第45話 純粋な涙

 大蛇は、その速さに驚いたらしい。今までも多くの人間を襲って来たが、こんなに速い人間は見た事がないらしく、栄介が右手に持った剣をくるくると回した動きはもちろん、それを素早く握り直して、落下の慣性を活かしつつ、自分の脳天に向かって、剣の鋒を突き刺そうとする動きにも、その身体を思わず震え上がってしまった。「……こいつは、普通の人間ではない」と。人間よりも知能のずっと劣る大蛇ではあったが、その感覚だけはどうしても拭い去れないようだった。


 大蛇は身体の筋肉を巧みに使って、栄介の剣を何とか避ける事が出来た。


 栄介は、地面の上にスッと降りた。その動きは実に美しく、大蛇の目の前まで落ちた時は、その空気を裂く音が聞こえて来たが、地面の上に降り立った時は、僅かな落下音が聞こえただけで、音らしい音はほとんど聞こえて来なかった。空気の中に混じった気体が、地面の上にそっと触れるように、落下の残滓がまったく見られなかったのである。


「どうする?」


 挑発だ、人間の言葉が分からない大蛇に対しての。栄介はその挑発を使う事で、この戦いをより一層に楽しもうとしていた。


「まさか、こんなんで脅えたわけじゃないよね?」


 大蛇は、その言葉に舌を出した。言葉の意味はまったく分からないが、自分が見下された事は分かったらしい。最初は威嚇の域に留まっていた攻撃も、今度は相手に対する殺意へと変わった。こいつだけは、何としても仕留めてやる。自分の舌を何度も動かし、それに合わせて「シャー、シャー」と唸る声からは、栄介を喜ばせる程の殺気が感じられた。


 大蛇は自分の身体をバネにして、目の前の栄介に襲い掛かった。


 栄介は、その攻撃を防いだ。攻撃の範囲はかなり広かったが、それが打ち消される場所を上手く付いて、蛇の身体をすっかり止めてしまったのである。


「ふう、危ない、危ない」


 わざとらしい嘘。それを示す証拠として、彼の顔はちっとも脅えていなかった。蛇の頭を押さえている剣先にも、文字通りの余裕が窺える。その剣先から伝わって来る雰囲気にも。栄介は剣の先を少し動かして、大蛇の身体を吹き飛ばした。


 大蛇は、近くの岩壁に叩き付けられた。岩壁は蛇の身体よりもずっと堅かったが、今の衝撃には流石に耐えられなかったらしく、大蛇が岩壁の表面に叩き付けられた瞬間、その表面に罅が走ってしまった。そこを偶々這っていた蜥蜴も、その巻き添えを食ってペチャンコに。木々の枝に留まっていた鳥達も、そこから逃げるように飛び去ってしまった。


 大蛇は全身の痛みを何とか堪えつつ、岩壁の表面から何とか離れて、栄介の方にまた、よろよろしながら近づいた。


 栄介は、その動きに目をやらなかった。大蛇の動きは、それを見なくても分かる。彼は大蛇の身体が叩き付けられた岩壁、その表面に付けられた血痕らしき物をじっと眺めていた。「蛇の血は、青色なんだね」と。そんな事を考えながら、不思議そうな顔で「それ」を眺めていたのである。「となると、ヘモグロビンも青いのかな?」


 栄介は大蛇の血に異様な興奮を覚えたが、その興奮がある程度落ち着くと、真面目な顔で自分の正面にまた向き直った。自分の正面では、大蛇の身体がフラフラしながら立っている。


「へっ」


 大蛇は、その声に苛立ったらしい。先程までフラフラしていた身体を無理矢理に動かし始めた。すべては、目の前の敵を倒すために。目の前の敵を食らい尽くすために。大蛇はボロボロの身体を何とか動かしつつ、その大きい身体を活かして、目の前の獲物に襲い掛かった。

 

 栄介は、その攻撃に反撃を加えた。今度は落下の時とは逆に、相手の動きを逆手に取って、その身体に突き刺したのである。そうすれば(栄介自身が特に動かなくても)、剣が大蛇の身体を滑って、魚の切り身を作るようにサクッと……。つまりは、「」と言うわけだ。相手が勝手にやられてくれるなら、こちらでわざわざ殺す必要もない。その光景をただ、楽しげに眺めているだけで済む。

 

 栄介は、大蛇の身体から剣を抜いた。大蛇の身体からは、おびただしい量の血が溢れている。それも大蛇が暴れれば暴れる程、身体の痛みに悶えれば悶える程、その量はますます増えて行き、仕舞いには見事な血の池を描いていた。それを見ていたサフェリィーが思わずゾッとする程の、美しくも醜い血の池を。周りの地面を一気に汚してしまう青を、まるで円を描くように広げていたのである。


 栄介は腰の鞘に剣を戻して、その円をじっと眺め始めた。


「不気味な池だね」


 その意味が通じたのかどうかは、分からない。だが、大蛇が「それ」に苛立ったのは確かだった。大蛇は薄れ行く意識の中、ほとんど使い物にならなくなった自分の身体を動かそうとしたが、やはり駄目なモノは駄目らしく、己の身体を何とか起した所までは良かったものの、そこから先は意識がプツンと消えてしまい、地面の上にまた横たわってしまった。


 栄介は、その光景に「ニヤリ」とした。


「もう終わり?」


 返事……いや、この場合は反応か? 剣先で大蛇の身体を何回か突いてみたが、爬虫類らしい鱗の感触が伝わるだけで、反応らしい反応はまったく見られなかった。どうやら、栄介の攻撃で完全に死んでしまったらしい。ついさっきまで栄介の事を睨んでいた両眼も、今ではその色をすっかり失っていた。


「つまらないな」


 そう言い掛けた栄介だったが、大蛇の身体が結晶体に変わったので、その言葉を静かに飲み込んでしまった。栄介は、地面の上に落ちている結晶体を拾った。


「こいつも、?」


「『違う』と思ったの?」と訊いたのは、サフェリィーの事を守っていたホヌスである。「この蛇は」


 ホヌスは楽しげな顔で、栄介の背中を見た。


 栄介は、その視線に振り返らなかった。


「半分、はね? 現代社会にも、これくらいの蛇は居るから。青い血を見た時は、流石に『違う』と思ったけど」


 サフェリィーは、二人の会話に混じった。


「あ、あの?」


「なに?」と応えたのは、栄介。「どうしたの?」


 栄介は穏やかな顔で、彼女の方に視線を移した。


 サフェリィーは、その視線をじっと見た。


「この蛇が、魔王の放った手下なら……その」


「うん。たぶん、たくさん居るだろうね。この山はどう見ても深いし、食料になりそうな動物もたくさん居るだろうから。きっと、そこら中を這い回っている。蛇は、変温動物だから」


 恒温動物よりは、たくさん食べない(と思う)としても、と、彼は言った。


「身体が大きければ、その食べる量も多くなる。やられる心配はないだろうけど、一応は気にした方が良いかもね?」


 その判断は決して、間違いではなかった。三人は今まで歩いていた山道を注意深く歩き続けたが、そこを歩いている道中で、今のような大蛇と何度も出会ってしまったからである。大蛇達は感覚器官か何かで同族の死を感じ取ったらしいが、自身の飢えにはやはり抗えないらしく、最初は栄介の雰囲気に怖じ気づいていたものの、それを何とか振り払って、ある大蛇は正面から、またある大蛇はぐるぐると巻き付く形で、そのご馳走を何としても飲み込もうとした。


 だが、「甘い」


 そこは、物語の主人公。こんな所で死ぬわけがない。


 栄介は彼らの攻撃を巧みに躱し、その状況、状況に応じて、大蛇の身体を切り裂いたり、粉々に切り刻んだりした。


 大蛇達は、彼の攻撃で命を落として行った。


 サファリィーは、その光景に身体を震わせた。自分は確かに安全な所から、しかも絶対に安全な場所から、彼の力を眺めている。彼の力によって、自分の命が守られている。彼が両手に持っている三叉槍は、自分の目の前に見えない盾を作っていた。


 でも……それでも、恐ろしい。頭の中では抑えていても、その本能が「怖い」と訴えて来る。彼への陶酔が、畏怖の感情を呼んで来る。「彼は絶対なる愛の対象だが、それでも恐れる部分は恐れなければならないのだ」と、そう感情が叫んで来るのだ。「彼は、正真正銘の悪魔である」と。

 

 彼女は本能的な恐怖に打ち震えたが、同時に彼への愛情を強く感じてしまった。


「わたしは何があっても、あなたの傍から離れません」


 栄介は、その言葉に気づかなかった。目の前の敵と戯れていた所為で、彼女の呟きを聞き取れなかったからである。


「これで」


 大蛇の身体から引き抜かれる剣。


「終わり!」


 大蛇は身体の痛みにのたうち回ったが、それが逆に死を早める結果となってしまい、身体の筋肉を何とか動かそうとした時には、その身体中から血が溢れて出て、地面の上に倒れてしまった。


「シュ、シュッ」


 栄介は、その声に喜んだ。その声は、敵の断末魔だから。栄介の事を恨みながらも、決して報われない虚無の反逆だから。それ故にこの上もなく気持ち良い。大蛇の身体から剣を引き抜く時の感覚は、まるで小学生が蜻蛉の羽を千切るのを楽しむような感じだった。


「ふふ」


 栄介は右手の剣を振って、剣の表面に付いている血を払った。


 ホヌスは、その光景に微笑んだ。


「楽しそうね」


「うん、とても楽しい。蛇は、基本的に嫌いだけど」


「それを倒すとなれば、別?」


「そうだね。嫌いな生き物を殺すのは」


 二人は、互いの言葉に「クスクス」と笑い合った。その様子はとても不気味だったが、大蛇の死骸がまた結晶体になったので、口元の笑みをすぐに引っ込めた。


 栄介は地面の結晶体を拾って、意識の中に「それ」を仕舞い入れた。


「さて」


 先を進もうか? と、彼は言った。


「大蛇達の所為で、時間を大分取られたからね。日が暮れる前に今夜の寝床を探さないと」


 二人の少女も、その言葉に頷いた。山道の途中で簡単な昼食と休憩は済ませていたが、ずっと歩きっぱなしなのは流石に嫌らしく、ホヌスが「ええ」と頷くと、サフェリィーもそれに続いて「はい」と頷いた。「夜くらいは、ゆっくり過ごしたいです」


 彼らは栄介を先頭にして、午後の光に照らされた山道を歩きつつ、今夜の寝床を探し始めた。今夜の寝床はなかなか見つからなかったが、サフェリィーがふと何気なく指差した「あそこの横道に入ってみませんか?」に入ってみた所、そこが結構良い場所で、地面の上に倒れていた巨木はもちろん、それが程良い段差を作るように倒れていた点も、寝床には丁度良い場所だった。それに加えて、焚き火に使えそうな枝もたくさん落ちている。


「悪くない」と、栄介。彼は索敵の力を使って、自分達の周りに敵が居ないか確かめた。「今の所、敵は居ないみたいだね。危なくない小動物は、たくさん居るらしいけど」


 サフェリィーは、その言葉にホッとした。


「よ、良かった。なら」


 夕食の準備を始めます、と、彼女は言った。


「暗くなる前に」


 ホヌスは、彼女の顔に目をやった。


「そうね。私も、準備を手伝うわ」


「は、はい!」


 二人は楽しげな顔で、夕食の準備をやり始めた。


 栄介は、地面の上に落ちている枝を拾い始めた。


 三人はそれぞれの仕事に安堵感を覚えながら、何処か楽しげな顔で今夜の夕食を作った。今夜の夕食は……まあ、「簡単な物」と言って置けば良いだろう。とにかく面倒でない料理だ。三人の胃が程良く満たされ、食後のスープを楽しめる料理。


 三人は若干薄味のスープを飲み終えると、それぞれの食器類をササッと洗って、いつもの定位置(栄介の意識の中だ)にそれらを仕舞った。


「サフェリィー」


「は、はい!」


「今日も、美味しいご飯をありがとう」


 サフェリィーは、その言葉にニヤついた。彼から言われた言葉が、余程嬉しかったらしい。


「そ、そんな! わ、わたしなんかには、もったいない言葉です」


 栄介は、その言葉に首を振った。


「もったいなくなんかない。サフェリィーの料理は、本当に美味しいんだ」


 ホヌスも、その言葉に頷いた。


「私も、そう思う。貴女の料理には、真心がこもっているから。お店の人には、決して出せない味よ」


 二人は温かな顔で、目の前の彼女に微笑んだ。


 サフェリィーは、その笑顔に涙を流した。


「あっ……」


 彼女は右手で、両目の涙を拭った。「ご、ごめんなさい」と言いつつ。だがいくら拭っても、その涙は止まらなかった。「こ、こんな」


 彼女は両目の涙を流したまま、嬉しそうな顔で目の前の二人に微笑んだ。


「わたし、お二人に助けられて」


 嗚咽。


「ほんとうに良かったです!」


 二人は、彼女の言葉に胸を打たれた。特に栄介は、不思議な満足感を覚えていた。相手に対しての優位性から得られる満足感ではなく、人間が人間だからこそ味わえる満足感を密かに覚えたのである。


「これは、あの子じゃ絶対に味わえない感情だ」


 栄介はふっと思い浮かんだ顔、頼長亜紀の笑顔に苛々してしまった。

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