第38話 蜘蛛の正体

 「蜘蛛は好きか?」と訊かれたら、迷わず「嫌い」と答えるだろう。巣を作る蜘蛛も嫌いだし、獲物を追い掛ける蜘蛛もまた嫌いだ。見つけただけで、思わず震え上がってしまう。その糸が身体に絡み付いたり、目の中に入り掛けたりした時も。


 栄介がまだ小学生だった時は(亜紀が自分の隣に居る手前、怖がる素振りは見せなかったが)不機嫌な顔で、蜘蛛の糸を払ったり、あるいは、地面に落ちた蜘蛛を踏み付けたりした。有りっ丈の殺意を込めて、蜘蛛の身体をグチャグチャにしたのである。それを見ていた同級生が、思わず震え上がってしまった程に。

 

 蜘蛛の事は、それだけ嫌いだった。


「くっ」


 栄介は、目の前の蜘蛛を睨み付けた。目の前の蜘蛛は、その見た目通りに不気味である。大きさの方は既に述べているが、鹿や猪はもちろん、牛や象すらも一飲みに出来そうな口は、「自は最強の悪魔」と分かっていても、根幹的な恐怖、言いようのない不快感を覚えてしまった。


 「害虫(蜘蛛は、「益虫」として知られているが)」を「害虫」として感じる心理は、古今東西、どんな世界に居ても同じらしい。普段は落ち着いているホヌスも、この時ばかりは不快そうな顔を見せていた。


 ホヌスは、自分の後ろを振り返った。彼女の後ろでは、サフェリィーがブルブルと震えている。目の前の蜘蛛を恐れるあまり、両目から溢れた涙を垂れ流しにして、自分自身の身体を必死に抱き締めていた。


「大丈夫」


 ホヌスは、彼女の涙を拭った。


「彼がすぐに片付けてくれるから」


「は、はい」の返事が、覚束ない。彼女の言葉は嬉しかったが、それでもやはり怖いようだ。「そ、そうですね」


 サフェリィーは身体の震えを必死に抑えて、自分の主人をじっと眺め始めた。


 栄介は、意識の中から三叉槍を取り出した。通常なら剣を使う所だが、サフェリィーの動揺が尋常でなかったため、「ここは、さっさと片付けよう」と思ったからである。左手から右手、右手から左手と使う手を変えて、自分の三叉槍をくるくると回し、それをある程度続けた所で、蜘蛛の方に槍先を向けたのも、サフェリィーの動揺を少しでも和らげようとする気遣いに加えて、蜘蛛の戦意を何とか削ごうとする意図が含まれていた。


 

 相手は、その声に応えない。ただ、栄介の事をじっと眺めていた。蜘蛛にとっては、そんな事はどうでも良い。目の前の敵を眺め続ける反応も、その獲物を確実に仕留める、あわよくば、ここに居る全員を食い尽くそうとする意思から来ているようだ。その証拠として、先程か真紅の目が何度も動いている。

 

 蜘蛛は自分の後ろに二、三歩程下がり、それから栄介に自分の武器を振り下ろした。


 栄介は、その武器を受け止めた。三叉槍よりは若干短い爪を、三叉槍の先で上手く受け止めたのである。


「力は、まあまあ、か」


 弱くもなければ、強くもない。遊撃竜よりは流石に劣るが、それでも強い敵には変わりなかった。戦闘経験の少ない人間では、まず勝てないだろう。槍先を押し続ける蜘蛛の爪は、人間の身体を引き裂くには充分過ぎる程の力があった。


「でも」


 それでも、彼の敵ではない。周りからは互角に見えている力も、実際は栄介の方が圧倒的に勝っていた。


「まさか、?」


 蜘蛛は、その言葉に反応した。言葉の意味は分かっていないかも知れないが、それでも舐められている事は分かったらしい。最初は様子見程度だった攻撃も、次の一撃には殺気が、「ナメナイ、デ」の声にも、敵を脅えさせる気迫が感じられた。「ニンゲン、如キガ」

 

 蜘蛛は完全に怒ったらしく、栄介の「こいつ、喋れるのか?」を無視して、彼に何度も自分の爪を振り下ろした。だが、栄介には当然通じない。爪の動き自体は速くなっても、それに勝る速さで躱されては、どんな攻撃もまるで意味を成さなかった。地面の上にただ、穴を作るだけの行為。その行為は本当に虚しかったが、怒り心頭の蜘蛛には、単なる行為の結果でしかなかった。

 

 蜘蛛は、自分の息を必死に整えた。


「ヒ、キョウ、者。ヨケテバカリデ」


「はっ」


 栄介はまた、自分の三叉槍をくるくると回した。


「避けるのも、戦いの内。敵の攻撃を素直に受けるのは、馬鹿のする事じゃないか?」


 まったくその通りである。何かの策がある時は別だが、普通は敵の攻撃を避けるものだ。自分からわざわざ食らいに行く者は居ない。


「そっちこそ、大丈夫なの?」


「ナニ?」


 栄介は、相手の反応に「ニヤリ」とした。


「僕はまだ、手加減している。自分の仲間を安心させるためにさ。戦いをわざと長引かせているんだ」


「ワザ、ト?」


 の意味が分かったのは……どうやら、ホヌスだけらしい。それ以外の一人と一匹は、「どう言う事だ?」と驚いていた。


 ホヌスは、自分の後ろをそっと振り返った。


「サフェリィー」


「は、はい! なんでしょう?」


「今の意味はね」


 ホヌスは蜘蛛の動きを窺いつつ、彼女の身体を守る形で、その耳元にそっと囁いた。


「『貴女に耐性を付けさせる』って意味なの」


「た、耐性、ですか?」


「そう」の声を大きくしたのは、蜘蛛を挑発する意味もあったのかもしれない。「『私達と旅を続ける』と言う事は、『こう言う事態にも慣れなければならない』と言う事。旅の途中で出会う敵は、蜘蛛だけはないからね。色んな敵と戦っていかなきゃならない。それがと、と。それらに一々脅えていては」

 

 ホヌスは、彼女に「クスッ」と微笑んだ。


「貴女の心が壊れてしまうわ」


 サフェリィーは、その言葉に押し黙った。……そうだ。自分は、確かに非戦闘員ではあるけれど。魔王を倒すパーティーの一員である事に変わりはない。あらゆる行動に危険が伴う。自分がこうして、ホヌスと話している瞬間にも。背後から襲って来た新しい敵に命を奪われてしまうかも知れないのだ。人間に踏まれる蟻のように。狩人に撃たれる野鳥のように。自分は今、そう言う世界を旅しているのである。


「う、うううっ」


 サフェリィーは、自分の両手を握り締めた。


「今はまだ、怖いけど。それでも」


 頑張ります、と、彼女は言った。


「この旅を続けるために」


 ホヌスは「クスッ」と笑って、その言葉に肯いた。


 サフェリィーは、栄介の方に視線を戻した。


 栄介はまだ、目の前の蜘蛛と睨み合っていた。


「フッ」


 蜘蛛は、その声に苛立った。


「ワタシハ、アノコノ、レンシュウ、アイテ、か」


 か、の部分が「か」と聞こえたのは、偶然だろうか? 今までは(エリシュとは、違う意味で)カタコトだったが、それが急に人間らしくなったのである。


「ふざけないで! あなた如きが!」


 蜘蛛は、口から糸を吐いた。


 栄介は、その糸に驚いた。この蜘蛛は巣を作らない、つまりは「糸を吐かない蜘蛛だ」と思っていたからである。それ故に彼の驚きも、尋常ではなかった。


「なっ!」


 栄介は一発目の糸を回避、二発目も難なく躱したが、三発目の糸に三叉槍を奪われてしまった。


「くっ!」


 蜘蛛は、その声に「クスクス」と笑った。


「油断したわね。あたしは、糸を吐くのに時間が掛かるの」


 そんな蜘蛛が居るのか? と突っ込みたかった栄介だが、「相手が化け物だ」と言うのを思い出して、その疑問にも迷わず肯いた。あの蜘蛛は(どう言う理屈かは分からないが)、糸の生成に時間が掛かるらしい。蜘蛛の象徴たる糸を作るのが。


「面倒くさい相手だね。まるで戦えば戦う程、能力が解き放たれて行くみたいだ」


 彼の想像は、強ち間違いではなかったらしい。最初は「え?」と驚いていた蜘蛛だったが、数秒後には「クスクス」と笑っていた。「『只者じゃない』と思っていたけど。あなた、なかなか良い勘をしているわね」


 蜘蛛は自分の吐き出した糸を巧みに操り、栄介に向かって彼の三叉槍を当てようとしたが……肝心の三叉槍が持ち上がらない。糸に加える力を変えても、三叉槍はびくとも動かなかった。


「こんな事って」


 有り得ない。そう言いたげな蜘蛛だったが、相手が丸腰であるのを思い出すと、それまでの混乱を忘れて、また余裕の態度を見せ始めた。あの槍にはたぶん、特殊な細工が施されているのだろう。人間には扱えるが、怪物には使えない何かが。そう考えれば、この不可思議な現象にも説明が付く。


 蜘蛛はそう考えたのか、三叉槍の事はすぐに忘れて、目の前の少年にまた襲い掛かった。


 栄介は、その攻撃に怯まなかった。三叉槍の補っていた攻撃力は削がれるが、意識の中にはまだ剣が残っていたし、現に意識の中から剣を取り出した後も、糸の脆い部分を見つけて、それを簡単に切り裂く事が出来た。


「なんだよ? 大した事ないな?」


 栄介は嬉しそうな顔で、鞘の中に剣を戻した。


 蜘蛛は、その動きに苛立った。相手の態度も気に入らなかったが、普通の剣に糸を切られたのも悔しかったらしく、「彼が何故、鞘の中に剣を戻したのか?」も分からず、それを「自分への侮辱」と勘違いして、普段なら決して失わない冷静な判断をすっかり失ってしまったようである。


「舐め、るな!」


 蜘蛛の怒りが頂点に達したのは、正にこの瞬間だった。不可思議な光に包まれる蜘蛛の身体、それと共に消える周りの糸。光は蜘蛛の身体をしばらく輝かせ、栄介達の視界もしばらく奪い続けた。その光が消えたのは、蜘蛛が不気味に笑い始めた時だった。


 栄介達は目が慣れるのを待って、蜘蛛の方に視線を戻した。視線の先には、一人の少女? 栄介やホヌス達と同じくらいの少女が立っていた。「あれは?」と言い掛けた栄介だったが、すぐに「なるほど」と肯いた。あれが本当の彼女、蜘蛛に擬していた彼女の真実だった。


 栄介は、剣の柄を握り締めた。


「蜘蛛に化けるなんて、趣味が悪いね?」


 少女は、彼の挑発に乗らなかった。


「蜘蛛は、多くの人間が恐れるから。あたしは、人間の怖がる姿が好きなの」


「にも関わらず」


「え?」


「君は、その姿を棄てた。わざわざ人間と同じ姿になって。それじゃ萌えさせる事は出来ても、怖がらせる事は出来ないよ」


「確かにね。でも、その方がずっと怖いでしょう? 元から怖い怪物よりも」


 蜘蛛改め、少女は「ニヤリ」と笑って、栄介の身体に飛び掛かった。


「人間の子どもに襲われる方が!」


「確かに」


 その方が怖い。こんな美少女に襲われる方が、蜘蛛よりもずっと恐ろしかった。蜘蛛の体毛と同じ緑色っぽい髪も、その髪型がふわりとしたショートカットなのも、肌の色が妙に白っぽい所も、女郎のイメージに合うような細身も、みんな恐怖を煽るのに充分過ぎる材料だった。


「でも」


 栄介は、やはり怯まない。彼女の爪がいくら襲って来ようと、余裕の顔で、それらの攻撃を躱し続けた。


「当たらない弾は、撃っていない弾と同じ。どんなに強い攻撃も、当たらなきゃ意味ないのさ」


「くっ!」


 蜘蛛はまた、眉間の間に皺を寄せた。今までも充分に怒っていたが、今回はそれ以上に切れてしまったらしい。


「だったら、必死に躱し続けてね? あたしの爪は、猛毒だからね。ちょっと触れたら」


「即、御陀仏か」


「御陀仏?」


 栄介は、相手の反応を笑った。


「『神様のお世話になる』って事」


「ふーん」と笑う蜘蛛少女。どうやら、御陀仏の意味が分かったらしい。「変な表現だけど。つまりは、そう言う事ね。この爪は、あなたの天国に導く案内役よ」


 少女は「キキキ」と笑って、栄介に自分の爪を振り下ろした。


 栄介は、それよりも前に動いた。相手の爪が動く瞬間を見切って……つまりは、居合いを使ったのである。日本刀の居合抜きと同じ要領で、腰の鞘から剣を引き抜いたのだ。


「遅い」


 居合いは、見事に決まった。日本刀とは違い、剣が直剣だったので、まったく同じとまでは行かないが、それでも相手を倒すには充分な威力だった。


 地面の上に倒れる蜘蛛少女。少女は悔しげな顔で栄介の事を睨んだが、受けた傷が思ったよりも深かったらしく、上手く立ち上がる事が出来なかった。


 栄介は彼女に止めを刺そうしたが、サフェリィーの事をふと思い出し、真面目な顔で鞘の中に剣を戻した。相手は確かに怪物だが、その見掛けが人間に近いならば、擬似的な殺人を見せるような気がして、不本意ながらも「ここは、止そう」と思ったのである。


「次に会った時は」


「う、ぐっ」


「容赦なく殺す」


 栄介は意識の中に剣を、続いて三叉槍も戻し、仲間の二人に目をやって、二人の足を促した。

 

 二人は、その意思に従った。

 

 三人は蜘蛛少女の前から歩き出したが、少女は三人の姿が見えなくなった後も、悔しげな顔で身体の痛みを耐え続けていた。

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