第22話 娼婦の値段

 質問の意図が、分からなかった。「自分を買った宿の場所を聞いてどうするのだろう?」と。心の不安が正常な思考を殺していた彼女にとっては、そう疑問に思うだけで精一杯だった。それ以外の事は、何も考えられない。


 窓から差し込んでいた光が少しだけ暗くなったのには気付けたが、それも偶々目に入っただけで、自分の力ではもちろん、その気配すらも感じる事ができなかった。すべては、彼女の想像を超えた所に。両手の拳が震えたのも、彼女自身が引き起こした動揺そのモノだった。


「え? あっ」


 どうして? と訊けたのは、それからしばらく経った時である。


「宿の場所を?」


 サフェリィーは栄介の目をしばらく見、そしてまた、自分の足下に目を落とした。


 栄介は、その光景にほくそ笑んだ。


「それはもちろん、君の事を買うためだよ?」


「え?」の声から数秒後。彼女はまた、自分の顔を上げた。「わたしの事を買うため?」


 栄介は、その声に肯いた。


「そう、君の事を買うため。君は、『娼婦』として」


 奴隷と言わなかったのは、彼なりの配慮だろう。


「宿に売られたからね。その代金はたぶん……取り分の方は分からないけれど、君の両親と宿への売主に振り分けられている筈だ。『君の両親にはこれくらい、売主にはこれくらい』って感じにね。君の両親はそれで、『金納』って言うんだっけ? 領主にその金納を払った。農奴の義務を果たすために、『君』と言う娘を犠牲にしたんだ。本当なら自分達が払うべきそれを、彼らは」


「やめ、て!」


 彼女は、椅子の上から立ち上がった。どんなに酷い親でも、彼女にとっては大事な親、自分を生んでくれた掛け替えのない二人だったが、やはり思う所があるのだろう。椅子の上から立ち上がったのは良いが、反論の言葉を探そうとした瞬間に、その言葉自体を見失ってしまったようだ。「うっううう」の声からも、その葛藤が窺える。


 彼女は悲しげな顔で、椅子の上にまた座り直した。


 栄介は、その光景に目を細めた。


「悔しくない?」


「え?」


「自分の人生を無茶苦茶にしたモノ、この世のすべてに対して」


「い、いや」と言い返す彼女だったが、内心では「う、うん」と思い直していたようだ。「くや、しい。どうして、わたしばっか。わたしも、みんなと同じように生きたかったのに」


 彼女は自分の頬に涙が伝っても、その涙を決して拭おうとしなかった。「その涙を拭ったら、自分は本当に折れてしまう」と言わんばかりに。


「本当に悔しいよぉ」


 ホヌスは彼女の所に歩み寄り、優しげな顔でその背中を摩った。たぶん、彼女の思いに何かしらを感じたのだろう。「貴女の気持ちは、分かるわ」の言葉も、満更嘘には思えなかった。「辛い経験をしたら、誰だってそう思う。貴女のそれは、至って普通の感情よ?」


 ホヌスは彼女の背中から手を放し、彼女に「クスッ」と微笑んで、また元の場所に戻った。


 サフェリィーは、その光景に目を見開いた。言葉では上手く言えないが、どうやら彼女の言葉に心を打たれてしまったらしい。両目から流れていた涙が止まったのも、その衝撃を充分に物語っている。彼女は二人の見せた態度、それが導く不思議な感覚にすっかり魅せられてしまったようだ。


「普通の、感情?」


「ええ」と肯いたのはもちろん、ホヌスである。「普通の感情。貴女は身体のきずに捕らわれてこそいるけど、その内面はまだ純粋なままなの?」

 

 ホヌスはまた、目の前の彼女に微笑んだ。


「私の言っている意味は、分かる?」


「分かる」と答えたのは、数分後の事。彼女の顔に僅かな生気が戻った時だった。「分かるよ、あなたの言っている事は。彼の言おうとしている事も」


 サフェリィーは、ホヌスから順に二人の顔を見渡した。


 二人は、その視線に微笑んだ。彼女は、やはり純粋な人間である。少年が好意を抱くには、充分過ぎる程に。彼女は「善」の部分は人並みだが、「純粋さ」の面では、人よりもずっと優れていた。こう言う人間は、いくらでも料理できる。彼女の心から余計な善を取っ払って、栄介が望む諸々を植え付ける事が出来るのだ。

 まるで善悪のない子どもに己が理想を教えるように、その人間を操り人形に……いや、自分の信者にする事ができるのである。信者は決して、自分の事を裏切らない。彼らは本来あるべき思考を捨てて、栄介に絶対の信頼を寄せてくれるのだ。それがどんなに狂った事であっても。彼らは文句も言わず、栄介の言葉にただ「うん」と肯いてくれる。


「ふっ」


 栄介は彼女の前に歩み寄り、「え? あの?」と驚くサフェリーを無視して、その手をゆっくりと引っ張り、椅子の上から彼女を立たせた。


「行こう、君の自由を取り戻すために」


 自由の言葉に戸惑うサフェリィーだったが、最後は結局「うん」と肯いてしまった。「行く」


 彼女は栄介の手に従って、今の場所から歩き出した。ホヌスもそれに続く形で、空き家の中を歩き出した。三人は空き家の中から出ると、サフェリィーの案内に従って、彼女を買った娼婦宿に向かった。娼婦宿は町の道路をいくつか曲がり、周りの建物が若干怪しくなり始めた、それっぽい宿屋街の三件目にあった。

 

 宿屋の正面には「天国へご招待(文字は、こちらの物が使われていたが)」と書かれた看板が掛けられてあって、その前には……恐らくは、彼女の事を追い掛けていた男達だろう。その全員ではなかったが、待機組と思われる数名の男が、自分達の周りをキョロキョロと見渡して、仲間の帰りを待つ一方、彼女がここに戻って来るかも知れない可能性を考えつつ、その気配を何度も確かめていた。

 

 サフェリィーは、栄介の手を握り締めた。どうやら、目の前の光景に怖じ気づいたらしい。


「あ、あの?」


「なに?」


「やっぱり、その」


 止めませんか? そう言い掛けた彼女だったが、栄介が「それ」に首を振るのを見て、その考えをすぐに改めてしまったようだ。ここで止めても、彼らはまた追って来る。今は二人の善意(若しくは、思惑)で何とか助かっているが、その二人が居なくなれば、元の木阿弥。せっかく掴めそうな好機が、自分の頬に当たった風と連れ立って、すっと居なくなってしまうような気がした。自分はもう、この二人に頼らざるを得ない。人間の心情を正確に描くのは難しいが、彼女が浮かべていた複雑な表情からは、その思いがひしひしと伝わって来た。

 

 彼女は不安な顔で、何度か息を吸った。


「何でもありません」


「そう」


 栄介は「ニコッ」と笑って、彼女の手を放した。


「なら、話しやすいように」


 どうするのか? その答えは、すぐに分かった。男の一人に殴り掛かる栄介。彼はあの時と同じく、自分に向かって来る男達を次々と倒しては、満面の笑みを浮かべて、二人(特にサフェリィー)が通り易いように、入り口までの通り道を作ってしまった。


「さあ、中に。大丈夫、全員気絶しているから」


 本当かな? と疑う必要はない。事実、地面の上に横たわる男達は、一人の例外もなく気絶していた。14歳の少年に鳩尾やら後頭部やらを「ストン」とやられて、全員が白目を剥いていたのである。ほとんど一方的に、何の抵抗もできないまま。その光景を偶然見ていた冒険者も、最初は「止めなければ」と思っていたらしいが、彼の圧倒的な力を見て、戦闘が終わった頃には、そこから一目散に逃げ出していた。

 

 サフェリィーは、彼の促しに従った。心の方はまだバクバク言っていたが、彼が男達をすべて倒してくれたお陰で、気持ちが幾らか楽になっていたらしい。彼女は入り口の扉を開けて、その中に入った。栄介達も彼女に続く形で、宿屋の中に入った。三人はサフェリーを先頭にしつつ、宿屋の中を進み始めた。

 

 栄介は、宿屋の中を見渡した。宿屋の中は、見るからに如何いかがわしい。下半身の欲求をそのまま具現化したような造りだった。内壁に塗られた桃色の塗料や、先程からチラチラと見て来る受付の女性も、その空気に混ざって、嫌らしい雰囲気を放っていた。


「ここはあまり、女性にはウケなそうだな」


 それ以外の感想は無い。その感想を聞いていた受付嬢も、僅かに「クスリ」としただけで、それ以上の反応は見せなかった。

 

 受付嬢は、目の前の三人に目を細めた。


「外がやけに騒がしいと思ったら」


 新人ちゃん、と、彼女は言った。


「原因は、アンタだね?」


 サフェリィーは、その声に震え上がった。「客の相手をする」と言う点では、彼女の方が身分的にも上だったが、生来の性格が災いして、その言葉に上手く言い返せなかったらしい。「ごめんなさい」の言葉にも、その動揺が如実に表れている。「ご迷惑をおかけ」


 受付嬢は、彼女の謝罪を遮った。


「別に謝って欲しくないから」


「え?」


「アンタは、ただの商品だもの。商品がただ、店の中から逃げ出しただけ。それが戻って来たのなら」


「待って下さい」と割り込んだのはもちろん、栄介である。「彼女は、ここに戻って来たわけじゃありません」


 栄介は、彼女の目を睨んだ。彼女も、彼の目を睨み返した。二人は互いの目をしばらく睨み合ったが、受付嬢が椅子の上から立ち上がると、その緊張がふっと消えてしまった。


ねえさんを呼んで来る」


「姐さん?」


「ここの主よ。あたしでは、判断できないからね。姐さんに報告して、その子の」


「分かりました。なら、そうして下さい」


 無言の返事。


 彼女は栄介の目を見つめて、それから店の奥に消えて行った。彼女が店の奥から戻って来たのは、栄介がサフェリィーに「大丈夫」と微笑んだ時だった。彼女は栄介の前に姐さん事、店の主を導いた。


「彼です」


「なるほど」


 姐さんはその若さからは考えられない、鋭い眼光で栄介の目を睨み付けた。


「アンタも災難だったね?」


「災難?」


「その子の問題に巻き込まれてさ。本当だったら、アタシ等が捕まえてお仕舞いだったのに」


 栄介が黙ったのは、今の言葉に苛立ったからではない。その言葉に「呆れ」を抱いたからだ。貴女達がこの子をいくら掴めても、彼女はまた同じ事を繰り返す。人間は自己が徹底的に追い込まれると、本来の性格を忘れて、大胆な行動を取ってしまうのだ。彼女達は、その心理をまるで分かっていない。


「捕まえた後は、どうするつもりだったんです?」


「それはもちろん」


 働いて貰うさ、と、彼女は言った。


「そう言う約束で、買い取ったんだからね。途中放棄は、許さない。この子には一生、男の身体に喘いで貰うよ?」


 最低な言葉だ。同じ女性に言う言葉とは、とても思えない。彼女の中にあるサフェリィーは、完全に奴隷以下の扱いだった。それを聞いて、啜り泣くサフェリィ。彼女はホヌスに自分の背中を摩られながらも、その優しさに上手く応える事ができなかった。「くっ、はっ」

 

 栄介はその光景に眉を寄せていたが、視線の方はあくまで店主に向け続けていた。


「いくら、ですか?」


「え?」


「彼女が娼婦として稼ぐ生涯の金は、いくらですか?」


「生涯の金?」


 姐さんは、彼の質問に「クスクス」と笑った。


「そんな物を聞いてどうするんだい?」


 今度は、栄介の方が笑い出した。


「聞いてどうする? そんなの、彼女を買い取るからに決まっているじゃないですか?」

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