第41話 歪んだ荒野

 少年達が徒歩で栄介を追い掛けるのは考えにくい。おそらくは自分の馬を使うのだろうが、出発までの準備や時間を考えても、栄介に追い着くのはそう簡単な事ではなさそうだった。都の外には、様々な危険地帯が待っている。亡者達がさまよう墓地だったり、海獣が住む湖だったり。一見は美しく見える山々にも、人間を脅かす怪物がそれこそ山のように居た。彼らがこれから馬で駆けようとする道々には、それらの危険が至る所に潜んでいたが、その恐怖に脅えていては、自分達の役目を果たせない。女王から頼まれた命令を果たす事も。彼らには、自分の命に代えても果たすべき責務があるのだ。


「よし、行くか」


 彼らはナウルを先頭にして、それぞれの馬を走らせた。彼らの馬は、速かった。都から続いている石畳の道路を通り過ぎた様子も、そこから数キロメートル先にある自然の道を走り抜いた様子も、栄介の歩く速さを遙かに超えている。遙かに超えているが、何故だろう? 物理的な速度は圧倒的に勝っている一方、その根幹には決して追い付けない、見えない隔たりのようなモノが感じられた。それこそ、人間と悪魔の差を見せつけるように。栄介が自分の後ろを振り返った態度にも、少年達の気配に気づいたわけでないが、何処か余裕のようなモノを感じられた。



 栄介は後ろの少女達、特にサフェリィーの身を案じた。


「大丈夫?」


「え?」


「朝からずっと歩いているからね。結構疲れて来る頃だろうし、そろそろ休憩にしようか?」


 サフェリィーはその言葉に戸惑ったが、身体の疲れを急に感じたのか、最初は「い、いえ」と拒んでいたものの、最後には「は、はい」と頷いた。


「申し訳ありません」


 栄介は、その謝罪に首を振った。


「気にする事はないよ。別に無理する旅でもないんだからさ」


 焦る必要はない、と、栄介は言った、


「危ない時以外は、ゆっくり進んで良いんだ」


 サフェリィーは、その言葉にホッとした。「栄介がそう言う人間ではない」と分かっていても、主従関係の呪縛からまだ抜け出しきれない彼女にとっては、主人の行動について来られない事、あるいは、叶えられない事が、心の何処かで負い目になっているらしく、こう言う事がある旅に「申し訳ありません」と謝りがち……いや、「ほとんど謝っている」と言った方が正しいだろう。栄介が見つけた座りやすそうな場所に座った時も、彼にまた「申し訳ありません」と謝って、自分の足下に目を落としてしまった。


 サフェリィーは暗い顔で、自分の足下をしばらく見下ろし続けた。


 栄介は切り株の上に座り、頭上の空を見上げて、それから周りの風景を見渡した。周りの風景は、綺麗だった。頭上の空が晴れているお陰で、周りの木々はもちろん、足下の草花も鮮明に見えている。その草花が色鮮やかに咲き誇る姿も、日差しが葉の葉脈を光らせている光景も、その風景をより綺麗に彩っていた。


 まるで写真と絵画を混ぜ合わせたように、なんて比喩は少し大袈裟かも知れない。栄介が住んでいた現代社会にも、こう言う風景は山ほどある。彼自信が探さなくても、風景の方から彼に飛び込んで来るのだ。ある時はテレビ画面の向こうから、またある時はふと何気なく見た観光のガイドブックから、無意識の反応を通して、見てもいないのに見たような感覚を味わわせるのである。「でも」

 

 それは、誰かの作った景色でしかない。誰かの切り取った人工物でしかない。自然は自然のままでいるからこそ自然であって、そこに加工が施されたり、自分勝手に切り取ったりすれば、それはもう、自然ではなくなってしまうのだ。それがどんなに精緻であっても、生身の身体で味わった自然以外は、自然の姿をした模造品なのである。

 

 栄介は目の前の自然に喜びつつ、サフェリィーの疲れがある程度取れた所で、切り株の上から立ち上がり、ついでにホヌスの足も促して、今の場所からゆっくりと歩き出した。ホヌスやサフェリィー達も、それに続いて歩き出した。

 

 三人は栄介を先頭に、なるべく安全そうな道を選んでは、森の出入り口を目指して歩き続けた。森の出入り口に着いたのは、それから数日後の事だった。彼らは森の中から出ると、何とも言えない表情で視線の先を見つめた。視線の先には、だだっ広い荒野が広がっている。痩せ細った木々がぽつんぽつんと生え、水たまりのような池が、その淋しい風景と重なって、茶褐色の荒野をより荒野らしく染め上げていた。

 

 三人は、その風景に暗くなった。荒野のずっと先に山らしき物は見えていたが、それが荒野との間に明確な対比を作っていた所為で、せっかく高ぶっていた気分が、すっかり沈んでしまったのである。池の水が茶色に濁っていた事も、その気分に更なる憂鬱をもたらしていた。

 

 ここは、風景を楽しむ場所ではない。

 今まで見て来た風景にお礼を述べる場所だ。

 森の小川に手を合わせる場所である。

 

 栄介は自分の頬を掻いて、目の前の風景に唯々苦笑した。


「こいつは、興が削がれるね」


 残りの二人も、その言葉に頷いた。言葉には出さなかったが、二人もどうやら同じ気持ちだったらしい。「まったく」と呆れるホヌスの顔には、彼と同じ感情が浮かんでいた。「砂漠には、情緒があるけれど。荒野には、無味乾燥しかないわ」


 ホヌスは木々の枝から視線を逸らし、つまらなそうな顔で栄介の方に視線を戻した。


 栄介は、その視線に応えなかった。彼女の視線に応えなくても分かる。彼女は自分の足下から伝わる感触、乾いた土の感触に呆れ果てているのだ。先程から聞こえていた土の表面を蹴り付ける音が、何よりの証拠。彼女は足下の土を蹴り付ける事で、心の不満を何とか晴らそうとしていたようである。


「確かに。でも、今は」


 そう、進むしかない。この無味乾燥な世界を、ただ黙々と進むしかないのだ。


「止まっていても仕方ない」


 栄介は「うん」と頷いて、荒野の中に足を踏み入れた。ホヌス達も、その後に続いた。最初は躊躇っていたが、栄介が荒野の中を歩き出すと、流石に思い直したのか、ホヌスから順にサフェリィーも荒野の中を歩き出したのだ。三人は今までの順番を守り、列の真ん中にサフェリィーを置いて、荒野の中を黙々と歩き続けた。


 栄介は荒野の中を歩きつつ、その風景を何となく眺めた。鳥の囀りはもちろん、虫の声すらも聞こえない世界では、すべてが単調になってしまう。変り映えのない世界に飽き飽きしてしまう。靴底から伝わる土の感触にただ苛々するだけだ。時折見掛けるトカゲのような生き物や、何処からか飛んで来た禿鷲はげわしに驚く事はあっても、そんなのは単なる偶然、一時の気休めでしかない。単調な旋律に不協和音を加える、作曲家の悪戯でしかないのである。


「はぁ」


 栄介は、目の前の風景に溜め息をついた。風景自体に罪は無いが……それでも、つまらないモノはつまらない。敵はおろか、何かの発見すら無い風景には。


 栄介は意識の中から剣を取り出して、暇つぶしに「それ」をブンブンと振り回し始めた。


「『暇』って言うのは、人生の害悪だね?」


 少女達は、それに何も言わなかった。それ自体が質問なのか? それとも、単なる愚痴なのか? 彼女達には、その明瞭な線引きが出来なかったらしい。


 ホヌスは困ったような顔で、彼の背中に微笑んだ。


「害悪かどうかは、分からないけれど」


 から数秒程黙ったのは、彼女なりの答えを考えていたからかも知れない。


「まあ、色々ともったいないのは分かるわ。時間的な意味でも、そして、感覚的な意味でも」


「うん」


 栄介は、後ろの彼女を振り返った。


「ここら辺で、何か暇つぶしの道具でも見つかれば良いんだけどね?」


 そう言いながら、またブンブンと振り回す剣。剣は太陽の日差しを浴びて、その刀身を美しく煌めかせたが、それも一瞬の内に消えてしまった。剣が鏡になっても、面白くない。空間の空気を「シュッ、シュッ」と切り裂く音は、自然の中に無駄な抵抗を見せるだけで、その大本を何とかする事は出来なかったである。


「チッ」


 栄介は鞘の中に剣を戻して、この無益な遊びを止めた。


「こんな事をしていても、腕がただ疲れるだけだ」


 ホヌスも、その言葉に頷いた。


「そうね」


 ホヌスは彼の背中から視線を逸らし、栄介も無言の世界に入り、サフェリィーも二人の沈黙に従った。三人は太陽が自分達の真上近くまで登っても、時折見掛ける荒野の生き物達に驚く以外は、黙って地面の上を歩き続けた。


 ……そんな単調な流れに変化が見られたのは、ホヌスが周りの風景に違和感を覚えた時だった。


「おかしい」


 ホヌスは怖い顔で、周りの風景を見渡した。


「ここ、さっきも通ったわ」


「まさか」と驚いたのは、彼女の方を振り返った栄介である。「森の中を出てから、ずっと真っ直ぐ歩いて来たのに?」


 栄介はその場に立ち止まり、半信半疑で周りの風景を見渡した。周りの風景は今までと同じ、見渡す限りの荒野である。荒野の中に生えている木々はもちろん、僅かに見られる茶色い池も同じ、単調な風景をそのままに保っていた。


 栄介は、ホヌスの顔に視線を戻した。


「何もおかしくないよ? 


の」


「え?」


 それがおかしい?


「何処か?」


 荒野の風景が単調なのは……。


「何もおかしくないのに?」


 栄介は彼女の疑問にポカンとしていたが、その意図に気づくと、今度は慌てて周りの風景を見渡した。周りの風景はやはり一定で、そこには何の変化も見られない。荒れ果てた大地が、太陽の光に合わせて、茶褐色に光っているだけだ。


「でも」


「そこに大きな罠がある。異常を隠すのに最も適した方法は、それ自体が元々『異常だ』と思わせる事。周りの人達に『異常な事が普通だ』と思わせる事よ」


 栄介がその言葉で震え上がったのは、言うまでもない。栄介は変化の無い事、単調な風景自体が罠である事に異様な恐怖を覚えてしまった。


「こいつを仕掛けた奴は?」


「たぶん」


 魔王でしょうね? と、ホヌスは言った。


「こんな事をするのは」


 二人は、サフェリィーの近くまで下がった。彼女の身を守るためである。


「敵は、居ない」


「見えるモノだけが、敵じゃないわ」


「なるほど。なら、索敵の力を使うまでだ」


 索敵の力は前述通り、敵の正確な特性までは分からない。だが、その大凡は掴む事は出来る。それが一体、何を意味するかも。そして、そこから推し測れる情報も。栄介の掴んだ情報は、その予想を遙かに超えるモノだった。


「嘘、だろう?」


「なに?」


「こんな事が」


 栄介は強張った顔で、自分の仲間達を見渡した。


「僕達は、先入観を持っていた」


「先入観?」


「怪物は、土地の中に現れる。『怪物と土地は、別々の存在だ』ってね。でも、その考えは間違いだった」

 

 そこまで言えば、流石のホヌスも察しが付いたのだろう。彼女はサフェリィーの所にもっと近づいて、眉の間に皺を寄せた。


。つまりは、この土地自体が」


「そう」


「『一つの大きな怪物だ』って事」

 

 サフェリィーは、二人の言葉にオロオロした。どうやら、二人の言おうとする事が分からなかったらしい。


「あ、あの?」


「なに?」と、栄介。ホヌスも、それに続いて「どうしたの?」と返した。


 二人は彼女の事を守りつつ、その顔には決して振り返らなかった。


 サフェリィーは、二人の態度にもっとオロオロした。


「お二人の言う事が、イマイチ分からないのですが」


 二人はその質問に苦笑こそしたが、彼女の事を責めようとはしなかった。


 ホヌスは、後ろの彼女に話し掛けた。


「つまりね。この土地は、ただの土地じゃない。『土地の形をした怪物だ』って事。知らずに入った人を閉じ込める、あるいは、飢え死にさせる恐怖の怪物。私達が荒野の中で見て来た生き物達はたぶん、そのすべてではないにしろ、私達の事を餌にしている。見えない迷宮に迷い込んだ私達を……。彼らは私達が荒野の中で力尽きた瞬間、飢えに耐えられなくなった瞬間を狙って、その死角から襲い掛かって来る」


「え? そ、そんな!」


 サフェリィーは衝撃のあまり、思わず泣き出してしまった。


 栄介は、彼女の気持ちを慰めた。


「大丈夫。ここがたとえ、そう言う場所でも。突破口は、必ずある。魔王が仕掛けた罠なら尚更、『それ』を解く方法も絶対にある筈だ。そうでなかったら……例えば、自分自身が間違って罠に嵌まっちゃった時に抜け出せなくなるからね。自分の抜け出せない罠を張る筈がない。そう考えれば、ここから抜け出す方法も絶対にある筈だ」


 彼は彼女の頭を撫でて、その突破口が何処にあるのかを考え始めた。

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