄介は両手で剣の柄を持つと、その場からサッと動いて、目の前の彼女に斬り掛かろうとした。
だが、「え?」
その方法は、あまりよろしくなかったらしい。目の前の彼女に斬り掛かった瞬間までは良かったが、それが彼女の身体を切り裂いた瞬間にふわりと躱された挙げ句、彼女から謎の攻撃を受けてしまったからだ。
「なにっ!」
栄介は、得体の知れない力に吹き飛ばされてしまった。
「い、今の力は?」
一体、何なのだろう? 念力のようなモノが、行き成り襲い掛かって来た。彼女の思念らしき物を通して、自分の身体を突然押し飛ばして来たのである。
「つぅ」
栄介は、自分の右胸を押さえた。後ろの壁らしき物に叩き付けられた際、その部分を強く痛めてしまったらしい。壁の前からよろけつつも離れた時に覚えた感覚は、この世界に来てから久しく忘れていた鈍い痛みだった。異世界系の主人公なら、ほとんど味わわないだろう痛み。虚構の特権が取り払ってくれる痛み。彼が現代社会にかつて生きていた事を思い出させる痛みである。
栄介はその痛みによろけつつも、自分の両手に握り直した剣を構えて、目の前の幼馴染にまた視線を戻した。目の前の幼馴染は、笑っていた。ある種の嘲笑を浮かべるように、あるいは、彼との思い出に耽るように。何処か悲しげに微笑んでは、その温かな目を潤ませていたのである。「ふうちゃん」と話し掛けた声にも、聖女の雰囲気が漂っていた。
彼女は口元の笑みを消して、目の前の彼に手を伸ばした。
「ここは、ふうちゃんの居る場所じゃないよ?」
嫌な言葉だった。目の前の彼女が何者であろうと。今の言葉は、どうしても許せなかった。
「僕の居る場所、じゃない?」
「そう、ふうちゃんの居る場所じゃない。ふうちゃんは」
栄介は、その続きを遮った。その続きは、聞かなくても分かる。彼女の呪縛にずっと苦しめられていた彼には、それが手に取るように分かった。
「嫌だね」
「え?」
「僕の居場所は、
亜紀は、その言葉に涙を流した。今の一言が、余程に悲しかったらしい。
「どうして?」
無言の返答。
「なんで? 何がそんなに不満だったの?」
私と一緒に居るのが、と、彼女は言った。
「そんなに嫌だった?」
栄介は、その質問に笑みを零した。
「うん、すごく嫌だったよ」
それを聞いた亜紀の顔が絶望に歪んだのは、言うまでもない。彼女は両手で自分の顔を覆いつつ、その場に「うわん」と泣き崩れたが、しばらく泣き続けると、両目の涙を拭って、地面の上から静かに立ち上がった。
「私が可愛くなかったから?」
「違う」
「性格が悪かったから?」
「違う」
「私と幼馴染なのが苦しかったから?」
「違う」
「私がふうちゃんの事を好きだったから?」
「違う」
彼女はその言葉を聞いて、また「うわん」と泣き出してしまった。
「なら、どうして居なくなったの?」
栄介は、その言葉に溜め息をついた。
「君が僕の事を縛っていたからだ」
彼女の涙が止まったのは、きっと偶然ではない。たぶん、今の言葉に「え?」と驚いてしまったからだ。彼女は涙の残滓をすっかり拭うと、今度は真面目な顔で彼の目を見返した。
「私がふうちゃんの事を縛っていた」
「そうだよ。だから僕は、こっちの世界に来たんだ。こっちの世界では、どんな事も許されるからね。僕がどんなに悪い事をしても」
「ふうちゃんは、ずっと悪い事をしたかったの?」
栄介はその質問にしばらく押し黙ったが、やがて何かを打ち明けるように「そうだよ」と頷いた。
「ずっと、ずっと、悪い事をしたかった。向こうの世界では、許されない事を。絶対に破っちゃいけない禁忌を。僕は今まで、君にその欲望を抑え付けられていたんだ。君が僕の隣に居た所為で、その頭を押さえられていたんだよ。本当は、好き放題にやりたかったのにさ。君がなまじ優しい所為で。僕は、君の優しさを心底恨んでいる」
今度は、亜紀が押し黙った。彼女は彼女の顔をしばらく見、それから自分の足下に目を落として、その地面をじっと見下ろし始めた。
「そう……」
「うん」
「それじゃ、私以外の人も?」
「まあね。人にも寄るけど、ほとんどが同じかな? 君も薄々ながら気づいていたでしょう?」
「何に?」
「僕の浮かべる作り笑いにさ? あれには、大抵の人が騙されていたけれど」
亜紀は、その言葉に目を見開いた。
「あれは、嘘だったの?」
栄介は、その返事に苦笑した。
「まさか、『本当に笑っている』と思ったの? 僕が心の底から」
「笑って、いなかったんだ?」
「当り前だろう? 自分の本心を気づかれないためにはさ。『本音』と『建前』を使い分けるのは突然、自分の心をオールオープンで行くわけには行かない。君が仲良くしている子達にも、表と裏が絶対にある。みんながみんな、正直に生きているわけじゃないんだ。自分の立場を守るためには」
「そ、そんなのは、分かっているよ。でも!」
「なに?」
「ふうちゃんは、私に正直であって欲しかった」
栄介は、その言葉に眉を潜めた。
「それは、アキちゃんの傲慢だよ」
亜紀はその言葉に俯いたが、やがて壊れたように笑い出した。
「そっか。それは、私の傲慢か」
「そうだよ」
「だったら」
彼女の雰囲気が変わったのは、本当に一瞬の事だった。
「そんなふうちゃんは要らない。そんなふうちゃんは、壊してやる」
ぶっ壊してやる! と、彼女は叫んだ。
「バラバラに壊して、二度と戻らないようにしてやる!」
不気味な音が鳴り響いたが、それは彼女が鳴らした鈴の音だった。
「フフフフ、アハハハ!」
亜紀は、自分の右手に持っている鈴を何度も鳴らし続けた。
栄介は右胸の痛みに耐えつつ、自分の両手で持った剣を構え直しては、真面目な顔で周りの風景をサッと見渡した。周りの風景が、どんどん変わって行くからだ。おそらくは鈴の音に合わせて、最初は闇夜に覆われていた風景が、一枚、一枚、まるで生物の外皮が剥がれて行くように、その奥に隠れていた物を次々と見せて来たからである。
「ここは?」
かつての自分が居た所。「教室」と言う名の監獄場だった。監獄場の中にはクラスメイト達が居て、彼らは一人の例外もなく、その手に様々な凶器を持っては、鋭い顔で栄介の事を睨み付けていた。
「深澤」
なに? と応える必要はない。その男子とは、特に親しかったわけではないからだ。
「今までよくも、俺達を騙してくれたな」
男子は、栄介の顔に銃を向けた。
栄介は、その銃に目を細めた。その銃はたぶん、本物だろう。銃の種類はハンドガンだったが、「全体の色合い」と言い、「その銃口から伝わって来る雰囲気」と言い、どう見てもエアガンには見えなかった。
栄介は、彼の方に剣先を向けた。普通に考えれば、「剣」よりも「銃」の方が圧倒的に速いが……ここは、怯んでいられない。最強設定がここでも使えるかは分からないが、その設定が「今も生きている」と考えれば、自分の劣勢もなくなる。それこそ、弾よりも先に動けば良いのだ。唯一の懸念材料である、武器破壊の存在が厄介ではあるものの。
「ここは、やるしかない」
栄介はいつもの調子で、その場からサッと動いた。動きは、いつもと変わらなかった。後ろの亜紀が自分を睨んでいたのは気になったが、特に何もして来なかったので、目の前の男子を難なく倒す事が出来た。剣の柄で鳩尾を押され、地面の上に倒れる男子。男子は腹の痛みに悶えたが、栄介の攻撃が余程に効いたらしく、地面の上に立ち上がる事も出来ないまま、その意識をすっかり失ってしまった。
栄介は、周りのクラスメイト達に視線を移した。今の行為は、警告だ。「自分への攻撃を止めなければ、こうなるぞ?」と言う、彼なりの配慮である。あの地下闘技場で「次は、絶対に殺す」と決めていた彼ではあったが、相手が(一応は)かつての級友だった事もあり、その命を奪う事は出来なかったらしい。男子の方にまた視線を戻した彼は、何処か悔しげな顔でその相手をじっと見下ろしていた。
クラスメイト達はその光景に戦々恐々、所謂混乱状態になってしまった。普段は冷静な面々ですらも、今は互いの顔を何度も見合っていた。
「ど、どうする? アイツ、メチャクチャ強いじゃん?」
亜紀は彼らの動揺を無視して、栄介の近くにそっと歩み寄った。
「ふうちゃん」
栄介は、その声に振り返られなかった。
「なに?」
「どうしても、戻らない?」
「うん、絶対に戻らない。戻っても」
「これは、ただの脅しだよ?」
「脅し?」
栄介は、彼女の方を振り返った。今の一言で、心の
「君は」
やはり……。
「本物じゃないね?」
この空間に居るクラスメイト達も。彼らは何かの影響で見せられている幻、あるいは、単なる悪夢でしかないのだ。
「そもそも、僕を覚えている事自体がおかしいからね」
冷静に考えてみれば。
「フッ」
栄介は勝ち誇った顔で、自分の剣を放った。
「こんな悪夢とは、オサラバだ」
さっさと覚めろ。そう呟いた彼が見たモノは、朝の木漏れ日が光る美しい風景だった。風景の中では、少女達が栄介の顔を覗き込んでいる。二人は彼の事を案じたのか、ホヌスの方は冷静に、サフェリィーの方は不安な顔で、彼に「大丈夫ですか?」と訊いた。
栄介は、二人の不安に「大丈夫」と答えた。
「ちょっと嫌な夢を見てさ」
「そう」と頷いたのは、彼の顔から顔を離したホヌスである。「何かの異変でなくて良かった」
ホヌスはどうやら分かっていたようだが、それをあえて言おうとはしなかった。
サファリィーは、主人の「大丈夫」に胸を撫で下ろした。
「そ、そうですか。もう、心配しましたよ! 朝起きたら、呻き声が聞こえたので」
「ごめん」
栄介は二人に謝ると、調理師の作ってくれた朝食を食べた。
「ごちそうさま。今日の朝ご飯も、美味しかったよ」
「いえいえ!」
サフェリィーは上機嫌になりつつ、栄介と一緒に三人分の食器を洗った。
栄介はそれが終わると、程良い食休みを挟んで、仲間達の足を促した。
「それじゃ、行こうか?」
少女達は、その言葉に従った。
三人は先頭に栄介を、真ん中にサフェリィーを、最後尾にホヌヌを付けて、昨日と同じ山道をまた歩き始めた。
栄介は自分の後ろを何度か振り返り、明るい顔でサフェリィーとの会話を話したが、周りの景色が霧に包まれ始めると、彼女との会話を切って、自分の正面にまた向き直った。
「気のせいかな?」
この霧、少し不気味に感じる。
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