第44話 山道から眺める絶景

 少年があれからどうなったのかは……まあ、栄介達の想像に任せるとしよう。荒野の彼方へと消えて行く少年の背中には……その表情こそ分からなかったが、何処か嬉しそうに歩いている様子からは、少年らしい情緒が感じられた。


 少年は(あくまで憶測だが)、栄介に不思議な魅力を感じたのかも知れない。少年が一度だけ栄介達の方を振り返った動きには、それを思わせる確かな雰囲気が感じられた。「アイツとはたぶん、また何処かで合うだろう」と。そしてまた、「今回のように相まみえるだろう」と、そんな思いが密かに感じられたのである。


「次に会った時は、絶対に負けねぇからな!」


 少年は「ニコッ」と笑って、自分の正面にまた向き直った。


 栄介は、その気配に気づかなかった。その後ろを歩いていた仲間達も。彼らは遙か彼方に見える山脈、何処か不気味な雰囲気の漂う山脈を目指して、自分の正面をただひたすらに眺めていたからである。だから、少年の動きにもまったく気づけなかったのだ。


 彼らは栄介を先頭にして、荒野の中を黙々と歩き続けた。荒野の中は静かだったが、その支配者が居なくなった事もあって、景色の内容自体は変わらないものの、そこを漂っている空気が何となく変わったように感じられた。荒野の中にちらほらと見えていた小動物達はもちろん、彼らの頭上に時折現れる禿鷲達も、栄介達の事をチラッと見たり、その上空から何度か見下ろしたりするだけで、それ以上の反応はまったく見せない。ただ、荒野の珍客をじっと眺めているだけだった。


 栄介は、その感覚に微笑んだ。周りの動物達から見られている感覚は無くならないが、それでも謎の罠に嵌まっている状況よりはずっとマシである。自分達の行動を逐一観られ、そこから面倒な事態に巻き込まれるよりはずっと。程良い緊張感と難解過ぎない謎解きは、冒険に一種の味わいを加えてくれるが、それも度が過ぎれば、ただの不満要素になってしまう。今回の罠はそれ程でもなかったが、それでも苛立った事には違いなかった。



 栄介はその真理に肯きながらも、それを決して否めようとはしなかった。特殊操作で一瞬に終わらせられるゲームは最早、「ゲーム」とは言えない。ゲームの名を借りた作業だ。自分は、この世界にそんな物は求めていない。

 

 栄介は流れ行く景色を眺めつつ、荒野の終わりを目指して歩き続けた。荒野の終わりに辿り着いたのは、それから数日後の事だった。対象物があまりに大きかった所為で、その視覚から覚えた距離感よりも、ずっと多くの時間が掛かってしまったのである。三人の中で最も普通なサフェリィーも、荒野の中から抜け出した時には、流石にくたびれた顔で笑っていた。

 

 サフェリィーは背中の鞄を背負い直し、額の汗を拭って、正面の栄介に話し掛けた。


「やっと抜け出せましたね?」


 栄介は、その声に振り返った。


「本当、やっと抜け出せた。地面の上に寝そべって、そこから見た夜空は綺麗だったけどね?」


 それもずっと楽しめるわけではない。荒野の中から抜け出すまでずっと晴れていたから良かったが、そこに雨でも降ったら最悪な気分を味わうだろう。あそこには、雨をしのげる場所が無いのだ。


「天気が変わらない内に出られて良かったよ」


 周りの二人も、その言葉に頷いた。


「本当に」


 二人は互いの顔を見合い、そしてまた、栄介の方に視線を戻した。


 栄介は、山の入り口に視線を移した。山の入り口は広いわけではなかったが、それらしい山道が整えられていたお陰で、山道の雑草に少しばかり困らせられたものの、それ以外特に困る事はなかった。彼らの周りに生えている木々も、針葉樹林と広葉樹林(らしき物)とが入り交じっていたが、木々の樹皮に留まっていた虫が普通な感じだった事もあり、特に驚く事もなく、そこの山道をゆっくりと歩く事が出来た。

 

 三人は栄介をやはり先頭にしつつ、時折聞こえて来る鳥達の囀りや、それらの鳥達が飛び交う羽音、茂みの中から飛び出した小動物が反対側の茂みにまた飛び込む姿や、蜻蛉トンボらしき虫が自分の隣を横切る光景を眺めては、山の中をのんびりと歩き続けた。

 

 サフェリィーは、自分の左手に見える花を指差した。


「お二人とも。ほら、見て下さい」


 二人は、その声に応えた。


「なに?」


「あそこの花、とても綺麗です」


 確かに綺麗だ。花の形はタンポポに似ているが、それよりも少し高貴に見える。花に詳しくない素人がプロの花屋から「これは、高級なタンポポです」と言われれば、ほとんどの人が「それ」を信じるだろう。「そうなんですか」と言って、すっかり騙されてしまうに違いない。


 栄介はその花をしばらく眺めていたが、そこに何処からか蝶らしき虫が飛んで来ると、今度は楽しげな顔で、その蝶を眺め始めた。蝶はストローのような口を伸ばし、花の真ん中辺りにそれを刺して、その蜜をしばらく吸っていたが、ある程度吸い続けると、口のストローを引っ込めて、花の前からスッと離れて行った。


 栄介は、その光景から視線を逸らした。ああ言う光景は、いつ見ても癒される。あの蝶がこれから何処に飛んで行くのかは分からないが、森の中を静かに舞い続ける姿からは、こんな危険極まりない世界の中でも懸命に生きようとする意思、確かな命の脈動が感じられた。


 


「その意味では、人間が一番情けないかもね?」


「はい?」と驚いたのは、彼の声に瞬いたサフェリィーである。「情けない?」


 彼女は栄介の言わんとした事を考えたが、いくら考えても分からなかったらしく、最初はただ首を傾げていただけだったが、彼がゆっくりと歩き出すと、それに続いてキョトンとしながら歩き出した。


 栄介は、今の山道を歩き続けた。山道の途中で分かれ道がいくつかあったが、そのどれもが怪しく、またどう見ても獣道だったので、一番安全そうな今の道を歩き続けたのである。彼は後ろのサフェリィーがあまり疲れない程度に、自分の歩調を何度も変えては、周りの風景を何度も確かめ続けた。周りの風景は……まったくではないが、あまり変わらない。太陽が雲に隠れるのと合わせて、周りの明暗が変わる事以外は、変化らしい変化は、ほとんど見られなかった。サフェリィーが先程見つけた美しい花も、今ではまったく見られず、代わりに陰鬱な雑草ばかりが見られる。


 栄介は、その光景に溜め息をついた。


「つまらないな」


 せっかく自然溢れる場所に来たのに。これでは、荒野と同じだ。渇き切った大地が広がる荒野と。何もかもが干上がった領域と。ここは「緑」の意味では荒野よりも勝っていたが、それ以外の部分では……いや、そんな事はない。少なくても、そこから見えた景色は。


 栄介は山道の途中で止まり、そこから見える景色を眺めた。ホヌスやサフェリィー達も彼に釣られて、その景色を眺めた。


 三人は、その景色をぼうっと眺め始めた。自分達の歩いて来た道筋を振り返る景色、人の手が排された自然溢れる景色。景色の中には天と地が描かれ、それぞれに美しい世界を形作っていた。天には空と陽と雲の世界を、地には山と森と土の世界を、自然の染料を上手く使いつつ、一枚の絵画を描いていたのである。


「すごい」


 栄介は、目の前の景色に息を飲んだ。これは、文字通りの絶景だ。どんなに高画質な画面でも決して映し出せない、自然が自然としてのみある絶景である。


「こんな景色は、初めて見た」


 栄介はそう言いつつ、自分の心が満たされるのを感じた。


 ホヌスは、その横顔に微笑んだ。どうやら、彼の心を読んだらしい。


よ」


「自然の真似事?」と驚いた栄介だったが、彼もまた、彼女の心を何となく読んだらしい。「そう、かもね」


 栄介は「ニコッ」と笑って、ホヌスの方を向いた。


「あるいは、自然に対する反抗心かも知れない」


 ホヌスはまた、彼の反応に微笑んだ。


 サフェリィーは、二人のやりとりに首を傾げた。別に難しい事は言っていなかったが、彼女にはどうも難しい会話だったらしい。


「お二人が何をおっしゃっているのかは分かりませんが。魔王の方がずっと怖いですよ」


 二人はその言葉に驚いたが、やがて「フフフ」や「ハハハ」と笑い出した。


「そう言う意味で言ったんじゃないんだけどね」


 サフェリィーはそう言われても尚、二人が言わんとした事が分からなかった。


 二人はその反応にまた笑ってしまったが、それも長くは続かなかった。サフェリィーが二人の反応に「え? え?」と戸惑った所で、空の太陽が雲に隠れてしまったからである。太陽が隠れてしまった空は、青の色がより青く感じられた。その影響を受けた地上も、何となく陰鬱に見える。太陽の光を奪われた地面は、雨が降ってもいないのに何処か薄暗く見えた。


 栄介は、今の場所からそっと歩き出した。


「行こう」


「そうね」と、ホヌスも頷いた。「景色の魔法は、消えてしまったし」


 二人はサフェリィーの足を促して、今までの山道をまた進み始めた。山道は、何処までも続いた。山の中を右に行ったり、左に行ったり。人間が人間の押す荷車(この世界にはたぶん、自動車は無いだろう)が進み易いように整えられた山道は、現代社会の道路がそうであるように、落下防止の処置として、山の中を迂回するような造りになっていた。山道の表面が歩き易くなっているのも、その意図から成されているのだろう。あの荒野が出来る前は……少なくても魔物の罠が仕掛けられる前は、ここは山越えや行商人達の交通路だったのかも知れない。


 栄介はそんな事を考えなら、彼らの足音をそっと思い浮かべたが……。「見て」と、ホヌスの声に「それ」を遮られてしまった。


 ホヌスは列の最後尾から、山道の先を指差した。山道の先は、左右の分かれ道になっている。


「あそこ」


 栄介は、彼女の指差す先に目をやった。


「他に道は、無いようだね?」


「どうする?」


 栄介は、その返事をしばらく考えた。「どっちに行けば、正解なのか?」と。だがそれも、数秒後には「まあいいか」と思い直していた。「別に急ぐ旅でもないし。間違ったら、元の道に戻れば良いんだ」


 栄介は自分の勘で、左の道を選んだ。ホヌスやサフェリィー達も、その後に続いた。三人は不安も何もなく、栄介の選んだ道を歩き続けた。栄介の選んだ道は、地味だった。周りの景色にも面白みが無く、木々の枝が風で揺れたり、誰かの踏んだ枝が折れたりする音以外は、音らしい音が何も聞こえて来なかった。雲の中に閉じ込められていた太陽も、そこから抜け出した後は、三人の進む山道に陽を当て続けるだけで、それ以外の変化を見せない。すべてが一定、文字通りの平穏に保たれていた。


 栄介は、その平穏さを悔やんだ。


「右を選べば、良かったかな?」


 そう思う栄介だったが、そこは物語の世界。暇つぶしの相手は、向こうからやって来る。彼らの後をそっとつけるように、自分の身体をニョロニョロと動かして。


「ハッ!」


 ホヌスは、その気配に気づいた。


「栄介君」


「なに?」


「何か来る」


「何か?」


 栄介は、索敵の力を使った。索敵の力は、その何かを捕らえた。


「数は、一。どうやら、群れで来る相手じゃないっぽいけど」


 危ない事には、変わりはない。


「サフェリィーは、僕の後ろに。ホヌスは、彼女の事を守って」


 二人は、彼の指示に従った。


 栄介は意識の中から剣を取り出して、その相手が現れるのを待った。その相手は、すぐに現れた。自分の住処から(おそらくは)スッと出て、山道の地面を這い、頭の部分に付いている特殊な器官を使って、今日の食事にそっと近づくように。そいつは栄介が自分に気づいていたのを知ると、最初は微妙にたじろいだが、すぐに鋭い眼光で栄介の事を睨み付けた。


 栄介は、その眼光に怯まなかった。数多の強敵と戦って来た彼にとって、こんな眼光などなんて事はない。寧ろ、不思議な高揚感すら覚えてしまった。単調に続く平和も良いが、こう言う定期的な刺激もまた良い。冒険に必要なのは、この何とも言えないリズム感なのだ。


「フッ」


 栄介は、腰の剣から剣を引き抜いた。


「次の獲物は」


 この大蛇。

 全長が10メートルはあるだろう、巨大な蛇である。


「どっちが、自分の腹を満たすか?」


 蛇は言葉の意味こそ分からなかったようだが、その敵意は感覚的に感じ取ったようだ。


「シュルルル」


「サシの勝負と行こう」


 栄介は地面の上を蹴って、今の場所からサッと飛び上がった。

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